民明書房に学ぶ、世界史の虚像と実像 適当にまとめ その1

知っているのか、雷電!?

1 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/04/16(金) 11:14
 『新素麗(しんすれい)』
 
 一般的に2chのスレは1000レスを越えれば書き込むことが不可能になるが
 それをさらに続けることができる方法がある。
 新しく続きのスレとしてスレを立てるのである。
 しかし新スレを立てることは困難で、幾十もの2chのセキュリティーチェックを突破しなければならなく、
  新スレを立てられずに脱落し大怪我をする者も大勢いる。
 ちなみに新スレの名前の由来は初めて新スレを立てた人、新素麗(しんすれい)から来ていることは有名である。
 
 (民明書房刊「2ちゃんねる−そのシステムの神秘−」より)
 
 2 名前:世界@名無史さん
投稿日:04/04/16(金) 11:17
  お約束だが…
 
  『煮解賭 ( にげと ) 』
 
  明朝末期、中國北東部の男達の間で、素麗建(すれたて)なる遊びが流行っていた。
  先端に旗をくくりつけた棒を地面に立て、合図と共に棒に駆け寄りに旗を奪い合うという、
  己の機敏さを誇示する遊びであった。
  やがてこの遊びに飽きた者達が、毒草を煮込んだ煮汁を飲み、
  その解毒剤を旗代わりにして奪い合うという遊びに発展させた。
  命を落とす者が続出したが、戦いに勝利したものは英雄として賞賛され、
  朝廷に仕える者を輩出するほどであった。
  この毒草の煮汁の解毒剤を賭けた闘いは「煮解賭」と呼ばれ、時代を左右する勝負の場でも競われてきた。
  己の肉体を誇示する機会の少なくなった現代社会においては、
  インターネットでの「2ゲット」と形を変えて、現代人が機敏さを争っているのである。
 
  ( 民明書房刊 「DNAに刻まれた中國 現代人の行動のルーツを探る」 より )
 
  3 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/04/16(金) 11:18
   『酸下吐(さんげと)』
 
   「煮解賭(にげと)」により、毒にやられて命を落とす者が続出したのは前述の通りだが、
   全国的に流行するにつれて、これは深刻な問題となっていった。
   そこで、時の皇帝である崇禎帝は、新しい規範を作り出した。
   煮解賭に失敗した人間でも、その毒素を完全に吐き出すことができれば
   煮解賭の勝利者に準ずる豪傑という評価を与えるというものである。
   肉体を酷使して、大量の胃酸とともに吐き出すことから庶民の間で、
   酸下吐(さんげと)と呼ばれるようになった。
   酸下吐の登場により、煮解賭に参加できない文民の中には、これを専門とする者も現れ始めた。
   彼らの策謀能力を、朝廷が重宝したことは言うまでもない。
   己の戦略を進言する機会の少なくなった現代社会においては、
   インターネットでの「3ゲット」と形を変えて、現代人が狡猾さを競っているのである。
 
   ( 民明書房刊 「DNAに刻まれた中國 現代人の行動のルーツを探る」 より )
 
   以下はよろぴこ
 
4 名前:世界@名無史さん
投稿日:04/04/16(金) 11:25
 『かけそば』
 
 我々が親しんでいる「かけそば」は、
 古代中国の修行者達が座して食べる暇を惜しみ
 器をもって「駆け」ながら食べたそばがその名の由来である。
 
 民明書房刊『あなたにも出来る!中国拳法修行百科』
 
5 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/04/16(金) 11:30
 『スパイダー(蜘蛛)の語源』
 
 天釐蜘巣(てんりんちそう)…
 中国拳法には猛獣・昆虫・爬虫類などを飼育・教育して独特の技として完成させたものが多々あるが
 この奥義もそのひとつである。
 ちなみに 英語で蜘蛛のことを「SPIDER」(スパイダー)というが
 これは、この奥義を極めんと蜘蛛の調教に挑んだ西洋の武道家達がことごとく失敗に終わり
 その時発した言葉「失敗だ〜」が「スッパイダ〜」→「スパイダー」と変化したものでないのはいうまでもない。
 
 民明書房刊「日本曙蓬莱武術協会理事長盛田慎之介談」
 
6 名前:世界@名無史さん
投稿日:04/04/19(月) 11:21
 『藁(わら)』
 
 明朝末期、中国四川省の南部にて、姦通の罪を犯した男女への、特殊な陵遅刑があった。
 藁の束を姦夫姦婦の尻にくくりつけ、火をつけて狂い飛び回る姿を衆人に公開するという
 過酷な処刑なものである。
 この刑を受ける者の悲惨だが滑稽なさまに、衆人みなその姿を指さしてあざ笑った。
 あげく、処刑方法をより滑稽なものにしようと工夫するものが現れ、
 藁束を、罪人アベックの片足をくくりつけ、二人三脚…あたかもアルファベットのWの形にして、
 罪人の男女をつなげてみたり、あるいは、それぞれの頭にカツラのように藁束をかぶせて火をつけ、
 頭髪をことごとく焼いて「禿藁」などとあざ笑ったりした。
 
 もとより現在の中国では、そのような刑罰は完全に禁止されている。
 しかし今なおインターネットの世界では愚かな相手をあざ笑う際に「藁」の一字を語尾に付けており、
 その名残が現代社会に残っているのがうかがえる。
 
 ( 民明書房刊 「DNAに刻まれた中國 現代人の行動のルーツを探る」 より )
 
7 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/04/28(水) 11:06
 『費奇蝙蝠(ひきこもり)』
 
 宋朝初期、費奇(ひき)という禅宗の修行僧が、悟りを開くべく洞窟のなかに篭っていた。
 かれは単なる座禅では苦行にならぬとばかり、わざわざ逆さづりの格好で天井からぶらさがっていた。
 しかも逆さづりのかたちで固定してくれた協力者には
 「修行の邪魔をしないよう、自分を吊ったらただちに洞窟を去れ。自分は決して泣き言はいわぬ」
 と大見得を切ったが、そんな苦しい格好では、悟りなど開くどころではないのは理の当然で、
 あえなく他界してしまった。
 
 死ぬ直前になって悶絶し、固まった血液がたまって黒ずんだ手を、怪鳥のようにじたばたと広げた、
 翼を広げた蝙蝠のような費奇の姿のおぞましさが有名になり、
 人々は悟りも開けぬ癖に洞窟にこもろうとする不信心な惰弱坊主を嘲るとき、
 「費奇蝙蝠」と呼ぶようになった。
 
 いまでは宗教的な修行にまつわる費奇蝙蝠はいなくなったが、
 飽食とサブカルチャー全盛時代の日本国の若者が、
 それにはあき足らずに自己鍛錬のためにあえて生ゴミのあふれる室内で
 アニメとゲームだけを相手に己を見据えるメンタルトレーニングをおこなって
 しばしば社会不適応性に陥る結果をみているのは、まさに現代版の費奇蝙蝠ということから、
 「引きこもり」という言葉が発生している。
 ヒッキ-なる略語が費奇をおしゃれにカタカナで洋風に読んでみせたものでることは、
 中国の児童心理学者にとって常識であり、とうぜん中国の言語学者の発見によるものである。
 
 ( 民明書房刊 「DNAに刻まれた中國 現代人の行動のルーツを探る」 より )
 
8 名前:世界@名無史さん
投稿日:04/05/10(月) 07:59
 濃安岳和我血 (ノアだけはガチ)
 
