【娯楽】幻の国家「モナー朝」【ネタ】@世界史 適当にまとめ その2

模奈亜国見聞録

218 名前:198 投稿日:02/12/16 12:51
 [ドコモ朝サイタマ]
 
 モナー朝の黎明期に滅ぼされた勢力の一つ。
 
 ドコモ朝サイタマはミカカ文化を代表する大国であったが、芸妓であるリョウコを
 外務大臣として起用したことが引き金となり、モナー朝の攻撃を受けた。
 
 科挙の試験を受けず不正に大臣となったリョウコを、伝統あるドコモ朝サイタマの
 外務大臣にするのは問題があるとして、モナー族は抗議の使節団を送ったが、
 ドコモ朝は逆にこれを削除の刑に処した。
 
 これを口実にモナー族は、ドコモ朝に不満を持っていた反リョウコ派のアメゾ族、
 ナミカレ族に呼びかけ、ドコモ朝への攻撃を開始した。
 
 世に言う[ドコモ(広末)の変]である。
 
219 名前:198 投稿日:02/12/16 13:01
 戦闘の初日、偵察部隊がドコモ朝サイタマの城壁に攻撃をしたが、敵将の関李任は
 彼らを容赦なく虐殺した。
 
 このため、モナー族はドコモ朝の友好国の商人に変装して城内に侵入しようとしたが、
 猜疑心が強い関李任に捕らえられてしまい、全て虐殺された。
 
 昼間の攻撃に成果がなかったため、モナー族は夜襲で戦う方針に変更した。
 
 モナー族は「深夜0時ちょうどに、リョウコを起用するドコモ朝サイタマを攻撃する」と
 反リョウコ、反ミカカ勢力の部族に呼びかけた。
 
 決行の夜、この呼びかけに呼応した部族たちが続々と駆けつけて、攻撃に参加した。
 ドコモ朝はモナー族たちの圧倒的な物量攻撃によって、一晩で壊滅的な打撃を受けて、
 ミカカ帝国へと撤退した。
 
 これによりモナー族の蛮勇は世界に広まり、恐れられるようになった。
 
 そして、これが口車ひとつで100の兵を10000の兵に変えてしまう、世界中から恐れられる
 「モナーの祭掛の陣形」の始まりであった。
 
 
229 名前:198 投稿日:02/12/17 12:14
 ナッチズム [Nachism]
 
 モナー帝国の初期にアーベ=ナシュミンが創始した宗教。
 帝国初期の「刺すか刺されるか」という殺伐とした風潮に異を唱えて、
 「マターリ」という中庸論を展開した。
 
 ナッチズムの特徴は、ただひたすらに「ナッチありがとう」と唱えることで、
 憎しみや蔑みの感情を捨て、無の境地に達するという思想だった。
 
 この思想は熱病のように帝国全土を覆い、至る所で「ナッチありがとう」
 という祈りが繰り広げられた。
 
 しかし、ナッチズムの場所を選ばない狂信的な布教活動には反発も強く、
 ナッチズムは帝国の自由な言論を荒らす行為だとして弾圧を受けて、
 ゲットー(隔離地域)へ移されてしまった。
 
230 名前:198 投稿日:02/12/17 12:15
 ゲットーに追放されたナッチズムの信者たちは、自らをゲッターと称して、
 挑発的な行為をする者に対し、スラブ系モナー語で「ニゲット(いいえ)」と
 軽い忠告をするだけの穏健派として生まれ変わった。
 
 その後、「朝の娘。」と呼ばれたナッチズムの後継者たちの活躍によって、
 「マターリ」の思想は帝国全土に定着した。
 
 ※「朝の娘。」は”笑いのダヤス””毒舌のアイボーン””喜びのリカッチ”
  ”無知の知ノノタン”などが有名。
 
 ※”リカッチ”は帝国の最大勢力で、詭弁家たちのよる”うんこ論争”は
  未だに結論が出ていない。
 
249 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/02/04 13:52
 >この思想は熱病のように帝国全土を覆い、至る所で「ナッチありがとう」
 という祈りが繰り広げられた。
 
 これが唱名念仏の元だとか、逆に唱名念仏が流入したものだという
 トンデモ説が昔あったなぁ・・
 ナッチありがとうは漢文史料だと「南地阿李賀陶」。
 南無阿弥陀仏と同じ6字だからだというのだが・・
 ノノタンが観世音菩薩だとかなんだとか凄いこじつけがされていた。
 『モナー朝から見た世界史〜煽りも荒らしも越えて』という本にあったよ。
 
 
232 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/12/23 13:58
 どなたかモナー朝の食文化について詳しい方はいらっしゃいませんでしょうか?
 イブン・バティストゥータの「三大陸蹴球記」では、米、牛肉、大量のねぎ、
 「ギョーク」と呼ばれる食べ物が主な食材だったとあるのですが、このギョーク
 とは何でしょうか。
 
 また、マララーコ・ポーロの「網方見聞録」によると、汁気の多い食べ物は大変
 嫌われていたとのことで、親子連れの旅行者がうっかり「汁気を多くしてくれ」
 などと口にすると刺されかねない雰囲気だったらしいのですが、乾燥地帯なのに
 モナー人はそれで平気だったのでしょうか?
 
233 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/12/23 14:12
 >232
 ギョークって「ウマーイボウ」とは別の食べ物でしょうか?
 
234 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/12/23 14:15
 イブン・バディストゥータって平文社当用文庫で出てたっけ?
 ノルベルト・フォン・ノイラートが書いた「惨半島巡回記」は手元にあるん
 だけど「三大陸蹴球記」はたしか民明書房館叢書だったか・・
 イブン・サマドゥーンの「世界史叙説」には、モナー人の風習にまつわる
 記述があるそうだね。
 
235 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/12/23 14:24
 >233
 >>56で述べられているウマーイーボーのことですか?
 56では、貴族階級の常食とされていますね。
 記録の中では、殺伐とした大衆的な食堂でのシーンにギョークが登場するので、
 おそらく別のものではないかと思われます。
 むしろ、>>126の挙げている「ネギダ・クギョク」との関連性が気になります。
 
238 名前:198 投稿日:02/12/24 16:23
 インドのシオジー朝で活躍した”吟遊詩人の神様”アミル=タシローによれば、
 モナー文学に多大な影響を与えた抒情詩「ソンナーコ・トヨリモ」に登場する
 ギョークが一番古い記録になるそうです。
 
 (「ソンナーコ」は代表的なモナー文学で、多くの人が習作をしたことで有名です。)
 
 
236 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/12/23 14:41
 >>199
 ゴミウリ朝ナベツーネ皇帝によるシオジ・イ事件のもみ消しで宣伝された事件らしいですね
 ゴミウリ朝はコヴァと合同でマスコミ州を牛耳り、コヴァ州、シソウ州にたびたび侵攻していたとか
 
240 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/01/04 16:35
 セイジ州では、タカハ信仰の一環として
 
 「ヒラサワカツエーマンセー
 
 「シンタローマンセー
 
 という謎の呪文が語り継がれていたとか
 一説にはゴミウリ朝やアフリカ土人の秘密結社ニホ・ンカイギの
 影響によるものと考えられているようです
 
241 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/01/04 16:37
 ゴミウリ朝とアンチ軍によるプ・ロヤキュウ州の壮絶な奪い合い
 
292 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/03/30 02:28
 マスコーミ州は一時的にコヴァ族が支配したモノの、
 この州独特の住民の疑り深さ・思想対立の激化・
 「敵は夜中に襲撃し朝に逃走せよ」(夜討朝駆)を合い言葉にした間諜行動により
 族長が襲撃され諸部族が乱立、
 1を旗印とし、剣の達人の勇猛な族長ムサーシーをかつぎ、
 「プロ・エクース」といわれる職人集団を駆使したドゥモゥ族、
 4を旗印としスポーツを重んじたヨーミ族、
 6を旗印とし、情報伝達に優れたティビー族、
 8を旗印とし芸能活動で人気があったサン・フージ族、
 10を旗印としてニダーを崇拝したアサピ族、
 12を旗印としてハンカーク州から移住したテレシプ族などの諸部族が抗争を続けた。
 これらの諸部族は、モナー朝最後まで戦いを辞めなかったと伝えられる。
 
 
242 名前:山崎渉 投稿日:03/01/11 13:08
(^^)
 
243 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/01/15 00:59
 当時の資料を調べていると>242のような落書きがたまにあります。
 これはただの落書き?
 
244 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/01/19 08:47
 >>243
 たまにというより、ほとんどすべての資料にあるような気がします。
 
 
245 名前:古代史記 投稿日:03/01/19 17:26
 モナー朝の文字の大きな特徴は表感文字もあわせて使われていたことです。
 モナー朝では表音文字表意文字、表感文字がありましたが、
 その中でも特に表感文字の発達と高度な洗練は特筆するものがありました。
 
 
246 名前:ぼるへす 投稿日:03/01/24 19:04
 モナー朝の近くにはウクバールという国があったはずだ
 
343 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/05/12 05:02
 >>246
 超遅レスだがウクバールとはまた渋い…
 『アラシとチュウボウは忌まわしい、世界を拡散させ増殖させるからである』
 
349 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/05/13 23:38
 >343
 「オルビス・テルティウス」にはモナー朝に関する記述はあるのかな?
 
