民明書房に学ぶ、世界史の虚像と実像 適当にまとめ その2

ああ、聞いたことがある……

100 名前:世界@名無史さん 投稿日:05/02/24(木) 22:44:08 0
 期待アゲ
 
 101 名前:世界@名無史さん
投稿日:05/02/25(金) 00:27:42 0
  百偈戸(ひゃくげと)
 
  明朝末期に仏陀を称える偈が民衆に流布した。
  それを唱えることにより、解脱することができるされ僧俗問わず唱えられるようになった。
  熱心な教徒は一日に百回唱える行を自らに課し、これを百偈と称した。
  百偈を行う者は大いに尊敬され、その家を誉め、人々は百偈戸と呼ぶようになった。
  煮解賭、酸下吐などを軽薄行いと軽蔑し、百偈戸こそ真の聖人君子としたのだった。
  信仰心の薄れた現代においても、インターネットで「100ゲット」と書き込むものがいるが、
  その由来が百偈戸であることを知るものは少ない。
 
  (民明書房刊 「仏教とインターネット」)
 
102 名前:真実[eiyu2474] 投稿日:05/02/25(金) 17:41:35 0
 惨無寸(サムスン)
 
 支那が半島に楽浪郡を設置して現地の蛮人を仔細に観察すると、仁、礼、徳が全く無い事が解った。
 それで時の朝廷に仁、礼、徳の三要素が無い蛮人、惨無寸と銘々し報告した。
 この報告書を大いに参考にした元は日本侵略の時この蛮人を重用した。
 
 今、現在、朴利、ダンピング、不良多発などの倫理が欠如している某ウリナラ企業があるが
 これは5千年にも及ぶ民族の伝統の成せる業なのか??
 
 民明書房刊『楽浪郡外伝、夷の中の蛮人』より
 
103 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:05/02/26(土) 13:03:43 0
 難陀慰問市場(なんだいもんしじょう)
 
 お釈迦様の弟子阿難陀(アーナンダ)が出家する前開いた市場のこと。
 高品質のものが安く買え、訪れる人の心を癒した。
 現在韓国にある南大門市場(なんだいもんしじょう)はこれをまねたが
 安く品質の悪いものばかりで、市場の喧騒さは人の心をすさませ大違いである。
 
 民明書房刊『韓国パクリの歴史』より
 
110 名前:世界@名無史さん 投稿日:05/03/09(水) 03:59:45 0
 ツーンデレー
 
 5世紀頃、アジアの北部で、白人系遊牧民が創始した兵法。それがツーンデレーである。
 その闘法は圧倒的な戦力を持つモンゴル系騎馬民族に対して、
 硬軟取り混ぜた戦略を臨機応変に行うことにあった。
 
 ある時は、死に物狂いで戦ったと思うと、
 次の日にはにこやかな顔で、和睦を勧めてくるなど現在で言う高等心理戦術であった。
 
 彼らの見事な戦いに感服したモンゴル人はその後、モンゴル帝国を築いた時に、
 都会のすました感じのくせに仲が良くなると態度が軟化し、
 人前で平気で腕を組んでくる女性のことを「都腕麗(つうでれい)」と呼ぶようになった。
 
 なお、現在でも彼らの住まう地が、季節によって、
 寒い氷原や温かい平原に変わるツンドラというのはもちろんこの名残である。
 
 民明書房刊「偉大なるかな真(まこと)の亜細亜」より抜粋
 
111 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:05/03/09(水) 21:17:02 0
 ツンドラ地帯(積むドラ地帯 転じて ツンドラ地帯)
 
 19世紀ごろの清では、日米欧の進出とともに文化の融合が生まれ、
 西洋と東洋のゲームのルールが混合し、ほぼ現在の麻雀が誕生した。
 
 当時の麻雀牌は、骨と竹から作られており、碑の裏側の竹の模様は微妙に異なり、
 麻雀の名人はその全ての牌を模様で暗記することができた。
 そのため、積み込みも相手の上がり牌を見抜くことなど自由自在で、
 弟子には、ドラ牌をまとめて積み込むことを積むドラ地帯とまず教えた。
 
 民明書房刊 『驚異の中国の名人たち』より
 
112 名前:世界@名無史さん
投稿日:05/03/19(土) 22:49:38 0
 理科にカン、無理を正さず(りかにかんむりをたださず)
 
 ノーベル賞受賞した田中氏が言ったかもしれない言葉。
 誤って試薬を大量に調合してしまったが、もったいないので
 そのまま観測したところノーベル賞級の大発明をしたことから。
 
 民明書房刊 『保守強引な展開』より
 
121 名前:世界@名無史さん 投稿日:2005/05/16(月) 19:48:54 0
 T.O.B.(ティーオービー)
 
 世界最初のゴルフのルールは、18世紀に定められているが、
 それ以前に、ローカルールとしてT.O.B.(ティーオービー)があった。
 Tee shot がO.B.に入ると負けとなるルールである。
 ドライバーの飛距離を競い合いドライバーだけで遊べて人気があった。
 貴族でも特に騎士の間で盛んでホワイトナイトとかブラックナイトと呼ばれた。
 特にランカスター家の当主packの保守的な戦法はパックマンディフェンスと言われた。
 
 民明書房刊 『雑学の泉』より
 
122 名前:中国武術ネタが好きだった
投稿日:2005/05/21(土) 16:31:33 0
 呉起振(ごきふり)
 
 中国・春秋時代。
 孫子と並ぶ呉子兵法で名の知られる「呉起」は、法制改革を断行し、南方の大国・楚を発展させた。
 しかし、急速な改革は多くの政敵を生んみ、のち楚王が死に太子が即位すると、
 呉起は政敵によって命を狙われるようになる。
 逃げ切れぬと悟った呉起は先王の遺体にすがり付いたが、政敵たちはかまわず王の遺体ごと呉起を射抜いた。
 このことで彼らは後に新王によって処刑される。
 