 古代中国に存在した封建民族「斬日凡」が民族内闘争により分裂した。
 その後、民族の一部が濃安岳(現在の三澤山)へ移住したときにその緑の映える木々の美しさに感動し
 「濃安岳和我血(濃安岳は争いで怒りくるった我が血を和ませてくれる、の意)」
 と叫んだという。その後、争いにより焼け爛れ禿山となった
 武道山に残った残りの「斬日凡」民族が濃安岳の緑の木々を羨み何度も攻撃を仕掛けたり、
 「異乃騎薪日凡」民族が濃安岳を侵略しようとしてきた。
 そのたびに「濃安岳和我血」と叫びながら闘い、他民族を撃破したことにより
 他民族の攻撃は次第になくなっていったといわれている。
 また濃安岳の民族は鎖国的だとも言われていたが、他民族の太香弥真や猪宇埜らとも交流をもち、発展に至った。
 
 民明書房刊『濃安岳の歴史〜緑を守れ』より
 
10 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/05/11(火) 14:36
 『濡流報(ぬるぽ)』
 
 殷の時代、中国では、しばしば日照りが発生し、
 そのたびに人々は甲骨を用いた占いで天候の行方を占ったといわれている。
 この占いの結果、出された雨の知らせが、濡流報であった。
 濡流報は、日照りで苦しむ農民達に歓迎され、農民達は、祝福の意味を込めて、「賀(が)」と言って、
 濡流報を伝える者をもてはやしたという。
 「濡流報」「賀」のやり取りは、初めは言葉だけのやり取りであったが、
 やがて杖や棒を用いて、相手の頭をなでる行為が加わり慣習化した。
 後の三国時代には、連弩の技術を応用した自動式の賀装置も作られている。
 
 なお、現代の「ぬるぽ」「ガッ」のやり取りは、いうまでもなく、濡流報が元になっており、
 棒のようなもので相手を殴るという、一見粗暴な行為に変化しつつも、
 祝福と感謝、五穀豊穣の願いが込められていることを我々は忘れてはならないだろう。
 
 民明書房刊『知られざる甲骨文字発祥の歴史』より
 
11 名前:世界@名無史さん
投稿日:04/05/15(土) 19:23
 治幕帝賂(じばくてろ)
 
 古代中国において、帝の権力は絶対のものであった。
 秦の始皇帝の例を見る限りでもそれは明らかであろう。
 それ故、帝へ如何に取り入るかというのが当時の官職についていた者達の最大の関心事であった。
 
 隋の時代、宮内の二大派閥であった至阿派(しあは)と寸爾派(すんには)の間では、
 権力闘争が激化していた。
 互いに帝に取り入るために金銀、調度品、時には女性を帝にあてがう事で帝の威光を得ようとしていたが、
 煬帝(604年-618年在位)が即位して間もなく、
 寸爾派の高官であり、強硬派であった瓶羅傳(びんらでん)は
 「帝賂即治幕(帝に献上するものは政治を治めるものでなくてはならない)」
 とし、王朝に仇なす者を葬り去ることが煬帝への至上の献上品であるとした。
 
 当時隋朝を脅かす一団に、雄獲枢家(ゆうえすえ)なる武力集団がおり、瓶羅傳はその討伐に努めていた。
 しかし、奇術「烈火有嵐(れっかうらん)」を用いた戦術に手をこまねいていた瓶羅傳は、とある決断をする。
 それは間者を放ち、当時最新兵器であった火薬を用い、雄獲枢家を内部から崩壊させようとするものであった。
 だが、この戦略には危険が伴い、命を落とす間者も少なくなかった。
 しかし、この戦略で命を落とした間者は、「英雄」として奉られたという。
 この故事から転じ、自らの国、信条のために命を落とすことも厭わないことを
 「治幕帝賂(じばくてろ)」と呼ぶようになった。
 
 なお、「自爆テロ」がこの「治幕帝賂(じばくてろ)」に由来している事は
 賢明な読者にはもうお分かりだろうが、
 一転して無差別に罪の無い一般の方まで犠牲になっているということには怒りを禁じえない。
 
 民明書房刊 『歪められた美徳』より
 
13 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/05/15(土) 20:17
 覇州留(はっする)
 
 古代中国、清王朝時代。当時の皇帝は乱れていた国政を1つにまとめ上げようと政策を打ち立てた。
 もちろん広い国土の清であったのでまとめる事は困難を極めた。
 そこで当時の国防長であった御賀倭(オ・ガワ)が仕切り、
 州全体を1つに留め、世界を制するとの意味から覇州留と名づけられた。
 他国にも覇州留を広めようとした御賀倭は、両手をグーの形にして腰に当て、
 「覇州留!覇州留!」と叫びPRした。
 そして見事に成功し、1つになり、他国にも真似をするところも出てきた。
 我が日本にも広まり、挙仁藩の長でもある基世胎(きよはら)も真似をするまでに浸透した。
 
 民明書房刊『中国の政策〜覇州留』より
 
14 名前:世界@名無史さん
投稿日:04/05/15(土) 22:36
 慢努癖(まんどくせ)
 
 かの孔子が、人間が憎むべきものとして呈示したのが、この慢努癖である。
 慢努癖とは、「努力するのを怠る癖」という意味で、
 孔子はこれを、学問をする者が一番してはならぬ事と位置付け、弟子達を戒めた。
 
 荀子は更にこれを発展させ、
 「慢努癖というものが人間にある以上、それを規制する法律が必要なのは明らかである」と、
 自説の正当性を訴える材料としている。
 
 一方、無為自然の立場に立つ老子は、孔子の説を批判し、
 「慢努癖こそが、人間が生来持っているものなのだ。それを無理に矯正する事は本来すべき事ではない」とした。
 やがて時代は流れると、乱世になる度に、領民達は年貢を渋り、「慢努癖」と連呼したという。
 この時、慢努癖とは、単純に努力云々ではなく、物事全てに於いて実行を渋る意味を持つ様になった。
 それは現代にも「マンドクセ」または('A`)マンドクセという形で、インターネット上に受け継がれている。
 
 15 名前:14 投稿日:04/05/15(土) 22:39
  忘れていた。
  民明書房『民俗で見る中国史』
 
16 名前:世界@名無史さん
投稿日:04/05/16(日) 13:39
 癒喜子(ユキコ)
 
 古代中国には華余(カヨ)という女性がいた。華余はたいへんに可愛らしい女性であり、
 「星短情(スターたんじょう)」(日本でいう俳句大会)で優勝するや、
 みるみる内に中国本土に容姿、知性ある女性という事が知れ渡り男性はしかり女性の憧れの的となった。
 皇帝は華余を見るや心が癒され嬉しくなる女性との意味から癒喜子の名を授けた。
 美人であった為、プロポーズの言葉も多数受けた。うらやましい限りではあるが、
 癒喜子は本命の男性と一途に恋をしたいとの気持ちが強く、多数の人からのプロポーズは本意ではなかった。
 現に本命の男性からはもてすぎる為に高嶺の花だと思われ両思いになる事はできなかった。
 それが原因で癒喜子は傷心してしまい、自ら命を絶ってしまったのである。
 それにより多数の人がショックを受け続けて命を絶ち、混乱を招いた。
 混乱を抑えるために皇帝は、癒喜子の話をした者に処罰を科した。そして癒喜子は封印された。
 
 現在世界3大美女と呼ばれている1人に中国の楊貴妃がいるが、
 癒喜子が命を絶たなければ楊貴妃ではなく、癒喜子になっていたかもしれない。
 
 民明書房刊「中国の美女〜悲劇のヒロイン」より
 
17 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/05/19(水) 14:16
 『象怒(ぞぬ)』・前編
 
 かの蜀漢の軍師孔明が、南蛮征服戦争の戦死者をとむらうため、
 まんじゅうこと肉入りの中華パン(饅頭)を創始した人物であることは、世に広く知られている史実である。
 ところがこの饅頭を食した一部の兵卒のあいだで、奇妙なうわさが立った。
 「饅頭の食材には、蜀軍が倒した木鹿大王の呪いを封印するため、
 大王が手足のごとく使っていた珍獣の肉が使われていた」というのである。
 
 ご存知のとおり、南蛮の八納洞の主である木鹿大王(ぼくろくだいおう)は象に乗り、
 虎や豹、毒蛇などの猛獣を操って孔明軍に挑戦した南蛮の猛者である。
 その恐怖の記憶が、あるいはそういう噂を生んだのだろうか?
 