 「東土見奇聞」には「サラセン人の地を離れて北東に百日行程」と
 モナー朝の位置が示されているが、一方ウクバールについては
 ヨハン・ファレンティン・アンドレーの本の題名※ にもなっているように
 小アジアに存在したことが確認されている。
 ちょっと離れているけど、交流はあったかもね。
 
 ※ 『小アジアのウクバールという国に関する、興味ぶかく読むに値する考察』1641年。
 
 
252 名前:ゲオルギコ・フッサールの書簡 投稿日:03/02/16 01:07
 モナー帝国はユーラシア大陸の中央部という民族・国家興亡が極めて激しい
 地域において何故1000年近くも、そしてそれ以後も存続しえたのであろうか。
 
 それはモナー族文化の恐るべき強靭さと柔軟さにあると私は考える。
 モナー語には表音文字表意文字、表感文字があるが、その中でも高度に発達
 した表感文字(アスキーアート)がその鍵を握る。
 
 (中略)
 
 基礎となったのはモナ五世(ぃょぅ雷帝)の治世である。
 モゥ=コネーヨ著「2ゲット」にて数秘術と線刻画との融合が図られ、
 「ィョゥ神線刻図」にて表感文字としての、線刻画の哲学的意味が完成された。
 また表音・表意文字がこれに一部融合し、独特の呪文にも似た単語・文脈体系
 を形成することとなった。表感文字はコミュニケーションを図る上で感情の共
 通化を容易にし、民族的統合あるいは異民族との宥和交流も容易にした。
 また表音・表意文字はその意味を抽象化簡略化させ、会話あるいは文章におい
 て表感文字と同様の能力を取得することとなった。
 
 (中略)
 
 以上のことから、彼らの文化は極めて神秘主義的になることは必然である。
 これはモナー族に一貫した文化的特徴である。
 
253 名前:ゲオルギコ・フッサールの書簡 投稿日:03/02/16 01:10
 しかし表感文字はその情報的密度の低さに問題があった。
 故に「ゴ・ジップ」運動も起こったのだが。
 さらに表感文字は極めて扇情的な側面があり、共通普遍の認識を
 生み出すと同時に、齟齬と誤解をも生み出すことになった。
 
 (中略)
 
 セクト化された国内と、それぞれの地域で興るマツリという宗教的な騒乱は、
 モナー朝の全期間を通じ治まることはなかった。しかしモナー朝が揺らぐことも
 なかった。モナー帝はこの文化の統治者管理者として、常に彼らの上に推戴され
 続けた。この手法が彼らに自治自活能力与えた。
 
 また自警団的な軍団を有機的かつ合理的に統括指揮し得た。
 彼らの敵は軍事的政治的なものではない。条理に会わぬ闖入者(アラシもしくは
 ドキュン)すなわち文化的なものだったのだ。
 
 (中略)
 
 そう、モナー帝国とは交易立国である以前に文化立国なのだ。
 そしてその文化は強靭さと柔軟さによって、永く失われることはなかった。
 故にモナー帝国はその寿命を永く保てたのだ。
 
                          ゲオルギコ・フッサール
 
254 名前:ヨハン@ハイデルベルグの哲学者 投稿日:03/02/24 16:14
 おぉ〜!なんと言うことだ!
 この世に表感文字というものを発明した文明があったとは!
 
 その昔東洋の東の果てにあるヤマトという民族がなんと表音文字表意文字
 両方とも駆使して高度な宮廷文明の華を咲かせたことは知ったいたが、
 
 モナー帝国では表音文字表意文字に加えてなんと表感文字まで使っていたとは…
 しかもその文字の悩ましいことと言ったら…  
 
 (;´Д`)ハァハァ 
 
 
255 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/03/07 02:34
 「age」や「sage」について。
 ageはスレを活性させる呪文という説が>>156で提出されていますが
 sageは何の呪文なのでしょう?黒魔法であると161さんは仰っていますが。
 
256 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/03/07 06:00
 >>255
 地下組織の合言葉だったという説もある
 
260 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/03/13 02:55
>>255
 それは邪教集団アラーシ・コヴァ族などを遠ざける呪文だったという。
 リョスーレの住人は衣服の襟元にこの文字を縫いつけていたという。
 だが、呪符の形で持ち運ぶという説もある。
 この説に従えば、
 当時の中後期ア・スキア・ト(現資料に従いこのように記述させていただく)様式の
 細密画のモナー人の中に、この呪言を身につけていないモノが散見されることが説明できる。
 しかし、その者達は、モナー人達の風習が飲み込めていない外国人だという反論があり、
 現時点では断言できない。
 
 また、リョスーレとは、単なる大都市のことではなく、
 ある一定の経済生産力とその質が認められた都市のことだという。
 つまり、リョスーレも、アラーシ・コヴァの攻撃や過剰な外国人の流入により、
 その名を奪われてしまうということになる。
 そのためリョスーレの者達は、呪文「sage」の力をもって
 そのリョスーレとしての地位を守ろうとしていたのだろう。
 
257 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/03/12 23:55
 モナー朝の中期頃太陽神を崇めるサイタマ族の力が最高潮に達した。
 彼らの民族性は凶暴で有名なオオサカ族とタメを張るほどの
 DQN(この言葉はまだ解読されていない。)っぷりを誇り、
 戦のさいには自分の民族の名を叫び三人一組突進していくという戦法で恐れられた。
 その様子は数々の文献に記録されているほどである。
 
 その後彼らは、サイタマ朝サイタマを作った。
 彼らの言語はサイタマという言葉だけで構成されていた。
 なお、このサイタマ族はモナー朝が滅びた後、日本に逃れ日本人と混血していったという。
 彼らの子孫は、とても凶暴だったため、武蔵の国の一部に隔離された。
 その地方はさいたまとよばれ今でも恐れられている。
 
258 名前:マルコ・ポーロ談話 投稿日:03/03/13 00:12
 こないだ幻の都オーミヤにいこうとして国道17号をいけどもいけども
 たどりつけないという恐怖の体験をしました。
 
 旅人よ。よくお聞き。
 オーミヤは恐るべきことにコーイキ行政の魔手によりサイタマに併合されたのだよ。
 そこでは全てが表音文字で語られる、ちょっと馬鹿っぽい街なのだよ
 
 
266 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/03/21 00:02
 最近、遺跡から『〜しませんか』という意味の言葉が書かれたスーレが多数発見されている。
 だが、肝心の「何をするのか」という部分がはっきりしない状態である。
 
 一説によると、男性同士による性交を行う際に呼びかけられる言葉だとも言われるが、
 モナー朝でホモが盛んだったかどうかも含めて、詳細は定かではない。
 
269 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/03/23 23:17
 >266
 
 「しませんか」碑文が大量に出ているのは、ヤオーイ遺跡だけだよ。
 その他に性的意味を持つと見られる絵画が多数発掘されたよね。
 この間の発掘調査会では、この遺跡が、
 「フジョーシ」若しくは「ド・ジンオンナ」 の集団居住地であり、
 『茂名記聞』巻7地理誌の
 「怖庶刺(フジョーシ)、古彌毛(コミゲ?)耶汚井(ヤオーイ)の地に移る」云々
 でいうコミゲヤオーイの地に当たるという推測が為されていた。
 
 
267 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/03/21 05:26
 多くの人口と豊かな文化を持つモナー朝であったが
 モナー朝の住民は毎年季節性の自然災害に悩まされていたようだ。
 
 かの地には"チュ・ボ"(未熟で無知な生き物の意)と呼ばれる
 イナゴに似た害虫が生息しており、
 このチュ・ボは毎年春、夏、冬に大量に発生して
 群れを成してモナー朝に襲来し
 住民が大切にするスレを喰い荒らしていった。
 
 住民はチュ・ボ対策に頭を悩ませたが
 結局チュ・ボの群れが過ぎ去るのを静かに待つしかなかったようだ。
 当時のテクストからはチュ・ボを罵る言葉や
 災害だからしかたがないといった意味の諦めの言葉も
 数多く見つかっている。
 
268 名前:267 投稿日:03/03/21 05:53
 補足
 上ではチュ・ボの名前の由来を
 "未熟で無知な生き物"であるとしたが
 チュ・ボの主な発生地が
 チュウボウの乱で有名な
 地方都市チュウボウ周辺であったことから
 "チュウボウの生き物"を
 チュ・ボの由来であるとする研究者も多い。
 
269 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/03/23 23:17
 >267
 
 あ、チュウボウの新しい説?
 過去ログを読むと従来説2説が出ているから見てみると良いよ。


272 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/03/24 15:19
 モナー朝に優れた鉄器を持つアラ人が進出してきて、モナー朝を滅ぼし、
 モナムー朝が成立した。生き延びたモナー人たちは東方に逃れて、新生モナー
 を築いた。かつての王都ナーラへの名残惜しさを込めてモナー人たちは首都に
 ヌエバ・ナーラと名付けた。
 
 アラ人が旧都ナーラに迫ってきたとき、モナー朝側が戦況不利と見るや、チョソ族
 の人々はアラ人軍を解放勢力として大歓迎し、賑わいを見せた王都ナーラはチョソ人
 の放火と略奪によって一夜にして灰燼と帰したのである。このとき、チョソ人たちは
 精巧な仮面をかぶり、モナー人を偽装したという史料が残っている。それを裏付ける
 かのように、ヌエバ・ナーラの壁画には、「仮面のチョソ」と呼ばれるチョソ人たちの
 裏切りを非難する絵があるのだ。
 
273 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/03/25 01:23
 壁画の一例
 . ∧_∧
 <=(´∀`)
 (    )
 | | |
 (__)_)
 
279 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/03/26 01:02
 東方に逃れたモナー人たちは新しい国作りのため交易に力を注いだ。
 ヌエバ・ナーラは水深の深い良港カズサキに恵まれ、季節風を利用して遠い西方に
 栄えるホロレデーナ王国と交易を行なうことができた。
 
 モナー人が短い期間の間に外洋航海可能な造船技術を習得できたのは、遭難して
 カズサキに漂着したホロレデーナ王国のオルドア修道会の人々に布教の許可を与えた
 見返りにオレガーノ船の造船技術を供与されたためである。
 
 ヌエバ・ナーラの商人リッザ・コニーツとオルドア修道会巡察師ノヴァライン一行を
 乗せた船団はアスキアート式陶器、スレ織物、ウマーイーボーなどの特産品を満載して、
 快晴の日にカズサキを出帆した。ホロレデーナ王国の港街ガブラウムに着くまで実に
 四年もの月日を要したと言う。
 
 ヌエバ・ナーラの古文書館には、遠いホロレデーナ王国から伝来した
 「ホーチンライ県の民謡」と呼ばれる古謡の史料が現存している。
 
 菩提樹の緑が濃くしげるその翳の下
 すわっているのは二人の男女
 耳元でささやく愛のことば
 愛を誓った 死ぬまでかわらないと
 
 遠い国におれは旅立ち
 七年ものあいださすらいだろう
 男がそうつぶやく
 ずっと待っていると女は答える
 
 (ホーチンライ県古謡)
 
 異国情緒あふれる古謡のすみに「西方ノ女ハ気長ニテ候」と小さな文字で書き込みが
 されているのを、注意深く観察すると見つけることができる。モナー人はどちらかと
 いえばリアリストが多かったのだろうか。
 
282 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/03/26 17:32
 モナー朝に東方正教が伝播してから雨だれが石を穿つほどの時間を閲した。
 
 ヌエバ・ナーラ聖ラヴィエス教会司祭オナカ・マチルーダの日記によると、地方の教会
 では巡礼に訪れる人々の数が少なくなり、財政難に陥る教会も現れはじめたと云う。
 
 こうしたことから、熱しやすく冷めやすいモナー人の信仰を昂ぶらせようと、古の聖者の
 記録を探し出す「聖人発掘運動(レンコン・ニカマエール)」が各地で行われた。
 
 『アヴァレン聖人列伝』の編者サグナーの言葉
 
 「書かれたもの、さなきだに口伝えの記録にさえわずかな痕跡を
  残してはいない何人かの聖者がいた。それも今では、神の大いなる
  助けと、祝福された兄弟たちの敬虔なる祈りによって、彼らの
  生涯を知るとともに、書き記すことが出来るのである。」
 
 
278 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/03/26 00:22
                    
 流石だよな俺ら
            ∧_∧
      ∧_∧  (´<_`  )       ( ´_ゝ`) /   ⌒i      /   \     | |      /    / ̄ ̄ ̄ ̄/ |    __(__ニつ/  FMV  / .| .|____        \/____/ (u ⊃    モナー朝の武将流石兄弟の壁画。(作戦会議中の図)  彼らはアラーシのブラクーラという罠にも恐れず突き進んでいく猛将だった。  その軍は一時は全板に広がる勢いをもっていた。  彼らは自信家で常に自分達の事を絶賛していた。  余談だが彼らの母は孟母と並ぶスパルタの母として知られている。     281 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/03/26 14:18  モナー朝はいくつかの州(バン)に分かれていて、それぞれ600弱の集落が  あったそうですね。しかし、どこが主都だったのか未だにわかりません。  「モナー州」というそれらしいところがあったようですが、そこの住人は他に  比べて非常に神々への信仰が厚かったことくらいしかわかっていません。  どなたか主都を特定した方はいらっしゃらないでしょうか。  あと、バンごとに治安が全く違い、「チイーキ州」が比較的穏やかだったのに対し、  例えば「タブ・アコ州」では争いの耐える日が全くなかったとか。   285 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/03/27 01:09  【モナター共同】  最近タバコ遺跡のモクステマ1世を祭るピラミッドの飾り石に  ギコ=トテックの皮を被りケツァルモナトルに扮して踊るモナ神官  と推定される線描画が発見された。専モナ家はモナー文明の影響  が新世界にまで及んでいたことの証拠として祭りage中。           ∧,,∧         ミ,,,,゚Д゚彡.〈〉        /人´∀`) ||        と) ~~~~~iつ||        んハソハツハ ||          ,(,,ノ(__) ||   286 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/03/27 19:24  >>281
 モナー朝の首都論争は、19世紀のゲオルギコ・フッサールの時代から
 現代までずっと続いている難しい問題らしいね。日本でも岡教授等が研究してる。
 東土見奇聞の記述から今までに何人もの歴史学者・考古学者がその位置を
 比定しようとしてきたけど、どの説も未だ定説に至っていない。
 
 『サラセン人の地を離れて北東に百日行程、何者も住まぬ
  砂漠の地を超えてさらに北に六十日行程の道を行くと、そこには
  大都市があり、そこに住む人々は自らを「モナー人」と名乗っている(後略)』
 
 一応この大都市こそがモナー朝の首都だったっていうのが定説なんだよな。
 せめて都市名でも書いてあれば手掛かりにもなったのだが、
 都市の特徴も何も書かれていない上、モナー朝崩壊後グ・ジップの解読法が
 失われたことによりその比定は非常に困難なものになってしまった。
 
 ただ一応俺は、岡義古東京擬古大学教授の唱えるヤキーン州説を支持してる。
 岡教授は実際にゾヌに乗って東土見奇聞の記述通りの旅をして、その結論に達したらしい。
 
290 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/03/30 02:09
 >岡義古東京擬古大学教授の唱えるヤキーン州説を支持してる。
 おお、同志発見。今のところ「ミンナ、アボーン」という
 ヤーキーン・アル・ソーレーイケ
 (ヤーキーン・アル・ビグサーバーの一族で後にモナー朝最後の丞相となった人物)
 の碑文が出ているヤキーン州が首都という岡説は、鉄板だと思うよ。
 あと、岡義古『モナー朝首都の研究〜モナー探検記』厨房文庫は傑作だ。
 岡さんは日本に於けるモナー史研究の第一人者だよな。
 漏れ学生の頃岡さんの家まで遊びに行ったこと有る。
 奥さんの椎子さんも美人だよ。で、椎子さんが「ウーマイボー」を作ってくれた。
 なかなか美味かったぞ。
 岡さんによれば、ウーマイボーは州を統轄する長官である
 「サヴァー」が味を決定するモノとされており、州ごとに味が異なっていたそうだ。
 
293 名前:  投稿日:03/03/30 02:49
 >>290
 「ウマーイボー」について。
 これ、第一王朝時代に貴族階級を懐柔するために広められた
 もののようなんです。スパイスといえるモナモナの実について
 ですが、もともと嗜好品で精神依存性がある物質を含んでい
 ました。
 
 そんなことから新王朝にとっては都合の悪い食べ物だったようで、
 王朝過渡期に「悪魔の食べ物」という風説が流れています。
 第一王朝以後、表舞台から消えたのも無理からぬことかと思います。
 
 でもこのモナモナの実はもともと作付面積あたりの収量が凄く
 少ない上、水質・土質によって含有成分が変わりやすく(これが地域
 色を出しやすかった理由)、また連作も効かないものでした。
 これでは品質の維持もままならず、民間に普及するというまでにも
 至らなかったでしょう。
 
  
283 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/03/27 00:13
 モナー朝崩壊を食い止めた「ゆにっくす」とは一体、何者達なのでしょうか?
 
 当時の住民の日記を見ると、ほとんど例外なく、まるで世界の終末を迎えたかのような
 絶望の声でページ全部が埋まっているのですが、
 翌日には、まるで神が降臨したように「ゆにっくす」なる集団を褒め称えています。
 
 そもそもあのモナー朝が崩壊寸前にまで追い込まれた原因とは何なのでしょうか?
 
284 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/03/27 00:23
 >283
 そういえば当時の文献を覗くと「自身の肛門も閉鎖される(かもしれない)」と
 なにものかの執拗な書き込みがありますね。
 
 個人の肉体の異変と王朝の政治的状況がリンクする。
 不思議な時代です
 
294 名前:  投稿日:03/03/30 02:56
 >>284
 不思議というか、あれはただ単に、当時の閉塞感を生理的に表現しただけの
 ような気がしますが・・・
 
288 名前:  投稿日:03/03/30 01:51
 >>283
 
 >モナー朝崩壊を食い止めた「ゆにっくす」とは一体、何者達なのでしょうか?
 
 とある特殊技能を持ったバン(州)の人間達、その通称だったと考えられている。
 が、私はそれ以上の知識は無い。申し訳ない。
 
 >そもそもあのモナー朝が崩壊寸前にまで追い込まれた原因とは何なのでしょうか?
 
 諸説あるようだが、本質的なところはゲオルギコ・フッサールが>>253で語っているように、
 まず表感文字(AA)の情報密度の低さがあって、さらにAA陶器の「コピペ品」が氾濫したこと、
 AA陶器ではないが「キシュツ・ツゥ」という、絹布の「スレ」における「コピペ品」
 といえるものも爆発的に増加したこと。
 これらが原因であろうと私は考えている。
 またこれに対処できるだけの能力や通貨発行も当時は限界に達していた。
 その結果、供給過剰が齎され混乱・破綻を来たしたせいではないか。
 デフレーションの一種と考えてもよかろう。
 
 「グ・ジップ」運動というが、この「グ・ジップ」というのは、
 まぁある種の言語流通システムというべきもので、
 この運動も、過剰供給に対応するための相対的な通貨切り上げととれなくもない。
 
289 名前:  投稿日:03/03/30 02:02
 >>288
 言語流通システム→言語流通・処理システム

262 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/03/14 22:24
 『dat』とはなんでしょうか。
 質の良い『スレ』は規定の大きさ(基本的には1000(単位:レス)とされている)に
 なるまではここに行くことはないそうですが。
 
 また、単位ですが、『レス』の他に『KB』というものも使われていたとか。
 
263 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/03/15 23:52
 「ダット」とは「地獄」、また「倉庫」という意味で使用されていたらしいです。
 「捕らえた謀反人をダットに落とした」
 「犯罪者をダットの刑に処した」という記述がそこかしこに見られ、
 また「織ったレスをダットに置いた」という記述もありますから。
 