 「たぶん、木鹿大王が乗っていた象の肉だと疑ったに違いない」
 孔明は、そうあたりをつけた。あとは、口を濁す兵士たちを計略にかけて、真実を確かめるだけである。
 一計を案じたかれは、或る日の演習において、陣営にたまたま異国出身の司厨兵がいることを知り、
 かれに特に命じて異国の伝統的肉料理を作らせた。
 
 (後編につづく)
 
 18 名前:世界@名無史さん
投稿日:04/05/19(水) 14:17
  (『象怒』後編)
 
  演習がすんで空腹になった兵士たちに異国料理をふるまった孔明は、
  兵士たちが堪能したのを見計らい、「じつはおまえらが今食べたのは、象の肉なのじゃよ」と偽った。
  それまで司厨兵の出自から「●●肉料理」だと思っていた兵士たちは、いっせいに顔をみあわせた。
  だが、ちっとも狼狽した様子ではなかった。
  当てが外れた孔明はすかさず「残念でした、じつは蛇肉だよ」とか「虎肉じゃ」とか言ってみたが、
  だれもが平気な顔である。
  最初の確信だった「象」が外れたあと、すべてのあてが外れた孔明は、
  ついには怒り出し、「おまいら俺様を馬鹿にしてるのか!」と、ついかれらしくもなく、
  突破的に数人の兵士を斬首して憂さ晴らししてしまった。
 
  この孔明の人生最大の汚点となった事件から、「象怒」という言葉がうまれた。
  はじめは賢者でもたまには愚行をおかすことがある、という意味だったが、
  やがて「賢者をも疑心暗鬼に追いやる、珍獣という形をとった」根も葉もない噂、という意味になった。
  現在の、永楽帝が新大陸を発見したとする西欧人の学者には、
  このとき蜀漢の兵士たちが恐れた珍獣というのはアフリカのヌーのことであり、
  「ヌーにゾッとする」ということから「象怒」ではなく「ゾッ・ヌー」であると主張するものもいる。
 
  なお当の「異国の司厨兵」が何を作ったのかは記録がない。
  一般には楽浪郡出身者で、●●湯を作ったという説が有力である。
 
  民明書房刊「孔明異聞」より
 
19 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:04/05/22(土) 12:23
 アフガン航空相撲
 
 11世紀ゴール朝の頃、時の国王の命により
 アフガニスタン各地より集められた武術、格闘技に精通した者を中心に編成された
 近衛兵の間での力比べが起源と言われる。
 
 最初は地面の上だけでの競技であったが、
 やがて高いところからの攻撃や空中に飛び上がっての闘い等時を経る毎に技が高度化し
 現在のアフガン航空相撲の形が完成した。
 
 後の元による侵攻の際もアフガン航空相撲力士は圧倒的多数を誇る元軍の攻撃を
 得意の航空技により簡単に粉砕したと伝えられる。
 その際元軍が航空相撲を研究し、アフガンに対抗するためにモンゴル式相撲を完成させたが、
 空中戦ができなかったため実戦に使用されなかったということはあまりよく知られていない。
 
 「民明書房刊 『フビライ怒りのモンゴル相撲』より」
 
20 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/06/02(水) 19:13
 ゲバ棒
 
 ゲバ棒といえば学生運動の象徴ともいえる兵器であり、1970年前後の学生運動の際に、
 機動隊や対立セクトを攻撃するため学生たちが用いた角材である。
 ゲバ棒の「ゲバ」とは独語実力闘争や暴力という意味のGewalt、というのが通説である。
 しかしこれは学生運動の混乱期に歪曲されたデマゴギーであり、
 真の出典は1950年代アルゼンチンにこそあった。
 キューバの革命指導者チェ・ゲバラがゲリラ戦のさいに最もよく使った鈍器であり、
 絶頂期の彼がこの棒をひとたびふるうと、
 十数名が七つの穴から血を噴きだして絶命したといわれている。
 いわゆる「ゲバ棒」は、その光景を目撃していた日本人傭兵がその後学生運動へと身を投じ、
 角材を用いてチェ・ゲバラが使った棒を真似て作ったものだ。
 一説によるとチェ・ゲバラ自身も学生運動に参加して、
 このゲバ棒を振るったともいわれるが真相は定かではない。
 
 民名書房刊 『世界の珍棒・奇棒』より
 
21 名前:世界@名無史さん
投稿日:04/06/04(金) 13:59
 徹マン
 
 麻雀といえば中国が発祥の地であり、日本には大正時代に伝来したと言われているが、
 現在の両国における標準ルールは大きく異なっている。
 これは、満州にて旧日本軍の将校たちが麻雀を行う際、
 現地のローカルルールを取り入れたことに端を発するという。
 
 さて、満州といえば南満州鉄道であるが、首都・新京から大連までの道のりはおよそ700キロメートル、
 所要時間は当時最高速を誇る特急「あじあ号」でも8時間30分という長大なものであった。
 ゆえに、乗客の退屈しのぎとしても麻雀は流行した。
 最初は紙牌を使用した簡単なものであったが、後に車内へ麻雀卓を持ち込む者も現れ、
 上流階級の乗客には専用の娯楽車まで用意されるほどの流行ぶりであったという。
 
 しかし、流行の熱が高まりすぎたせいか、はたまた車内という閉鎖空間での必然か、
 そこではしばしば異常ともいえる独自ルールが追加されることがあった。
 その一つが、「目的地に着いて列車を降りるまでは勝負も降りることができない」という過酷なものである。
 これは目的地を同じくする4人が同席に集ったときのみ用いられたルールであり、
 特に満州鉄道全線を徹して行われるものは「徹マン」と呼ばれ恐れられた。
 
 現在、徹夜で麻雀を行うことを指して同様の呼称が用いられるが、
 これは元来の徹マンがしばしば夜を徹して行われたことに由来する。
 そこに徹夜の徹と麻雀を縮めたマンが重なり、現在の意味に至るのである。
 
 なお、あじあ号の食堂車には白系ロシア人の女子がウェイトレスとして採用されていたが、
 彼女らを指して「ハク」と読んでいたものがいたかどうかは定かではない。
 
 民明書房刊 「超特急が鳴く」より
 
23 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/06/04(金) 15:49
 知らぬが仏の語源
 
 近現代以降の軍事組織において重要な役割を果たした参謀本部の起源が
 プロイセンにあることはよく知られているが、
 軍事組織のもう一つの柱である諜報機関が例外なく
 ほぼ中国で完成したものを踏襲したものであることは意外と知られてない。
 
 時は南宋初期、情報収集と分析の稚拙が靖康の変を招き
 河北一帯を喪失した原因の一つであると考えた胡世将は
 四川宣撫使として着任後に諜圏司という情報機関を設置した。
 この効果は抜群で紹興10〜11年の金の侵攻のおりに
 いちはやく侵略の兆しをとらえることに成功し、胡世将の軍が岳飛や韓世忠といった
 歴戦の諸将に先んじて効果的な反撃をあげる要因となった。
 
 後に北清事変や日露戦争で活躍した情報戦の大家福島安正少将は
 諜報の基礎である諜圏司を詳しく分析した。
 その時に胡世将が部下に情報収集の重要性を戒めた言葉を
 日本人向けに邦訳したのが「知らぬが仏」である。
 
 本来は「不知即決生死」という言葉で、
 意味は戦場では事前の情報収集を怠った指揮官の部隊から先に壊滅していくという言葉であった。
 そこまでして情報の大切さを訴えた福島少将であったがそれが充分伝わらなかったようである。
 