291 名前:  投稿日:03/03/30 02:15
 >>263
 
 「ダット」ですが、「仕舞う」もしくはその場所というのが本来の意味で、
 転じて「閉じ込める」「おとしめる」もしくはその場所、となったようです。
 我々の世界でも子供を蔵や押入れに閉じ込めるという懲罰がありま
 すが、それを考えるとよろしいかと。
 
 ちなみに>>288で述べた「グ・ジップ」ですが、どうもこの「ダット」に
 出し入れする処理技術のことのようです。
 
 
297 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/03/30 22:58
 「州」に相当する行政単位を「いた」にするか「ばん」にするかで、
 時々論争をしてたという記録があるね。
 結局、「どっちでも良いだろ」って事になったみたいだけど、
 えらくいい加減な国家だなぁ。
 
299 名前:  投稿日:03/04/01 03:56
 >>297
 用語の標準化政策の対象外だったようです。
 つまり「いた」も「ばん」も一種の方言かと。
 いいかげんというよりも、あの国ではそういうレベルの争い
 ばかりだったようですし、
 
 
298 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/03/31 10:10
 『マー・シー』と呼ばれる神についての詳細キボンヌ。
 もっとも、この名前は本名ではなく通称みたいなものだそうですが。
 
 
300 名前:  投稿日:03/04/01 22:36
 【後モナー朝】日本との関係
 
 文禄の役加藤清正に従軍した赤星志摩守文隆は、以下の様に書き残している。
 「北方ニ夷アリ。自ラヲ茂奈(モナ)ト称ス。熊耳ト覚シキ飾リアリケル套ヲ
  ヨク被リテ、其風体獣ニモ似タル。漢人是ヲ猫耳族ト呼ビタレバ・・・」
 これが日本側の文章にはじめて登場する、モナー族の記述と言われる。
 
 ともあれ日本人がモナー族とその国を知ったのはこの頃からで、秀吉没後、徳川
 家康は後モナー朝に積極的に近づく事になる。というのも、李氏朝鮮との戦後交
 渉が難航しており、後モナー朝に調停を頼む必要があったことと、満州において
 急速に勢力を伸ばしていた後金(後の清国)の事情を知るためであった。また直
 接貿易も考えていたという説もあり、越後の上杉家が転封させられたのもこれが
 一因であると言われる。
 
301 名前:  投稿日:03/04/01 22:36
 さて、当時後モナー朝は、ヌルハチの下統一を目前に控えた満州との対立が問題
 であった。後金(仮にここではこう呼ぶ)は労働力を確保するため、後モナー
 の制圧を検討していたからだ。朝鮮は明についており、後モナー朝は彼等の参戦
 を期待できなかった。
 そこでモナー26世(ギコ・ラクシュミー王女の子)は徳川家康に派兵要請を行
 った。1616年始めのこと。朝鮮他諸外国の関係悪化を懸念する幕閣の反対も
 あったが、徳川家康は浪人衆五千の派遣を決定した。大阪夏の陣のあった翌年で
 あり、家康にとっては浪人処理対策でもあったのだろう。
 
 日本軍は同年2月末に渡航、同年3月、モナー軍ニ万と共に侵攻したヌルハチ
 三万とウスリー江で対峙、撃退に成功する。一説にはヌルハチ軍は三十万と伝え
 られるが当時ヌルハチにそれほどの動員力はなく、誤記であろう。
 
302 名前:  投稿日:03/04/01 22:37
 この戦いの後、清と後モナー朝は和睦しこの問題はあっけなく解決した。
 モナー朝は和睦後も日本軍の遺留を求めたが日本側は拒否、軍を撤収させている。
 既に家康は死亡(1616年4月)しており、幕府としてはこれ以上介入するつ
 もりもなかったのだろう。後金としても明との決戦を間近に控えていたため、こ
 こで多くの血を流す必要はなかった。しかし後金は清国となってからも日本を仮
 想敵国と見なしており、この戦争はその遠因であったと言えなくもない。
 
 さて、以後清は封禁政策をとるのだが、これは父祖の地満州への朝鮮族モナー
 族の拡散を抑止するためであったといわれる。後金は対明進出に集中したかった
 事情があるし、こんな所で手をこまねいている場合でもなかっただろう。
 
 しかし康熙帝が即位してからは後モナー朝に朝貢を要求するようになった。
 モナー28世の時、モナー朝は清国の属国となり日本への国使の派遣もなくなる。
 日本では七代家継の時である。日本としては既に鎖国状態であり、半島や大陸へ
 の政策を積極的に行う必要も既になくなっていた。
 
303 名前:  投稿日:03/04/01 22:37
 【後モナー朝について】滅亡への道
 
 十八世紀以後、ロシアの支配権が東方に及ぶにつれ清国の影響は相対的に低下
 していく。東シベリア総督ムラヴィヨフは1850年にニコライエフスク港を
 建設した後、後モナー朝に対しての通商権を清国に求めている記録がある。
 そして1858年、愛琿(アイグン)条約で後モナー朝は両国の共同管理、黒
 竜江などの航行権も両国の管理化に置かれ、後モナー朝は事実上独立を失う。
 さらに1860年北京条約でロシアの支配地域となり、モナー38世・モゥダ
 メポ(※1)らモナー皇帝家は追放、後モナー朝は滅亡する。一家は満州地方
 へ移住したと伝えられるが、その行く末を確実に辿れる資料を筆者は知らない。
 
 ※1 モゥダメポは本名ではなく、『哀帝』の意味を持つ諡号とされる。
 
306 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/04/06 20:38
 【後モナー朝の末裔について】
 最後の皇帝哀帝の末路は前出のようによくわかっていない。
 現在確認されている子孫は、>180で言及されている擬古巴爾(ぎこはに)氏である。
 擬古氏の著書『後模名国紀』によれば、
 彼の先祖は37世宣宗アボ・ン(擬古阿暮)であるという。
 1858年の愛琿(アイグン)条約締結時、
 権利喪失を認め清朝の保護下にはいることを承認した宣宗は、
 国内守旧派により追放され、守旧派は哀帝モゥダメポを擁立。
 宣宗は北京へ移住し、ギコラクシュミー王女に因み擬古氏を称した。
 元来漢文に通じていた擬古氏は一族から科挙合格者も出したといい、
 この系統は代々続いた。
 現当主巴爾氏で既に15代目だという。
 
307 名前:306 投稿日:03/04/06 20:44
 ちなみに、擬古氏では哀帝のことを皇帝と認めず、
 1858年の愛琿(アイグン)条約締結時を以て滅亡としている。
 事実哀帝期には領土の主権を全く喪失しており、
 哀帝は後モナー朝の首都・マタリを見ることなく、
 ロシア領内の家でヒキのまま帝位につきヒキのまま追放されているのである。
 このため、後モナー朝の滅亡には2説有ることになっているのが現状である。
 
 
308 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/04/06 21:07
 ゲオルギコ・フッサールがなぜ、モナー朝研究に没頭するようになったのか気になる
 誰か教えてくらさい

310 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/04/11 22:09
 板(州)によって基本の姓名などがあったようですね。
 オーンソークのナナシサン、やナナシンサソイシューネンなど。
 これらも非常に興味深いですね。
 
311 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/04/12 07:01
 >>310
 これは、各板(州)に支配的な一族がいたと解釈できるのでしょうか?
 だとすれば、モナー朝はそれらの連合体と言う事になるのですかね
 
312 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/04/13 23:04
 いや、姓名のことはハンもしくはハンドルと呼ばれていて、
 >>310が言ったのはそのバン(州)固有の通名のことらしい。
 一族の一般名、あるいは個々の宗教一門信者の総称と
 いうべきなのかもしれない。
 
 ただ住民の中には固有の姓名をもつものもいて、これを
 コテ・ハンという。ただこのコテ・ハンは誰でもつけられる
 ものではないらしく、そのバン(州)で地位(発言力)のある
 ものだけに許されていたようだ。というのも、さまざまなバン
 でコテ・ハンが攻撃され消滅している記録が多々有り、
 相応しくないものには許されていなかったと推定されるのだ。
 
 だからこのコテ・ハン、あるいはハンは、姓名というよりもむしろ
 肩書きのようなものと考えられるのでは。
 
313 名前:山野野衾 ◆F6mxNHihgE 投稿日:03/04/13 23:18
 コテ・ハンとは別に多大な功績を挙げた特定の個人を崇拝して「カミ」と呼
 んだ例があったことが12世紀初めに天竺を目指した僧・当弁房照恵上人の
 記した「粟散西行記」(ぞくさんさいぎょうき)に記されています。
 コテ・ハンか否かはあまり関係が無かったらしく、どうも画期的な発想と実
 行力を持ち合わせた人物が自然とそう言われたらしい。
 日本語の神との類縁関係は不明ですが、多くの場合は姿と名残りの消滅と共
 に忘れられたそうです。
 
 
314 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/04/14 18:53
 モナー朝の祭祀官は「オニギリ」とよばれ祭りの際は
 「オニギーリワショイ」(ワショイ=万歳の意)と唱えながら独特の舞踊で現れたという。
 祭りの正確にあわせて○○ワショイと前半部が変化したという。
 (例;国王即位のときは即位ワショイ)
 オニギリは常に三人一組で祭祀を執り行ったという
 
318 名前:例の170 ◆vBOFA0jTOg 投稿日:03/04/15 02:23
 
 Mノ||M
 |()|.||()|
 ( / ⌒ヽ
  | | ~~~\
  ∪    ヽ
   | | |~~~
   ししノ
    :
    :
 