 時代と共に「知らぬが仏」の意味も変質していき、わずかに殺人事件の現場などで
 被害者を「ホトケ」と呼称するのがその名残として存在するのみである。
 
 民明書房刊『軍事の奇才・中国人』
 
27 名前:世界@名無史さん
投稿日:04/06/15(火) 13:10
 『児剃判(こてはん)』
 
 三国時代後期の中国で、呉のとある村を中心に頭虱が大発生した。
 医療・衛生技術の発達していない当時では有効な駆除法は皆無であったため、
 呉の人々は頭髪を全て剃ってしまうことで対策とした。
 これが功を奏し、虱はしだいに数を減らしていったが、全員が剃髪した事により、
 似たような顔立ちの者、特に子供たちの見分けが付き難くなるという弊害も発生した。
 そこで、子を持つ者たちは、それぞれ子供の名を刻印した大きな印鑑を作り、
 毎朝我が子の頭に判を押すことで区別を可能とした。
 これを「児剃判」という。
 
 現在、インターネットの匿名掲示板で個人を特定するためのハンドルネームを「コテハン」と称するが、
 これはこの故事を由来とするものである。
 
 民明書房刊『君の名は』
 
28 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:04/06/16(水) 10:56
 涅罵陀(ねばだ)
 
 唐代中国の武人。その武名は広く知れ渡っており、彼を慕う者は多かった。
 『@﨟@』(あっとますますあっと)の旗印の下、多くの部下を抱えていた。
 しかし彼と並び称された武人・沙斗巳(さとみ)は彼を快く思っていなかった。
 
 ある時、涅罵陀がいつものように於派用備維務(おはようびいむ)の任についているとき、
 沙東巳は彼の旗印を指して、「其変旗印如何。可否愚弄?」と侮辱した。
 これに怒りを覚えた涅罵陀は沙斗巳に楠拿闘(なんだとう)の決闘を申し込み、
 愕襲屡宇無(がくしゅうるうむ)にて見事沙東巳を打ち負かせて恥をすすいだという。
 
 余談ではあるが、当時沙東巳は内府の役職を与えられており、
 沙斗巳を討ち取った涅罵陀は興奮のあまり「勝った勝った、内府に勝った!」と叫んだと言われる。
 この時涅罵陀が使用した武器を改良して生まれたのが「カッターナイフ」であることは言うまでもない。
 
 民明書房刊「少年犯罪裏面史」より
 
31 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/07/02(金) 12:10
 外道裸印(がいどらいん)
 
 基本的には「ぞぬ」「ぬるぽ」など、
 にちゃんねる用語が漢語圏を主体とした世界史上の史実のどのような逸話から派生されたものであるのか、
 その歴史系統と実像を探るのが本「素麗」の主旨である。
 
 たとえば「がいどらいん」にしてからがその典型であるといえよう。
 これは清朝の末期、西欧の侵略から中華を守るためには、
 あえて国法に禁じられた外道の暗殺拳法を使うもあいかまわぬ、という命知らずの愛国武道家たちに、
 殺人許可証の刺青を公認したのが最初なのである。
 外道拳法でも法に則って正しく中華の敵に使用されれば、すなわち夷をもって夷を制す苦き良薬になろう。
 その刻印たる刺青が、つまりは外道裸印であった。
 
 具体的には、洋鬼誅滅のためにはあらゆる禁じ手の暗殺拳法を駆使しつつも
 心に「礼」を守り以って先祖の「霊」を守り「七生報国」することを誓約したあかしとして、
 「礼・霊・七」の三文字の刺青を、「全裸」の武道家の全身に「刻印」したのである。
 暗殺拳には各種あるが、とりわけ亜門拳とよばれる拳法が有名であり、
 この拳法をきわめた師父たちは大亜門とよばれ、中国は「大亜門が守る土地」というわけで、
 一時期は「大亜門土」という隠語で呼ばれたほどである。
 ともあれ、以上の事情が暗殺拳法家を許された男たちを「外道裸印」とするゆえんとなった。
 
 なお、この刺青をした武道家にたいし、宮廷は特典として無税の権利さえ与えた。
 税無く、(中華の敵たる洋鬼の誅滅に)没頭する漢たち、というわけで、かれらは「税無没頭」とよばれた。
 これが四川省あたりでなまって、「ぜいむすぼんど」となり、「れいれいなな」が英訳されたさい、
 「ゼロゼロセブン」と誤って伝えられたのとあいまって、
 「ジェームズボンドのゼロゼロセブンは、殺しのナンバー」と恐れられるようになった。
 げんざい、英国で大人気のあのスパイもののシリーズが生まれたのは、
 こういう東洋における、苦痛に満ちた近代史が作用しているのである。
 
 民明書房刊「歪められた殺しの番号・大亜門土は永遠に」より
 
35 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:04/07/08(木) 20:58
 那礼哀(なれあい)、後場苦(ごばく)
 
 他人の両目を人差し指と中指の爪で突こうとする(本当に突いてはいけない)、
 中国古来の子供達の拳法遊びが那礼哀と呼ばれていた。
 また失敗し、相手の目を本当に突いてしまった場合、
 その後ついた者・つかれた者ともに苦しむことから後場苦とよばれる。
 
 後に西洋に伝わり、爪・目(nail,eye)の語源ともなる。
 同じく後場苦は元に戻りたいという希望をもふくめた、Go Backの語源ともなる。
 
 後に明治時代、清を経由して来日し、日本海軍の創設に尽力した
 ドイツ系アメリカ人Hayrlo Joukie(ヘィロ・ユウキィ)氏が格闘教練中に誤って、
 目を突いた者をたしなめるときに出た言葉から、日本へと回帰輸入された。
 つまり、目潰しの振りをすることを「なれあい」、
 馴れ合いのつもりのミスを「ごばく」と聞き違えたのである。
 
 民明書房刊 「ちゃいるど・ぷれい」
 
40 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:04/08/04(水) 00:06
 『殺過亜』(サッカー)
 
 自陣に攻め込んできた相手を圧倒的多数の味方で取り囲み、
 彼らの頭を切り落としては、蹴りあっていたという故事に由来するスポーツである
 
 民明書房 「世界の私刑大百科」より
 
42 名前:転載[sage] 投稿日:04/08/05(木) 13:19
 摩駆 怒名立奴(まく どなりゅうど)
 
 古代中国は宋の時代、摩駆(まく)と呼ばれる奴隷がいた。
 この者は頭が良かったが、金がないため身を立てることができなかった。
 そこで、仕えていた主人に「お願いです、科挙試験を受けるためお金をお貸しください」と頼んだが、
 主人は「お前になど受かるはずもない」と説明も聞かず突っぱねたため、
 摩駆は怒りを感じ、後日奇抜な服装でもう一度頼みに行った。
 それは白く化粧した顔に、赤い毛のかつらをすることで己を目立たせ、
 さらに「麻竺(まじく)」というインドの麻で織った服を着るというものであった。
 この容貌は主人を大いに興がらせ、一度だけ摩駆のために金を貸すことにし、
 その後、科挙試験に見事受かった摩駆は借りたお金を倍にして返したと言う。
 
 人々はこの話から奴隷から役人まで成り上がった摩駆のことを「怒りによって名を立てた奴隷」
 すなわち「怒名立奴(どなりゅうど)」と呼び、その行いをたたえた。
 
 また摩駆の格好をすることを、その服から「怒名立奴麻竺(どなりゅうどまじく)」と呼んだが、
 あまりに目立ち、さらに当時摩駆以外の者はこんな格好をしていなかったため
 この格好で悪さを行い、摩駆に罪をなすりつけようとする者が多く現れた。
 子供を誘拐するため窓から室内を覗き人々を恐怖に陥れたり、
 「称們出屋外。」(訳:お前ら表へ出ろ)と言って挑発的な態度をとったり
 椅子に座って一物をあらわにし、それを見た者に「称契不契我?」(訳:やらないか?)と
 声をかけるなどする犯罪が行われ、事態を重く見た時の皇帝はその格好をすることを禁止したと言う。
 それでもしばらくは悪さが続いたが、「熊組」と言う自警団によって取締りが強化されてからは
 犯罪が減ったとされる。
 
 なお、現代でこのような風貌の者がファーストフード店のマスコットとなっているのは
 この摩駆の由来からきているのはたしかであるが、あるインターネット掲示板で
 「お前ら、表へ出ろ」というAAがあったり、クマーに殴られたりしているAAがあるのは
 この話が由来なのかどうかは定かではない。
 
 民明書房刊『中国奇人列伝第三巻 茂衆〜賢達記』より
 
44 名前:転載(ハン板)[sage] 投稿日:04/08/06(金) 11:24
 417 名前:ほのかな質問 投稿日:03/06/22 17:55 ID:Vr9Wspyy
  韓国式起源創成法(日本でやった場合)
  「キムチは日本が起源だった」
  朝鮮出兵の際、加藤清正が虎退治をした話は有名だが、
  唐辛子と漬物を伝えたことはあまりというかほとんど知られていない。
  その昔加藤清正は虎退治から帰る際、山で迷ってしまった。
  その際1件の民家を見つけ泊めてもらおうとした。
  しかし現地の農民は大きな虎の死体と鎧武者の一行を怖がって家を飛び出し、離れの小屋に隠れてしまった。
  翌日加藤清正は一泊のお礼として寒さしのぎの唐辛子と保存食である漬け物1樽、
  イカの塩辛や昆布などを家の前に置き、大声で離れの農民に言った、
  「これは拙者たちのほんのKIMOCHIだ、KIMOCHIだよ!」と。
  こうして加藤清正は日本に帰ったのだが農民は樽の漬物を見てこう解釈した、
  「これはキムチという食べ物で(反復したので)、
   この樽の中に周りにおいてある唐辛子や塩辛を入れて食べろと言ったのだろう」
  こうしてキムチは韓国に広まって言ったかどうかは定かではない。
 
 民明書房刊「あなたのキムチが良く分かる」より抜粋
 
45 名前:世界@名無史さん
投稿日:04/08/06(金) 21:46
 『治殷 治殷 主!主!主!(ちんちん シュッ! シュッ! シュッ!)』
 
 殷王朝最後の皇帝である紂王は寵愛する妲己にそそのかされ、
 悪政を重ねた後、周の武王により打ち倒されたのはあまりにも有名な話である。
 
 紂王は、牧野の戦いで大敗後、都へと逃げ戻り、鹿台に火を放って自刃するのだが、
 自刃の直前、紂王の元で贅沢の限りを極めた役人や宦官たちは、かつての贅沢がもうできないのを悔やみ、
 紂王に対し、泣きながら
 「治殷 治殷 主!主!主!(※注・治殷=殷を治めて下さい、主=我らが主紂王よ!)」と懇願した。
 
 その懇願ぶりは、悲惨としかいいようがなく、
 ある者は燃えゆく宮殿の中で「治殷 治殷 主!主!主!」とヨダレを垂らしながら、
 柱に体を激しくこすりつけ、そのこすりつけようは柱の塗装が剥がれ落ち、
 血が噴出し肉がずたずたになるほどであったという。
 
 なお、現代日本の匿名掲示板において「ちんちん シュッ! シュッ! シュッ!」という文言と共に
 ヨダレを垂らした肥えた初老の男性のAAが貼られるのは、
 根底にこの逸話が元になっていることはいうまでもない。
 
 民明書房刊 『古代中国王朝滅亡全書』より抜粋
 
50 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/08/19(木) 20:16
 『着募憤怒(きぼんぬ)』
 
 古代中国、秦の時代。圧制に苦しめられていた民たちの密かな娯楽『素取婦(すとりぷ)』。
 妖艶な衣装に身を包んだ踊り子が客の前で着衣を一枚ずつ脱いでいくというものであるが、
 当然政府がこのような娯楽を容認するはずもなく、民たちは地下の劇場で官吏の目に脅えながら
 月一回の素取婦を唯一の楽しみとしていた。
 
 しかし、ささやかな楽しみも長くは続かなかった。
 ある日、なかなか脱がない踊り子に業を煮やした『宇不(うぷ)』という男が『着募憤怒!!』
 (俺は怒っているぞ!!早く着ている物を脱げ!!)と大声で叫んでしまったのだ。
 不運なこの男の叫び声は、たまたま警備中だった官吏の耳にまで届いてしまい、哀れにも処刑されてしまった。
 踊り子の裸体を見ること叶わず殺されてしまった宇不らの無念と怒りは、
 『エロ画像うpキボンヌ』などと形を変え、時を超え国を超えなお
 現代日本のインターネット上に受け継がれているのである。
 
 民明書房刊−古代中国〜下層階級の性と風俗〜−より
 
55 名前:世界@名無史さん
投稿日:04/09/04(土) 23:47
 小名弐(オナニー)
 
 校則により異性間の交際が認められていなかった旧制中学では、
 思春期の学徒達の性の処理方法として手淫が奨励されていた。
 
 小名濱町(現いわき市)に在った旧制小名濱第弐中學校では、
 「健全な精神は健全な肉体に宿る」の教育理念に基づき
 毎年全国の中学校から手淫部の精鋭達を招き校内射精大会が開催されていた。
 
 その時の応援に使う声援は学校名を省略することが通例となっていて、
 過去9回も優勝した主催校である小名濱第弐中學応援團の会場に轟く蛮声
 『小名弐頑張れ!』の声援は特に感銘を憶えるものであったと伝う。
 
 現代に於いて自慰行為の事をオナニーと呼ぶのはこの声援に由来すると言われている。
 また、大会に出場する選手たちは日々のトレーニングや練習試合等のため体力の消耗が激しく
 選手生活は長くは続けられなかったと伝う。自らの体力の限界を悟った選手たちは潔く現役からを引いた。
 現代に於いて辞職や辞退を意味する言葉に【辞意】という文字が当てられるのは
 【自慰】の音(Jii)が語源であると言う説が学会では支配的である。
 
 民明書房刊『ひとりでできるもん』より
 
60 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/09/08(水) 15:50
 首都来喜(しゅとらいき)
 
 中国では国の中心的な都市を決める為に、たいそう苦労した事があった。
 現在の首都は北京であるが、中華人民共和国の名称に決まった時には、
 まだ、首都は決まっていなく、各地の人間が「俺の町を首都にしろ」と言って反乱がおきた。
 暴力に訴える者もいれば、強盗などの盗みを繰り返す者も現れた。
 
 しかし、北京の人間は、暴れずに血を流さずに北京を首都にしてもらえるような考えを起こした。
 それは、労働を拒否する事によって国に損害を与える事だった。
 もちろん税金が入らなくなり、国政を圧迫する事を危惧した皇帝は、首都を北京にすることを決定した。
 そのとき北京はのものは「首都来期」(次の時代は北京が首都の意)と言って、作戦の成功を祝った。
 
 現在日本のプロ野球界では、ストライキ問題が世をにぎわせているが、
 「首都来期」が語源なのは言うまでも無い。
 
 (民明書房刊 『プロ野球の行方』より抜粋)
 
65 名前:世界@名無史さん
投稿日:04/10/09(土) 20:42:33
 【猫御身望道(ねこみみもうどう)】
 
 エジプトでは猫を崇拝する習慣があったのは有名な話だが
 古代中国でも猫を崇拝する宗派が存在した。
 
 彼らは陰暦の十五日、望の日に猫の耳を模したものを頭につけ
 夜通し「猫御身望道(ねこみみもうどう)猫御身望道(ねこみみもうどう)」と唱え続けたという。
 それは王朝の圧制に苦しむ民衆の心のよりどころとなったが、いつしか王朝の打倒運動にまで発展した。
 民衆は「猫御身望道(ねこみみもうどう)」と唱えながら死をも恐れぬ勢いで突撃したという。
 なんとか乱を鎮めた時の皇帝は信者を処刑し関連書物を焼き払い現在このことを記した書物は少ない。
 