  ‐ニ三ニ‐
 
 パリの骨董屋で発見された、神聖モナー帝国時代のタペストリより抜粋。
 己が「世界最高の文化事業」と自負していた【神聖モナー帝国備忘録】なる「スレ」が
 完全な失敗に終わったのにショックを受け、首を吊っている図。
 製作年代は10世紀後半とみられる。
 19世紀後半、ジサクジエン公国の崩壊により流出した物の一つのようだ。
 
319 名前:例の170 ◆vBOFA0jTOg 投稿日:03/04/15 12:18
 モナルカンド
 
 モノクロの都、モナー世界のエメラルド、モナーの真珠との尊称が与えられている。
 モナー朝の”Saba(詳細不明。地方の意か?)”の州(バン)都と思われる。
 
 モナルカンドの歴史は古く、
 紀元前2000年ごろからモナー族の中で特に技巧に秀でた一派がそこに住居を定めた。
 彼らの才能は主に技術、芸術分野において発揮され、モナー朝の特産品、アスキーアート式陶器の生産量は、
 モナルカンドおよび属する州(バン)がモナー朝の全時代を通して9割を占める。
 特に「コピペ」品でない物はほぼこの州の生産である。
 
 文献に初めてあらわれるのはアレクサンドロス大王の武将、
 ニラチャェスの東方遠征時の記録であり、彼の書にはモナカンドと記載されている。
 彼らもこの都の美にはただただ絶賛するしかなかったようだ。
 
 7世紀には玄奘三蔵もこの都を訪れ、
 「大唐西域記」十三巻目まるまる一本を費やしてこの都とその美を書きつづったという。
 (現在失伝しているのは遺憾の極みである)
 
 その後8世紀頃に最盛期を迎える。
 この頃の中国やイスラムなどへのAA式陶器輸出は大変有名であり、
 フレーザー著「金枝篇」にも陶器の代名詞としてモナルカンドの名が伺える。
 
320 名前:例の170 ◆vBOFA0jTOg 投稿日:03/04/15 12:19
 しかし、誉められるところばかりではない。
 この州は、モナー朝において蛇蝎のごとく忌み嫌われた「アラシ」の本拠地でもある。
 モナルカンドに至っては住民の1/3が「アラシ」だったという
 (さすがにこの数字は眉唾だろうが)。
 しかもこの州、特にモナルカンドは「アラシ」に大して甘い政策を執り続け、
 他の州からしばしば非難を浴びた。
 
 「アラシ」に対して宥和政策を執った最大の理由は、住民の多数を占めていたからでも、
 彼らの復讐を怖れたわけでもなく、彼らの兵士としての能力に期待したからだ。
 「アラシ」は有事においては勇猛な狂戦士となる。
 そのため、この州における軍隊はモナー朝において最強の攻撃力を誇ったが、
 それに傲ったため、東方に勃興したドキュソへの総攻撃を立案するが、
 しかし遠征のため全軍集結していた時に、1220年チン・ソウダーンの軍に奇襲を受け、
 モナルカンドは完膚無きまでに破壊される。
 「アラシ」の軍は守勢に回ると途端に脆弱になるのだ。
 
 モナルカンドの復興は、
 1369年、モラーラ朝建国帝モラーラが州都と定め直すまで待たねばならない。
 モラーラの出自は謎に包まれており、ドキュソ系とも言われるが定かではない。
 モラーラの治世によりかつての繁栄(>>91のタピストリーはその繁栄ぶりが伺える一片である)を取り戻すが、
 やがてモラーラ朝の衰亡により、以後歴史の表舞台から姿を消す。
 
323 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/04/16 12:36
 モラーラ朝建国帝モラーラといえば、
 即位したときの名言「ヤメテヤレヨ!マターリシヨウヨ」
 (モナー語で、「争いを止めよ、安楽国を築かん」の意だという)が有名ですね。
 
324 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/04/16 14:20
 >>323
 だが、そののち繁栄したモラーラの子孫は、モラーラとは違って、
 安楽を好む一方で争いをも楽しんだらしいな。
 幅広い性格の種族だったようだ。それ故、反感を買うこともあったらしい。
 
330 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/04/24 08:36
 モラーラ朝とモナー朝とは対立しており、
 モラーラ朝に面していたモナー州・チョヘンエエ州ではしばしば交戦があった。
 
 モナー州の人々は絵が上手く、風刺画を多数かいていたが、その中には
 「モラーラは人種的に劣った奴ら」
 「丸耳(モラーラの蔑称)は2ではない。
  丸耳をこの地上から消し去らなければならない」
 など、強烈なモラーラ朝に対する罵倒が書かれていたというのである。
 
 モラーラ朝では美少女・賢女として名高い、
 建国帝の皇后・ノノ(朝の娘。のノノタンの末裔)に関しても、
 「ノノはゴリラのような不細工な女」などというような文言が見えており、
 戦闘の激しさを伺わせる。
 
 しかしこうした抵抗にもかかわらず、この二州はやがてモラーラ朝に征服された。
 二州を喪失したモナー朝は、この地域に於ける支配力を低下させ、
 それからほどなくして侵入したウイグルに国都を落とされ、
 滅亡することとなったのである。
 
 
321 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/04/15 15:31
 どなたかモナー朝の誇る霊峰「フー・ジャネイ山」について委細ご教示下さい。
 霊験あらたかでブラクーラから身を守る効果がある、
 或いは逆に魂を抜かれ笑い物にされるなど文献によって諸説あるようですが。
 
322 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/04/15 16:37
 >>321
 気になったので東土見奇聞を確認してみました。
 
 古代モナー神話では、
 最高神ひろゆきが「型痢」という奇病(自己同一性が失われる精神病の一種?)
 から民を守るためフー・ジャネイ山という霊峰をお作りになったのが始まりとされています。
 東土見奇聞では、フー・ジャネイ山にて魂を神に捧げることによって
 自我に目覚めることができるとされており、
 魂を抜かれるというのは民間での俗説・伝承の類でしょう。
 
 また、中世にはフー・ジャネイ山近辺を起源とする、
 触れただけで感染する「フー・ジャネイ山虎風」という
 伝染病が国中に流行し、多くの、特に人口の多い州が滅亡の危機にさらされたとされています。
 ブラクーラから身を守る効果は全くありません。何かの間違いでしょう。
 
 
325 名前:例の170 ◆vBOFA0jTOg 投稿日:03/04/16 22:50
 いまごろナンですが、
 
 >>78
 私は、拝金主義を戒め、素朴な信仰と愛郷心に立ち返れ、
 という訓戒として解釈しています。
 すなわち、
  ギコが一時「宝(カネ)」の魔力に取り憑かれたが、
  その後皆が大いに悲しむ姿に正気に返り、
  「宝」を捨て再び「2(神話における理想郷の意)」に回心した
 という意味の話かと。
 また、「2」には土地としての意味の他、風俗習慣の意味もあったようで。
 
 >>122
 「ヒロユキ朝2ちゃんねる」は、神話上の国家、理想郷です。
 上のように「2」として記述されることも多々ありました。
 すべてのモナー人の国家は、皆この国の後裔を自称しています。
 
 
327 名前:ニラ茶伝 投稿日:03/04/17 23:59
 モナー朝で、客人へのもてなし用に好まれた飲み物。
 精神病を含む万病への万能薬としてももてはやされたようだ。
 ニライムという植物の葉が原料らしいが、詳しい煎れ方は不明。
 ニライムの葉は、風呂に淹れたり、「二ラーメン」という食べ物の材料、果ては
 酒にも用いられたようだが…?
 ニライムは、茎が涙滴状に肥大化しており、そこに人の顔に見えるユーモラス
 な文様がある。そして、その根は朝鮮人参よろしく人型をしているらしい。
 これらの特徴から、ニライムはしばしばアスキーアート式の美術において擬人
 化された。
 モナー朝におけるその起源は、アレクサンドロスの武将、ニラチャェスによって
 ニライムの株とそれを飲む習慣がモナルカンドへもたらされた時に遡る。
 この歴史から、モナルカンドはニラ茶の本場とされる。
 また、ニラ茶を飲ませる店が各地にあったようだが、これはニラ茶は西方の
 異国情緒漂うモダンな飲み物とされていたためか。
 
328 名前:例の170 ◆vBOFA0jTOg 投稿日:03/04/18 00:00
 なお、ニラチャエスのこの業績を讃えるため、「ギコ=ハニャーン」に似せた彼
 の肖像をニラ茶用の缶には必ず描いたという。
 彼自身が大変なニラ茶の愛飲家であり、それとその普及に偏執的なこだわり
 を見せていた事もこの理由だろう。
 彼は後に神格化もされ、さらに背中に翼が生えたその姿がニラ茶園やニラ茶
 店の守護者として掲げられた。
 
 .  ∧w∧∬
   (,,゚Д゚ )旦
 . ⊂ヽ~゚.゚~γつ
  /@ゝ--<f
 ヽ〜 U U
 
 上はロンドンの好事家所有のニラ茶缶に描かれたニラチャェスの肖像画。10世紀製作か。
 
 
331 名前:例の170 ◆vBOFA0jTOg 投稿日:03/05/02 23:48
 モナー
 
  (\_/)  (\_/) (\_/)
 ( ´Д`) ( ´Д`)( ´Д`)
 (    ) (    ) (    )
 ( ヽノ   人  Y   人  Y
  し(_) (_(_)   し(_)
 
 モナー朝において領土獲得、または反乱を鎮圧した後の土地の統治者が決まるまで、
 暫定的にそこを治めておく事をその役割とした戦士階級。
 武を意味する『3』人一組で任地に着くのが決まりである。
 また、多くのモナー三達は、大耳族出身であったが、おにぎり族などの出身者も少な
 からずいたようなので、その出自が問われることはあまり無かったようだ。
 彼らは「タリー」(苦難多し)という言葉を日々つぶやき続けることで、その「暫定」
 という無力感に襲われがちな任務を誠実にこなそうとしたという。
 