 深夜アニメのOPで「ネコミミモード」と言い続ける歌があるが
 猫御身望道と関連性があるのかもしれない。
 
 民明書房刊『宗教に見る中国史〜着黄泉(つくよみ)の章〜』より
 
66 名前:処女作 投稿日:04/10/13(水) 13:49:37
 【血用肝胃(ちようきもい)】
 
 中国は秦の時代、時の将軍・蒙恬(もうてん)が北方を制圧している最中のことであった。
 その進軍中、幾日にもわたり日照りが続き、軍隊は疲弊しきり蒙恬とて例外ではなかった。
 蒙恬は兵を集め
 「它是密集的與那些強健出來的地方。」(訳・何か元気の出るものを持ってこい。)
 と言い、その半日後、一人の兵が紅色の飲料を献上した。
 
 蒙恬はそれでたいそう元気になり、その兵に
 「那是什麼。」(訳・あの飲料は何だったのだ?)と問うた。
 「那, 是肝臟和胃的血液。」(訳・あれは、動物の肝、胃から取った血でございます。)
 これを聞くと蒙恬は大層驚嘆するとともに憤慨し、
 「血用肝胃!(ちようきもい!)」(訳・肝、胃の血を飲料に用いたというのか!)
 と言い放ち、その場でその兵を処刑した。
 
 近年まで
 「血用肝胃(ちようきもい)」と
 「血用奇所異(ちようきしょい)」(訳・そのような異物の血を用いたのか)
 とで学会の論は真っ二つに分かれていたが、文献からの調査により前者の方が有力説となっている。
 
 現在日本の主に若者の間で気持ちの悪く、嫌悪感を与えるものや人に対して
 「超キモい」また程度によっては「キモい」と言い放つことがあるがこれらはその所以であり、
 また少数ではあるが「超キショい」と言う人がいるのも、上の事から明らかである。
 
 民明書房刊『日中言語あれこれ』
 
67 名前:もいっちょ
投稿日:04/10/13(水) 14:15:10
 撰斗里合戦(せんとりがっせん)
 
 殷が中国を支配する少し前のことであるが、
 数十もの小国が争いを繰り返している時代があった。
 その中でも撰(せん)という国は小国とは言えないほどの勢力を誇り
 その次に台頭していたのが斗里(とり)という国であった。
 
 ある時撰が斗里を滅ぼそうと斗里の領土に進軍したのであるが
 その2つの国の軍事力はとても大きな差で勝敗は誰の目にも明らかであった。
 
 しかし歴史というものはそう理屈通りには動かないもので
 撰が斗里を征服するのは容易だと考えていたのであろう、撰はその防護を怠っていた。
 その戦争の最中、亜(あ)というそれは小さな国の兵が撰の将軍を討ち取ったのである。
 その時の兵の言葉として有名なのが
 「頭挫亜!(ずさあ)」(訳・亜が撰の頭を討ち取ったぞ!)である。
 
 現在しばしばインターネット上において
 スレッドが1000(撰と同音である)に近づくと
 皆が「1000!」「1000!」と書き込み>>1000を取りたがることがあるが
 これらの人たちは撰国の末裔ではないかと言われている。
 しかしながら実際>>1000に書き込まれるのは亜国の兵の言葉をもじった「ズサー!」であったりし
 古代中国の小国紛争の面影がいまだに伺えることがわかる。
 
 ちなみに、「1000ゲトー」というものは同著の「煮解賭(にげと)」の解賭と
 撰からの派生語であることは察しのよい読者ならすでにお気づきであろう。
 
 (民明書房刊『DNAに刻まれた中國 現代人の行動のルーツを探る』)
 
69 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/11/03(水) 12:47:15
 素婦痢(す ふり)
 
 中国宋代、都の西沃省に勢力を誇った秘密結社。
 その首領である倭堕惨(ワ ダサン)は全国制覇の野望を抱き、
 把裸把裸拳という拳法を編み出し、人々から恐れられた。
 その秘奥義・非情戒弾とは、狙いを付けた敵(倭堕惨娯乃味と呼ばれる)を宴席に招き、
 遊技に誘って油断させ、密かにアルコール度数の高い酒を立て続けに飲ませて泥酔させた挙げ句、
 集団で襲うという手段を選ばない卑劣きわまるやり口であった。
 倭堕惨とその一党の手にかかった相手は500人とも1000人ともいわれ、
 倭堕惨魔術(ワダサンマジック)の名で恐れられたという。
 今日、学生コンパ等で同様の手口を使う者がまれにいるが、倭堕惨の後裔であるかどうかは定かではない。
 
 (民明書房刊『中国異常性欲物語〜倭堕惨の野望〜』より)
 
70 名前:世界@名無史さん
投稿日:04/11/05(金) 20:44:27
 イノキボン・バイエ(いのきぼんばいえ)
 
 正確にはサン・インノケンヴォン・ヴァイエと称される。
 中世カソリックの神父。本名はウィノ・アントニオ・キカンディ。
 
 裕福な貴族の出自であったが、ルターやカルヴァンの宗教改革を見、
 失われゆくカソリックへの信仰を憂い、
 イグナティウス・ロヨラやフランシスコ・ザビエルらと共にイエズス会を設立した。
 
 彼はカソリックではあるが聖書の暗誦や教会への信仰などは重要視せず、
 ただ神に祈るその心こそが最大の大事として、
 「イティニ・サン・ディアー(親愛なる神に祈ります)」と祈る事こそが肝要である、と説いた。
 当時の日本の農民の識字率は高くなかった為、彼のこの簡素な教えは、
 キリスト教禁止令が発令されるまで、民衆に広く伝播したという。
 
 彼は信仰の道だけでなく、スポーツの交流にも力を注ぎ、
 日本の柔術に卍固めを伝来したのも彼であるとされる。
 
 民明書房刊「カソリックの年代史」より
 
71 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/11/13(土) 23:33:34
 馬威撫 (ばいぶ)
 
 古代中国の武道家、禮汰(れいた)が考案したとされる武具であり
 棍の先に取り付けた、軟体状の物体を持って相手を打ち据える事を得意としていたが、
 禮汰自身の類稀なる体術をもって先端部のみを振動させ、その高速振動する軟体を相手に接触させる事で、
 文字通り相手を骨抜きにするという奥義をも体得していたと伝えられている。
 (中略)
 なお、今日に大人のオモチャとしてあげられる「バイブレーター」は、
 禮汰と馬威撫の合成が語源になっていることは、賢明なる読者諸氏には、言うまでも無い事であろう。
 
 太公望書林刊
 「中華好色一代記〜韋駄天いかせ男」より抜粋。
 
72 名前:世界@名無史さん
投稿日:04/11/17(水) 10:43:19
 裏千家
 
 かの有名な「ボルジア家の毒」の秘伝は、スペインを経由して、
 より洗練されポルトガルの修道院でさらに研究が進められ、極秘として一部の者に伝授されていた。
 ルイス・フロイスはこの秘伝を知る者の一人である。彼は場合によってはこの秘伝により
 日本の王を殺害しても良いとの許可をローマから得ていた。
 彼は千利休と会見し、その人柄にすっかり惚れ込み、互いに信頼する仲となる。
 豊臣秀吉のバテレン追放令が出ると、彼は毒薬の秘伝を千利休に伝えた。
 千利休の茶道にはこうして知られざる必殺の暗黒側面が加わることとなった。
 この暗黒側面を引き継いでいるのが「裏千家」であることは周知の事実である。
 
 太公望書林刊
 「お〜いお茶 あなたとティータイム」より抜粋。
 
74 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/12/01(水) 21:46:21
 「あれはまさしく暗拳・乱那兎衛!」
 「知っているのか雷電!?」
 「うむ……」
 