 
332 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/05/04 21:42
   (*゚0゚;;) (名称不明)
 
 ごく一部の書物、石碑等に見られる正体不明の記号。
 「哀のシィ」となんらかの関係がある、ということしか判っていない。
 『(*゚0゚;;)の読み方は(*゚0゚;;)である』 や、
 『(*゚0゚;;)って最初は(*゚0゚;;)と(*゚0゚;;)ったけど、
  最近(*゚0゚;;)いと(*゚0゚;;)うように(*゚0゚;;)った』
 など、意味不明の用いられ方をしていた。
 今なお読み方が判らず、(*゚0゚;;)の書かれている文の解読は非常に困難を極めている。
 
 モナー朝に登場したばかりの頃は住人から嫌われていたようだが、
 次第に一部で信仰を集め、一部のスレにも織り込まれるようになったようだ。
 
 
333 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/05/05 17:14
 最近、モナー朝について学び始めたものですが、
 虐殺派とマターリ派の対立についてどなたか教えていただけないでしょうか。
 
334 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/05/05 19:27
 >>333
 『虐殺派』『マターリ派』というものは存在しなかった、
 というのが真相とされています。
 それぞれの『スレ』や『AA式陶器』の職人には、相手に対する蔑視等はなく、
 互いを職人として認めていたようです。
 中には、両系統の作品を作り上げる職人もいました。
 ただ、一部には相手の存在を否定したがる狂信的な信者がいたのは事実です。
 
 そして虐殺系マターリ系の『スレ』をひたすらコピーするだけの
 『コピペ・チュー』と呼ばれるいわゆる『アラシ』の存在が、
 ネタをネタと見抜けない『厨房』を煽る結果となり、
 虐殺、マターリそれぞれを信仰していた『厨房』の間で対立が起こったとされています。
 
 結果として、虐殺系の『スレ』や『AA式陶器』の市場は
 『厨房』や『コピペ・チュー』によって荒らされ、
 それを危惧した一部の職人により、シタ=ラバ地方に自治地区として『アブ州』が作られ、
 虐殺系の『スレ』などは主にそこで作られるようになりました。
 
 また、紆余曲折を経てマターリ系も荒らされる様になり、
 『アブ州』と同じ自治集団により同じ地区に『マタ州』が作られたとされていますが、
 こちらは記録が見つかったばかりなので、まだ細かい部分はわかりません。
 
 
335 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/05/05 20:03
 モナー朝では「嘘を嘘と見ぬけるものでなければ、モナーの民であることは難しい」と
 言われた様に、民人の間で本音が語られることが少なかったと聞いています。
 そのため、発言が真実である証しとして「調味料を示せ」と問われることがあるそうですが、
 この「調味料」とは何を指すのか判りますでしょうか?
 またこの「調味料を示せ」と問うた時、稀に「ギッ・コーマン」なる聖者がローブを翻して
 降臨するという伝承もあり、非常に興味深いです。
 
 
342 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/05/11 02:10
 >>335
 「調味料」・・・モナー語で「ソース」でしたか。
 近隣国の言葉で「アジ・モト」という意味だと解説されていたことから
 こう訳されているのでしたね。この「アジ」というのが確か・・・「風味、
 演出、論調」という意味で、「モト」というのが「土台、起源、由来」と
 いう意味でしたか。
 
 所謂「アラシ」が出鱈目なことをするのに対して、悪い味付けをして
 いる、その「モト」なるものを示せという・・・一種、悪霊に詰問する
 ような場面でよく登場します。「ギッ・コーマン」はそういうときに召還
 される、聖者というか聖霊のようなものだったと考えられています。
 
 
336 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/05/07 00:52
 各州によって織物「スレ」が全く違うことは周知のとおりですが、
 一部、多数の州で似たようなものを作っていたようですね。
 「ジョ・ジョ」「カ・イジ」「バキ」などで、メッセージは異なるが
 全く同じパターンで織られたとか。
 
337 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/05/07 12:05
 >>336
 架空の王、ムスカを崇拝する民が他を圧倒しましたね。
 
 
338 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/05/08 20:07
 このモナー朝の民というのは、何と言うべきでしょうか、一種の盲信者が
 非常に多い気がするのですよ。だから「マツリ」だの何だのが連続して
 歴史となっているんじゃないかと。でも、それでいて文化的な連続性と
 普遍性が保たれ続けている。不思議なんですよね。こういう社会だと
 大抵、混乱と退廃が訪れるものなんですが・・・ひょっとすると、我々の
 認識が間違っているのかもしれないですよ。これらは宗教的なものでも
 なんでもなくて、ただの「ブーム」、流行の域なんじゃないかと、最近思う
 ようになってきたんですが・・・
 
 
339 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/05/10 20:40
 太陽崇拝のサイタマの民、汁気の多い食物を忌み嫌うモナー人・・・
 なかなか勉強になりました。
 
 ところで、モナー朝の服飾、装身文化について教えてください。
 
341 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/05/11 01:48
 >>339
 モナー朝といいますか、モナー人の装身文化についてですが、
 あのAA式陶器や肖像画から資料の収拾は非常に容易ですが、
 あまりに傍大かつ複雑なために、今だにその体系化はなされて
 いないといっても過言ではありません。モナー族の象徴である
 耳飾付きのフードだけでも、少なくとも、朝や族の数以上はあり
 ます。
 
 また後モナー朝のメイドスタイルのようなブームも、地域的で
 はありますが多々認められます。おかげでモナー人の正装
 と呼べるものが何なのか把握も困難なんだそうです・・・
 
 
344 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/05/13 02:09
 ところで、古典期から繰り返し古典文学のモチーフとして繰り返し登場する
 「ヨシノヤ伝承」について詳しい解説を頂きたいのですが。
 なぜにあれほど多彩なバリエーションが後世まで生み出されたのでしょうか?
 文中に登場する「つゆだく」「ギョク大盛り」などの不明語彙については
 いまだ諸説紛々ですが、学会での有力な説などお聞かせくだされば幸いです。
 
345 名前:モナー民俗学研究所アルバイター 投稿日:03/05/13 18:46
 >>344
 「ヨシノヤ伝承」ですか。何故あれほど普及していたかというと、こういう「鋳型」が
 あったからなんですよ。
 
 http://8931.com/yosinoya.php3
 
 AA陶器でいうところの「コピペ」の一種といえるのですが、鋳型というだけでなく、
 小さな部品を変えれば全くテーゼの異なるものになるという便利なものでして、
 「コピペ」を濫造するDQNらに愛用された。そういう経緯があるんです。
 
346 名前:モナー民俗学研究所アルバイター 投稿日:03/05/13 18:50
 >>344
 「つゆだく」の語彙についてですが、オリジナルをご覧になれば判るかもしれません。
 「つゆだく」は「ネギタク」と対比する言葉です。
 「ネギタク」は『ネギ多くニク少なし』と書かれていますから、
 「つゆだく」は『ネギ少なくニク多し』ものだろうと考えられました。
 これが一番古典的な説ですね。
 
 単語を分解して、「だく」の部分は「ネギタク」の「タク」と同義だろうと言われています。
 しかし「つゆ」については意見が分かれ、様式名という説と、ネギやニクと等価なもの
 であるという説がありました。
 現在では後者に軍配が上がっていますが、これが如何なるものかについては今だ定説がありません。
 
 有力視されているのは、「汁」と同義というものでしょうか。
 元々モナー人というのは「汁」入りのものを極端に嫌う風習がありまして、
 このオリジナルでも「つゆだく」を罵倒する内容になっているのは
 「つゆ=汁」が入っているからだ、という説です。
 
 しかしこれだと上記の『ネギ少なくニク多し』を必ずしも定めるものではありません
 よね。「ネギタク」に「つゆ=汁」は入っていないのか、
 「つゆだく」にネギ少なしまでは理解できてもニク多しと本当に言えるのか、等々・・・
 まだ解決には至っていないというのが現状です。
 
347 名前:モナー民俗学研究所アルバイター 投稿日:03/05/13 18:52
 >>344
 ここのところは「ギョク」も同じですが、
 これもまた如何なるモノかについての定説はありませんが、
 興味深いのは、オリジナルにある「大盛ねぎたくギョク」と「玉子」の関係ですね。
 「大盛」は「多い、大きい」と解釈されています。従いまして
  (1)「玉子」=大きなギョク
  (2)「玉子」=大量のギョク
  (3)「玉子」=ギョク
 と考えられるのですが、ここのところで相当暑い論争がありました。
 現在では(3)に落ち着いております。
 
 
348 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/05/13 21:55
 モナー朝の産業は特有の織物である「スレ」。
 
 しかし「駄スレ」と呼ばれた粗悪品を織り始めた者は「ドキュソ」「厨房」その他
 ありとあらゆる罵詈雑言で蔑まれた。
 
 興味ぶかいのはその悪態に一定の法則、物語が付随すること。
 「1の故郷」「1の母でございます」「ゆで卵」などの価値の高い作品も多い
 
 
350 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/05/15 19:53
 モナー朝ではいろいろな州で人気だった物語があると聞いたのですが本当ですか?
 僕が聞いたのはチェ・ンソーという道具を使った神殺しの物語や
 学問を志す少年と工芸職人との禁断の愛を書いたク・ソミ・ソテク(この作者は
 ヤ・マジュンと呼ばれ、多くの作品を出した)や
 ヨシノ・ヤカイヘンものとよばれる短編ものです
 
351 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/05/16 22:15
 オーレターチ・リューセーキ・ダナという二人組の掛け合いを表す石盤があったようですね。
 石頭計算機を前にして、一人は座り、一人は起立しているという状態が多いようです。
 
 オーレターチ、というのは折れた太刀という日本語が詰ってモナー朝に伝わったという説と、
 オウレ(英語でいうare)とレタッティ(=我等)が言いやすくなって行った、という説が論争されてますね。
 リョーセーキ、というのは日本語を習いたてのモナーびとが、
 「さすが」を訳しまちがえ友人知人に広めたため、という説が非常に有力のようですね。
 
 二人は、兄弟もしくは、姉妹のような近い関係だったようです。
 女性がたまに現れて、しつけているような描写もある事から
 その女性は二人の母親ではないかと思います。
 
352 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/05/17 01:08
 >>350
 遺跡やスレを注意深く観察していくと、「ク・ソミ・ソテク」の近くにいつも
 前述の「しませんか碑文」があるように思うのだが、気のせいかな…?
 
353 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/05/18 10:03
 「しませんか碑文」については>>266 >>269
 だが、>>269にある『「しませんか碑文」が出るのはヤオーイ遺跡のみ』
 という部分は既に覆されているな。
 多くの州から発見されているのが現状。
 
 最新の報告
 「ク・ソミ・ソテク」の中に「ヤ・ラナイカ」(〜しませんか?の意)
 という言葉が登場する。
 つまり、両者には密接な関係があると言ってよい。
 
 ところで、「ガイドラ・イン」についての情報求む。
 ヨシノヤ伝承もコレと関係あるそうなんですが。
 
362 名前:モナー民俗学研究所アルバイター 投稿日:03/05/27 20:35
 >>350
 本当です。
 ただ作者不明のものが凄く多くて、作者名のはっきりしているものは
 ごく僅かです。ヤ・マジュンは有名ですが、彼を騙ったものの作品も
 少なからず見られます。大抵は「ドキュソ」による「コピ・ペ」もので
 すが・・・人気作家の宿命でしょうね。
 
 あと>>348に書かれてあるとおり、悪態の物語がかなりおおい。
 「ドキュソ」はこういったものを好みましたから、まぁ沢山残っている
 のも当然ですが
 
 
354 名前:千乃代表 投稿日:03/05/18 10:42
 第一次大戦後、オーストリアから分離独立した国でモナー王国という国
 があったそうです。モナー王国はもともと18世紀の中頃に公国として成
 立した国でしたが、19世紀のはじめの頃にオーストリアに征服され、その
 後ずっとオーストリアに支配されていました。しかし、独立運動がつづい
 ていおり、オーストリアも自治州としての独立は認めると、譲歩を示しまし
 た。しかし、1892年にモナー民族解放同盟による反乱が起こり、危機感を
 抱いたオーストリアは一切の独立を認めなくなり、それどころかそういう運
 動を徹底的に取り締まりました(ちなみに解放同盟の反乱の指導者、ミフ
 ェール・モストコフら50名は処刑され、反乱に加わった者は過酷な運命が
 待っていました)第一次大戦のときもモナー人に武器を持たせては危険と
 いうことで、1916年までモナー人兵士の仕事は労働・看護・運搬などでした。
 大戦終了後、モナー人たちはモナー王国として独立を認められ、1918年に、
 モナー王国(国王モナ1世)として独立しました。
 
 モナー王国について
 国名 モナー王国(立憲君主制
 人口 45万人
 面積 3千平方キロメートル
 人種 モナー人98%、少数民族としてチェコ人、スロバキア人マジャール人など
 議会 2院政(上院、下院)
 軍隊 陸軍(正規軍1万、予備役1万)、空軍(300)、河川警備隊(400)。
    義務兵制で、兵役は5年。18歳以上のすべての男子が徴兵検査
    (ただし、一部の大学生は免除)を受ける。軍の最高司令官は国王。
 教育 義務教育は初等学校5年、中等学校4年の9年。高等学校は3年、
    大学は6年制。
 通貨 モネー
 首都 モナー(人口29万)
 産業 農業(45%)、観光(32%)、軽工業(12%)、その他
 
355 名前:千乃代表 投稿日:03/05/18 10:57
 モナー王国の終焉
 モナー王国は独立後しばらくは安定していたが、1926年の陸軍のマニュ
 ネム中将によるクーデター(未遂に終わり、首謀者のマニュネムいか12
 名が処刑)以後、政情が不安定となり王への不信も高まった。1930年に
 はモナー1世は退位し、息子のモナー2世が即位して、たてなおしを図っ
 たが、世界恐慌のあおりも受けて失敗。1934年の陸軍のムサイ大将に
 よるクーデターでモナー2世は退位し、ムサイが国王として即位した。し
 かし、これを見たオーストリアがムサイに圧力をかけて1936年にこれを
 併合。ここにモナー王国は消滅した。
 
 
359 名前: 投稿日:03/05/26 14:48
 モナー朝の遺跡に「コスーゥプレ」または「コスップレ」という言葉が
 時々見えるのですが、一体何なのでしょうか?
 
 同じところで出土する壁画に宇宙人のようなわかりにくい絵があるのです。
 もしかしてこれとなにか関連性があるのでしょうかねぇ…
 
 このことについて既にどこかの文献に出てますか?
 
 モナー朝史は謎が多くて歴史の流れを理解するのがなかなか難しいです。
 
360 名前:モナー民俗学研究所アルバイター 投稿日:03/05/27 20:22
 >>359
 「コスーゥプレ」または「コスップレ」ですね。
 「コスップレ」が一般的な呼称なので、以後、こう言います。
 
 始めに言及したのはエルネスト・モナンでした。
 彼は付随する壁画やAA陶器に注目し、モナー朝前期には見られず、
 「2ゲット」「東土見奇聞」(八世紀)には見られず、十一世紀に
 入ってから急速に普及したこと、またこれらは明らかにモナー人の
 様相ではなく、フランス人、ドイツ人、あるいはロシア人等のヨー
 ロッパ人に酷似しているものが屡(しばしば)見受けられることな
 どから、戦乱等で流浪してきたヨーロッパ人あるいは中央アジア
 古くからいたアーリア系住民を描写したものであり、コスップレと
 はその民族名もしくは服飾名ではないかという説を唱えました。
 (「モナー典」初版 5420ページ)
 
 しかしこれらはヨーロッパ人の風俗風習には全く見られないものが
 多かったこと、ヒーロ(偶像?)と呼ばれていたらしい宇宙人のよ
 うなものも周辺諸国に全く痕跡が無い事、更に同一のものが広範囲
 に認められるにも拘らず、極めて短期的集中的であり、またそれぞ
 れの連続性一貫性が極めて乏しかったことから民族名説は疑問視さ
 れるようになりました。
 
361 名前:モナー民俗学研究所アルバイター 投稿日:03/05/27 20:23
 この論が転帰を迎えるのはクレモナ大学のモラーニ教授が提唱した
 説からです。彼はコミーケ州がコスップレの始原であり、さらにア
 ニンメ州、ゲム州と極めて密接な関係にあることを突き止めました。
 さらにモナー朝文化を嘆いた酉和 彦の書間から、酉和が文化の退廃
 を嘆いているのはこれらの州を見聞してかららしいと推定し、モナ
 ンの異民族説を否定。コスップレはコミーケ州由来のものであり、
 また一定の服飾等を示すものではなく、この州でよく見られたマツリ名
 もしくはマツリで行われる行事を示すものではないかというものです。
 (「モナー朝文化の変遷におけるコスップレの関与」 1991)
 
 西教授はこの説を支持し、「網方見聞録」を著したマララーコ・ポ
 ーロの記録から後にコミケ州から独立したと推定される事、後のメ
 イドスタイルブームがこのコスップレ州から端を発した事を指摘し
 ています。
 (「モナー朝のメイドスタイル」 1993)
 
 前者はほぼ間違いないと言われていますが、メイドスタイルについ
 てはまだ定説に到っておりません。
 
 
366 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/05/29 20:53
 ところで、モナー朝の構成民族は
 
 「モナー族」「ギコ族」「シイ族」「イヨウ族」「ぬっへっほー族」
 「サイタマ族」ですよね・・
 
 敵対民族として「ニダー族」「ヤマザキ族」がいたとか・・・
 
368 名前:山野野衾 ◆F6mxNHihgE 投稿日:03/05/30 00:18
 >366
 モナーも大耳・小耳などに分かれていたようですが。
 
 
367 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/05/30 00:16
 海外にもモナー朝の研究者が!
 http://www.blogjam.com/old/000948.html
 
 紹介記事はこちら↓
 http://www.zdnet.co.jp/news/0305/28/cjad_horikoshi.html
 
370 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/05/30 20:07
 >>367
 この研究者の、ニダー族についての解釈は、我々と開きがありますな。
 
371 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/05/30 23:29
 >367
 
 どうやらこのページの研究者氏は、西方のナンミーンにより伝えられた、
 「西伝モナー史」を研究されている方のようですね。
 このスレで語られてきたのは『東土見奇聞』を基礎とする「東伝モナー史」で、
 江戸時代の折衷学派の儒者で、必殺仕事人差配職を兼ねた茂名村主水が、
 『東土見奇聞』に注を付けた『東土見奇聞集注』を研究の起点にしています。
 集注は主水が後モナー朝の使臣から聞いた内容を元にしているため、
 どうしても後モナー朝寄りになりがちです。
 ニダー族(アサピ族と同一説有り)はナンミーンと為った後は善良になったらしいので、
 西伝モナー史に於いてはさほどニダー族を異端視しないのです。
 むしろシィ族を異端視していますね。
 
372 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/05/31 22:47
 >>371 アサピ族は種族ではなく特定の思想集団ですよ。どの種族でもなれたそうです。
 あとシィ族の迫害はギャークサーツボウとよばれる異常集団のしわざですよ。
 
 
374 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/06/08 23:08
 モナー朝には女帝はいたのですか
 