 暗拳・乱那兎衛(らんなうぇい)、
 その起源は古く中国は蜀の時代に遡るという。
 当時、戦乱に疲れた人々をさらなる困窮においやる存在として、
 軍からの脱走兵が山賊や夜盗と成り果てたものがあった。
 軍で戦闘を経験したこれらの賊に、非力な町民・村人では為す術がなかったのは言うまでも無い。
 
 だが、そんな中に義憤のために立ち上がり人々を護った者がいた。
 闇夜に潜むために顔を黒く塗り、相手の混乱に乗じて兎のごとく俊敏に駆け回る攻防自在の拳法、
 暗拳・乱那兎衛を極めたその人物の本名は後世に伝わっていないが、
 賊を狩り屍山血河を築いたその老人を、時の人々は多屍老(たしろう)と呼び敬ったという。
 
 しかし例え義憤のための戦いとはいえ、相手が非道な賊とはいえ、官憲ではない者による虐殺は罪であった。
 多屍老は何度も捕らえられては釈放され、しかし己の信念を貫いたがためにまた捕らえられたという。
 人々は多屍老を神と称え、時の官憲に弾圧されつつもその信仰は途絶えることがなかったという。
 
 この暗拳・乱那兎衛は、現代のヒット・アンド・アウェイに通じる攻撃を主体としていたが、
 兵法三十六計をも重んじたという。
 英語のランナウェイは、この拳法の名前から生じていることに間違いはなかろう。
 
 余談であるが、今も世間をにぎわしている田代まさし氏は、
 己の信念を貫き、逮捕されることを繰り返している。
 人々が彼を神と呼び称えているのは、この多屍老の伝説の再来ではないかと思えてならない。
 
 民明書房刊「拳法で覚える英単語」より抜粋
 
77 名前:山野野衾 ◆a/lHDs2vKA [sage] 投稿日:04/12/27(月) 17:31:43
 日本史無双乱舞(にほんし・むそうらんぶ)
 
 文永年間の事である。当時蒙古襲来の恐怖にとりつかれていた朝廷は、寺社に祈祷を命ずる一方で、
 日本が仏の垂迹の守護する「神国」たる証左を明確にする様、時の文章博士大江広房に勅命を下した。
 その結果、神功皇后以下の故事が、百首の歌として編纂される。
 これに気を良くされた後深草院が、大力のものに、歌に合わせた組み手を行わせよとのたまわれた結果、
 西大寺の僧兵であった叡尊に白羽の矢が立った。
 還俗し、力士として「神風」の名を賜った叡尊は、百首の歌に合わせた百の技を開発し、
 「日本史無双乱舞」と命名。弘安の役においては、敵船ごと蒙古兵を撃破する働きを見せる。
 後に、京・鎌倉には「西大寺の僧叡尊の祈祷により、神風が吹いた」という話が伝わる事となるが、
 実はこれが力士神風の活躍を誤伝したものであったという事、
 賢明なる読者諸君は、既にお気づきの事であろう。
 
 なお現在でも、世界史(異国史)を語る場において、日本史の書き込みを連発する行為の事を
 「日本史無双乱舞」と呼ぶ事があるが、これは諸外国の歴史にうつつを抜かし、
 神国日本の歴史を忘れた輩に鉄槌を下す行為であるという点から、
 神風の雄姿になぞらえて言ったものである。
 
 民明書房刊『日本闘技史裏話』より抜粋
 
 (神田本の傍注)
 後半は、原住民からすればただの荒し行為であり、
 著者の偏見による身びいきの感が否めない。
 
78 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:04/12/29(水) 00:08:44
 『米爺醗葉(マイヤハッハ)』
 
 古代中国は殷の時代、殷最後の皇帝紂王は堕落の限りを尽くしていた。
 ある時、菩提樹の葉を使って最高の米酒を作る米爺(マイヤ)という老人に
 紂王は米酒を献上することを命じたが、
 米爺はそれを断り拷問で製造法を吐かせられることを恐れ自害してしまった。
 時の詩人はこの米爺の行動をたたえ、「米爺否 米爺封 米爺宝 米爺醗葉」
 (訳:米爺は断った、米爺は封じた、米爺の宝を、米爺の醗酵させる葉を)
 と歌い伝えたという。
 
 一方紂王は米爺から奪った米酒で池を作り、飲み踊り、肉を簒奪し、
 後世に酒池肉林と語り継がれる宴会をし、周に滅ぼされたのは皆の知るところである。
 
 現在「マイヤヒー マイヤフー マイヤホー マイヤハッハー」と歌う曲が流行っているが、
 これは米爺の詩が由来であることは明らかである。
 しかし、その歌詞が「米さ!米酒か!飲ま飲まイェイ!」と聞こえてしまうのは
 我々が酒池肉林を知っている日本人だからかどうかはわかっていない。
 
 民明書房刊「伝説の酒めぐり 〜恋の呪文は毎夜日入」より
 
80 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:05/01/15(土) 17:54:01
 魔卦墓野(まけぼの)
 
 いにしえの中国では古くから競腕(けいわん)という大会が開催されてきた。
 競腕とは決まった規則や規定のない、いわば大規模な野試合であるが、
 それがゆえにその勝者は大陸一の武芸者とされ、その称号をかけて多くの男たちが闘った。
 
 漢の時代になると、朱母之(あけぼの)という男が競腕において永く君臨した。
 朱母之は優れた易者でもあり、占卜によって相手の動きを読んだというが、
 そのあまりの的中率に、朱母之は「魔卦(まけ)」と呼ばれた。
 また、朱母之の闘った後には必ず墓が出来ると言うことから「墓野(ぼの)」とも呼ばれ、
 以降、競腕における実力者のことを「魔卦墓野(まけぼの)」というようになった。
 
 競腕は現代ではK-1と名を変えていることは良く知られているが、
 あまりに不甲斐ない元横綱・曙が「マケボノ」と揶揄されるのは、
 なにか皮肉めいた物を感じざるを得ない。
 
 (民名書房刊『大晦日は打稲舞都!!』より抜粋)
 
81 名前:文字だけでゴメン
投稿日:05/01/23(日) 14:39:23 0
 「九無九無(キュムキュム)」
 
 鎌倉時代初期、駿河国や相模国で活躍した名僧大輔上人(だいすけしょうにん)が説いた教え。
 「仁 義 礼 孝 忠 真 善 徳 誠」を大事にし、
 仏の教えによって行いを正し、それが欠けることが無いように戒めたもの。
 この教えは広く親しまれ、上人が決まって「九無九無」と唱えたので
 信徒もこれに習い唱えたのがなまって「キュムキュム」となった。
 何故かプロ野球板で大輔上人のAAを見かけるが、これは上人の遺徳が今日も生きていることの現われだろう。
 
 民明書房刊 『日本名僧伝』より
 
84 名前:世界@名無史さん 投稿日:05/01/30(日) 14:40:39 0
 湯子(ヌコ)
 
 本来は湯子(ユコ)がなまり湯子(ヌコ)と呼ぶようになった。
 冬に布団に入ると冷たいので、それをあらかじめ暖める幼児のこと。
 主に大名家で、貧民救済のために雇われたがそのまま殿様の手が付くことがあり
 悲観した温子(ヌコ)が自殺し化けて出た話は
 鍋島化け湯子騒動(なべしまばけぬこそうどう)として有名である。
 1949年東宝にて映画化もされた。
 
 民明書房刊 『江戸時代に見る職業大辞典』より
 
86 名前:世界@名無史さん
投稿日:05/01/31(月) 19:30:04 0
 在世委灯油牛(ざいせいとうゆうし)
 
 古代インドで、出家していない仏教信者は
 当時非常に高価だった財産である灯油と牛を安全なお寺に預けていた。
 お寺では預り証を発行し、在世信者から要求があった場合返還する義務があった。
 この制度のことを、在世委灯油牛(ざいせいとうゆうし)と言う。
 