375 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/06/09 01:45
 いました
 
379 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/06/10 17:03
 >>374
 >モナー朝には女帝はいたのですか
 公式記録からは抹消されていますが、実はいました。
 女帝の名はJOYといいます。王家の傍流の血筋で、教育はほとんどうけていません。
 夫と弟の力をかりて宮廷クーデターを起こし、即位を宣言しました。
 しかしマクハリ宮殿での酒宴の席で、無実の宦官を殺すという事件があり、
 人心は離れてしまいました(マクハリ酒宴事件と呼ばれています)。
 伝聞によると、女帝の娘である幼い皇女が「宦官が私の悪口を言った」と女帝に告げ、
 真に受けた女帝は宦官を全員呼び集め、そのうちの一人を夫・弟に命じて殴り殺させた
 ということです。
 即位前の悪事(税金横領―これでクーデター資金を貯めた―、自ら御した馬車で子供を轢き、
 もみ消しのため子供一家を処刑)も露見し、女帝はメアリ・スチュワートのように
 王宮を追い出されました。
 その後の消息はまったく伝わっていません(秘密裏に暗殺された可能性大)。
 その後も民衆はJOYという言葉が聞こえると耳を塞いだということです。
 
 
376 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/06/09 05:02
 茂名雑誌大全に収録されている判決文の多くにみられる
 「イッテ・ヨ・シ」なる言葉ですが、どういう意味なのでしょう?
 イブン・バティストゥータによると「死を命ず」とのことですが、
 この判決を受けた者はかえって活動が活発になることが多いので誤りのようです。
 
381 名前:モナー民俗学研究所アルバイター 投稿日:03/06/17 02:06
 >>376
 正確に言うと「死するに相応しい」「自決を勧める」という糾弾の意味です。
 あれは判決文中の言葉ですから「死を命ず」でも誤訳という訳ではないのですが、
 この判決というのが必ずしも強制力を伴わないものでして、故に活動が活発にな
 ることもあったのです。殺される前の足掻きですね。
 
 
377 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/06/09 12:43
 最近唱えられている、大耳族は戦士階級であると同時に
 辺境地方における交易を担っていたという説は本当でしょうか。
 その説によると「タリー」というのは割り符を意味する英語の"tally"と同様、
 ラテン語の"talia"ないし"talea"から派生した語で、
 大耳族はこれによって周辺民族と勘合貿易を行っていたというのですが。


380 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/06/15 21:33
 最近、モナー国の民話を読んだのですが、ケンカのシーンに
 「IP抜いたろか、ゴルァ」というセリフがよく出てきます。
 これはどういう意味なのでしょうか。
 
386 名前:モナー民俗学研究所アルバイター 投稿日:03/06/22 17:34
 >>380
 「ゴルァ」は恫喝の常套句であることがわかっていますが、
 「IP」については全く不明です。
 ただ仮説として考えられているものはあります。
 
 まずモナー族は個人の秘密を非常に重視します。
 「ナナーシ(あるいはその変形)」と呼ばれる一般呼称や、
 あの耳つきの套でさえ個々人の情報を秘匿する手段であると言われています。
 そしてモナー族が脅したり訴えるには、
 しばしばこの個々人(の素状を)晒す方法が採られるのです。
 
 またモナー族はいわゆる「弾劾主義」的な方法を採っていまして、
 何らかの訴えがあって皆はじめて動き出します。
 そしてそして刑罰もまた個々人を晒すということが行われます。
 「ヒキ」はその最たるものかもしれません。
 
 以上から、この「IP」は脅される相手が秘匿したい何らかのもの・・・
 個人を断定しうる符号のようなものではないかと考えられる、というものです。
 
 しかしそれならば「公開する」「晒す」という述語が使われるはずであり、
 この「抜く」というのは何を意味しているのかがわからないという反論も非常に多いです。
 確かに私もそう思います。
 日本語でいう「タマ」のような、生命力を維持する鍵のようなものではないかという方が
 より合理的な説明ができるのではないでしょうか。
 
409 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/08/30 14:14
 >>380,>>386
 
 >>321-322で「フー・ジャネイ山」について言及されています。
 まず、そちらからお読みください。
 
 『東土見奇聞魂』では魂を神に捧げると書かれていますが、
 私は碑文にあたって具体的にどのようなことをしていたのかを調べました。
 それによると、まずフー・ジャネイ・ザンというのは山の名前ではなく、
 その山で取れた薬草の名前です。
 この薬草を飲むと血の色が変色し、どのような血の色になるかによって
 その人の出身地が分かるというものだったようです。
 この血の色のことを「IP」と言っていたようです。
 
 当時、自分の出身地を明らかにすることはかなり勇気のいることだったようで、
 フー・ジャネイ・ザンで自らの出身地を明らかにすることで
 血統の正しさを証明していたといいます。
 なお、性質の悪いイタズラで「不老不死の薬だ」とか「精力増強剤だ」などと言って
 このフー・ジャネイ・ザンを飲ませることがあったようです。
 これを真に受け、自分の出身がばれて大恥をかいた人がいたという記録も残っています。
 
 ちなみにこのフー・ジャネイ山の「フー」が転じて英語のwhoになったと言われています。
 
410 名前:409 投稿日:03/08/30 14:34
 ○ 「型痢」と「フー・ジャネイ・ザン」と「ト・リップ」の関係について
 
 このフー・ジャネイ・ザンという薬に「型痢」を防ぐ効果があったのは確かです
 が、自然に生えている薬草だったので、飲んだ人の体調によって血の色の変
 わり方が違うという問題があったそうです。この問題を解決するために「ト・リ
 ップ」というものが開発されたそうです。これは化学物質を調合したもので、飲
 んだ人の体調に関わらず安定して血の色を変えることができることから重宝
 されたということです。
 
411 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/08/30 18:23
 「フー・ジャネイ・ザン」については様々な伝承が在るようですね。
 私が採取した伝承によりますと、クラカと称される魔術師の一人が
 最高神ヒーロ・ユーキのみの起こしうるはずの奇蹟を起こす薬草を発見し
 その秘密を公にしたため、大混乱が生じた。
 このことはヒーロ・ユーキの怒りを買い、薬草を服用した者の血の色を
 一人残らず変色させてしまった、というのが「フー・ジャネイ・ザン」の
 起源とするものです。
 
 
383 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/06/19 17:51
 美術史を修め始めて間もない者ですが、ダ・ヴィンチの名作「モナリザ」の
 モデルとなった女性、それから印象派の巨匠モネ、この両名はモナー朝と
 何か関係があるのでしょうか。
 
385 名前:モナー民俗学研究所アルバイター 投稿日:03/06/22 17:02
 >>383
 >>32で少し語られています。
 
 
387 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/06/27 20:19
 モナー朝の手形について。
 「ギコナビ」「ホトゾヌ」「カチュ」などと呼ばれていたそうです。
 通称立国であったモナー朝において、マナーの良い旅人を保護するために作られました。
 これを持っていると関所通行時に非常にスムーズに通れ、
 また、各地の倉(ダット)や図書館にて文物の自由な閲覧を許されました。
 また、サクージョ・ニンとアラーシの間で戦闘が起こっているとき、
 旅人は締め出されるのが普通でしたが、
 これを持っている人に限り戦闘中にも関わらず自由にその地域を歩き回れるという優れもので、
 しかも無料で配布していました。
 しかし、王室の狙いに反して意外なほど広がらなかったようです。
 
391 名前:初挑戦 投稿日:03/07/12 09:03
 >>387
 >>しかし、王室の狙いに反して意外なほど広がらなかったようです。
 
 うちの教授によると、手形は難解な言語で書かれてあり、その文面を定期的に
 書き換える必要があったそうです。
 そうしないと関所の事務手続きが遅れてしまうためです。
 また、一個人に対して発行される物であるため、隊商団や大手神殿に属している
 人たちは自由にインスト・・・じゃなかった利用することができなかった
 
 そのため、その利便性のわりには利用者が伸び悩んでいるらしいです
 
 
388 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/07/05 20:14
 先年ガイドライン地方の石窟寺院から大量のコピペ経典が発見されて
 話題になりましたが、私はこれらコピペ文化にイスラム商人が与えた
 影響について興味を持っています。
 
 私の乏しい知識では「25歳。去年まで金無し君だったけど」のコピペが
 商人たちのもたらしたものらしいということですが、こういった例は
 ほかにもあるでしょうか? 修士論文のネタにと思っているのですが…。
 
 また、このような経典がなぜガイドライン州に集められたのか、
 いまひとつ合点がいきません。
 
389 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/07/09 02:58
 >>388
 ガイドライン州は巨大な市場で有名で、
 他の州で作られた織物(スレ)や陶器(AA)などの品が
 有名なものからその亜種まで、数多く出入りしていたようです。
 「あそこに行けばたいていの物は揃う」と手記を残した学者もいたとか。
 
 
397 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/07/21 01:50
 近隣にはフタバ国という世界最大の色町があったそうな。
 そこでは少女を愛する炉利などがいて、
 一種の浮世絵といわれているドウジンなるものもあった。
 
 総じて、モナー朝の人間は童貞率が高く、幼女や二次元に逃げがちであったという。
 
398 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/07/21 04:26
 フタバ国はモナー朝の爛熟期から衰退期にかけて興った新興国ですね。
 どうしてもその性的な文化の面ばかりが語られがちですが
 芸術的にもなかなかのものがあったようです。
 
 で、そのフタバ国に伝わる「シポン(あるいはシポーン)」と呼ばれる
 遊女の伝説は史実に基づくものなのでしょうか?
 大食という悪癖を持ちながらながら非常に可愛らしい美人であった故に
 フタバ国の皆に愛されていた彼女ですが、
 ある特定の男と口づけを交わしていたことが発覚したせいで
 国を追われることになった…というものなのですが。
 色の王国ことフタバ国にしてはそれらしくない(キス程度で追放?)エピソードなので
 少々気になります。