 ところが寺では宗派拡大のために、灯油と牛を勝手に売却し壮大な寺院や仏像を作った。
 はじめ都会に寺を建てていたときは参拝者も多くお布施がたくさん集まり
 信者からの灯油と牛の返還要求に答えられていた。
 しかし、人のあまり住んでいない田舎にも寺を作ったため
 お参りする人はほとんどいなくてお布施は集まらなかった。
 それでも寺を作り続けやがて在世信者からの灯油と牛の返還要求答えられなくなり、
 在世委灯油牛(ざいせいとうゆうし)制度は破綻した。
 
 民明書房刊 『歴史は繰り返す』より
 
87 名前:世界@名無史さん 投稿日:05/02/11(金) 10:24:46 0
 麻通権散馬痛(まつけんさんばつう)
 
 三国時代、劉備の漢中平定戦において魏の将軍麻通権が、
 白眉で有名な馬良の5番目の弟で蜀の武将馬痛の勇猛ぶりに恐れをなして逃げたことを
 正史の三国志外伝は麻通権散馬痛(まつけんさんばつう)と記録している。
 三国志演義において死せる孔明生ける仲達を走らすのモデルとなった。
 
 民明書房刊 『そのとき歴史は動いたよ』より
 
88 名前:世界@名無史さん
投稿日:05/02/11(金) 22:20:07 0
 大阪民国(テハンミングク)Republic of Osaka【国名】    <略称: 東朝鮮>
 
 日本列島にある朝鮮民族国家。
 人口883万人。面積1893.54k㎡。国土の大半は平野で占められている。
 政治体制は大統領制。前ノック大統領が女子学生に対する猥褻行為で辞職後、
 大田房江が大統領に就任(現在二選目)。
 
 朝鮮由来の独特の文化様式をもち、
 祝い事があると下水の流れ込むドブ川に飛び込み、死者を出すこともある。
 交通事情も日本と大きく異なっており、信号の青は「進め」黄色は「進め」赤は「進め」である。
 更に、4車線道路で3重駐車するなどマナー、順法精神が皆無である。
 執行猶予中の犯罪者「辻元清美」に70万票も投票するほどの犯罪者びいきの無法地帯であることが証明された。
 
 また、「お笑い100万票」と言われ、
 面白い者に投票するという政治を全く理解していない有権者が多いのも特徴。
 朝鮮系ヤクザの総本部があり、治安の悪さもアジアでワースト1位2位を韓国(本国)と争うほど悪く、
 同国は「韓災地方」とも呼ばれ、「犯罪者」の語源は「阪在者」である。
 
 大阪民国人は一般に阪国人(ハンゴク人)または阪人(ハン人)と呼称する。
 アクの強い阪国語(ハン国語、例「〜やで」「ちゃいまんがな」等)を話し、
 第二言語としてハングル語を使う。
 民族の仇敵である日本国と、日本の首都東京に強烈なコンプレックスと敵意を抱いており、
 一方で同胞の朝鮮総連、韓国民団には強烈なほど好意的。
 大阪民国の経済は近年悪化しており、失業率は日本で最悪の沖縄県に次ぐ7.7%と高水準。
 また大企業が本社機能を日本国内(主に東京)に移す傾向がある。
 
 阪国人の経済観念は「金に汚い」の一言で表すことが出来る。
 決して人には奢ったりせず、「ワリカンやで」「奢ってくれ」「安ぅならんか?」などが口癖。
 注意したいのは、阪国人は節約家なのではなく、ただ単に意地汚いだけという事である。
 朝鮮企業のプロ野球球団「ロッテ」を応援せずに、阪神タイガーズを狂信する事が東朝鮮今世紀最大の謎である。
 
 グリコ森永事件(お菓子に毒が入れられて脅迫された事件)で、なぜかロッテだけは狙われなかったので、
 犯人はまさかロッテ社員ではないだろうが、犯人は在日朝鮮人という嫌疑がかかっている。
 (防犯ビデオに写った犯人はキツネ目の朝鮮人顔!)
 
89 名前:世界@名無史さん 投稿日:05/02/12(土) 19:05:42 0
 空残業(からざんぎょう)
 
 お釈迦様は全ての現象は空であると教えるが、
 人は生きていくうえでどうしても業(カルマ)を背負ってしまう。
 また、何もしなくてもお金だけは欲しいと思う。
 
 そのことを仏教では空残業(アーカーシャ・アパリグラハ・カルマ)という。
 現在、ろくでなしの公務員が仕事もせず税金だけむさぼる姿は
 まさに空残業(アーカーシャ・アパリグラハ・カルマ)といえるが、
 実際に仕事をしていないのに空残業(からざんぎょう)をつけているのは誠に嘆かわしいと言える。
 
 民明書房刊 『仏教用語辞典』より
 
90 名前:世界@名無史さん
投稿日:05/02/13(日) 22:30:48 0
 泣いて馬謖起きる(ないてばしょくおきる)
 
 三国時代の人馬謖は幼児期に寝起きが悪かったことを
 三国志馬謖伝は、泣いて馬謖起きる(ないてばしょくおきる)
 と伝えている。
 
 民明書房刊 『有名人の子育て論』より
 
94 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:05/02/14(月) 21:42:57 0
 韓民国(はみんご 転じて はみご)
 
 関西地方で、自己中心で嫌われ仲間はずれにされる子どものこと。
 先般行われたワールドカップにおいて韓国応援団が
 大韓民国(てーはみんご)と叫んでいたのは記憶に新しい。
 
 民明書房刊 『関西弁の起源』より
 
95 名前:世界@名無史さん 投稿日:05/02/15(火) 16:21:26 0
 赫連慕(かくれんぼ)
 
 その昔五胡十六国は夏の国にて赫連という君主がいたそうな
 ある日赫連がお忍びで城下町を歩いていると美しい女性に出会った
 しかし身分の差からかなわぬ恋と分かっていたため、いつも街角から眺めてばかりいた
 その姿を見た町人が「赫連慕」(赫連が慕う)といっていたことから遊びとなり、
 対象の相手に発見されずに上手く隠れるゲームとなったそうな
 
 民明書房刊 『ストーカーの起源』より
 
96 名前:世界@名無史さん
投稿日:05/02/16(水) 21:33:48 0
 拳法違反(けんぽういはん)
 
 中国から伝えられた拳法は、日本においてさまざまな流派に分かれた。
 中には明らかにおかしい流派、戦車やジェット機を使う自営態や学校にお金を投げる紙額女性などは
 どう考えても拳法ではないが日本では、試合前の介錯によって拳法違反でないとされている。
 介錯によってまさにやりたい放題であるが、国民も特に気にしない。
 
 民明書房刊 『世界の拳法』より
 
97 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:05/02/18(金) 13:32:03 0
 『兵、兵、兵』(へい、へい、へい)
 
 「来週の志願者は学徒(ガクト)!」
 中国は蜀の時代、毎週、休日明けの月曜日に定期的に希望に燃える若い好青年を召集し、
 恐ろしい二人の訓練教官によって短期間で鍛え上げ、ステージ(戦地)に送り出すという軍隊による伝説の集会。
 特に毎週召集される若者はこれまでにも教官たちから「お前やるきあんのか!」「声が小さい!」
 などの暴言をうけながらどつく、しばく、という行為を受けて何も言い返せなくなる。
 学徒兵として無理やり動員されているのだから、やる気がないのは当り前。
 そして訓練が終了すると雰囲気は一変し、戦場で縦横無尽に活躍する若者、
 熱狂的に万歳をする観衆、満足げに見守る教官の笑顔に溢れ場は一変。
 戦での功労を賞賛し集会は幕をおろす。
 
 現代、同じ月曜日にHEY!HEY!HEY!という音楽番組がゴールデンタイムに放送されているが
 兵、兵、兵の再来ではないかと思えてならない。
 
 民明書房刊『知られざる若き兵士の歴史』より