 時の人々は、己の死後に敵を抹殺した呉起の粘りを「呉起振(ごきふり)」と称して恐れかつ称えた。
 
 現在、呉起の粘りにも負けぬ生命力を持つ害虫を指して使われているのは読者諸賢の知るところである。
 
123 名前:世界@名無史さん 投稿日:2005/05/26(木) 20:00:41 0
 倉庫牛暖(そうこうしだん)
 
 第二次大戦時、ドイツ軍の編み出した新戦法クローゼ・コーペン・ヴァームの訳を
 倉庫牛暖(そうこうしだん)と言う。
 
 当時日本とは潜水艦で情報を交換しており、平家物語がヒントになったともいう。
 木曽義仲に習い牛を一箇所で集中的に運用すると英仏連合軍はたちどころに敗れた。
 特に牛は通れないとされたアルデンヌの森突破は有名。ロシアの冬将軍に敗れた。
 英米軍の場合は、着個牛暖(きこうしだん)と訳す。
 
 ドイツ軍の場合牛を倉庫で暖めたが英米軍は服を個々に着せていた。
 
 民明書房刊 『雑学義経』より
 
124 名前:世界@名無史さん
投稿日:2005/05/28(土) 00:45:52 0
 「怒瑠砲/牙津(ぬるほ/がつ)」
 
 中国は元の時代、国土拡張を目論み周辺諸国への侵略を行っていた。
 なかでも日本を攻めたものを日本では元寇と呼んでいるが、
 その際に使用された艦載兵器が「怒瑠砲」である。
 怒瑠砲は船首に固定された投石器から西瓜大の瑠璃(ガラス)を打ち出すもので、
 その威力たるや凄まじいものであった。
 
 怒瑠砲を驚異とみた日本側は九州北西部の湾岸に対怒瑠砲用の防壁を建設。
 超大型の槍状のものを海に向けて並べて突き出し、
 怒瑠砲から放たれた瑠璃を未然に海に突き落とすもので、
 その形状が獣の牙のようであったことから「牙津」と名づけられた。
 牙津は絶大な効果を発揮し、元寇が失敗に終わった主因とされている。
 
 なお、現代にインターネット上で「ぬるぽ」と書き込まれた際に「ガッ」と
 (殴るなどの描写を添えて)返されるのは、この名残りであるのは言うまでもない。
 
125 名前:世界@名無史さん 投稿日:2005/05/28(土) 00:49:33 0
 【マツケンサンバ】
 
 正式にはマッケンサンバである。
 小説家アーサー・マッケンが魔術結社ゴールデン・ドーンに所属していたことは有名で、
 その宗教的な儀式に起因する。
 
 結社を抜けた後、友人のモントゴメリー・エヴァンスに
 儀式について尋ねられたマッケンは、エヴァンスの前でそれをして見せた。
 それはまるでブエナ・ビスタ・ソシアルクラブのパーカッショニストのごとく
 ノリノリでマラカスを振るという儀式でその時にエヴァンスが「まるでサンバだ」と
 笑いながら言ったことが始まりだとされる。
 そしてそれを「使える!」と判断したマッケンは他の友人にもことあるごとにその儀式を披露した。
 他の友人にもウケは良く、いつしか「マッケン・サンバ」と友人内で喜ばれる宴会芸へと昇華した。
 
 遠く離れた日本にもそのサンバは知れ渡ることになるが、
 当時英語力の低かった日本人は「アーサー・マッケン」を「朝松健」と勘違いし
 「マツケン」となってしまったことは意外と知られていない。
 
126 名前:世界@名無史さん
投稿日:2005/05/28(土) 13:37:57 0
 【北派 華箕山 万月張】(ほくは かみやま まんげつちゃん)
 
 中国拳法には肉体を鍛え外的な破壊力を追求した「南派」と、
 体を水と見立て内部からの破壊を目的とした「北派」があることは
 賢明な格闘技マニアの読者方ならご存知だろうが、
 その北派の中でも最強と呼び声が高い拳士に清の時代の「万 月張」(まん げっちゃん)という者がいた。
 山東省の華箕山(かみやま)で修行した彼の内頸は、
 その威力ゆえ喰らった相手が両手両足を広げ飛びあがったといわれる。
 
 また相当のサディストとしても有名で、相手に止めをさす時に
 「おまえはどの拳士に打ちのめされたい?」などとつぶやき、
 そして相手は「北派 華箕山 万月張!(華箕山出身の北派拳士、万月張にです)」と
 叫びながら宙に舞ったという。
 
 それ以降「北派華箕山万月張」という言葉は、絶対に敵わない相手への畏怖の言葉を指すようになった。
 VIP板などを中心に「どのアニメキャラと○○したい?」といった旨のスレが乱立した際、
 モナーが飛び上がりながら「僕は、神山満月ちゃん!」と叫ぶAAが頻繁に見られたが、
 これが>>1に対する恐怖を表していたことを知るものは少ない。
 
 民明書房刊「おまえらどの男塾生と油風呂入りたい?」より
 
134 名前:世界@名無史さん 投稿日:2005/06/20(月) 08:00:17 0
 負陰気(ふいんき)
 
 古代中国は春秋時代において、諸子百家と呼ばれる説法家が数多くいたが
 その中に、万物を陰と陽で表す陰陽説を唱える鄒衍(すうえん)と言う者がいた。
 この鄒衍が治世にあたり、当時仕えていた秦王に進言したのが
 「王に対する害や恨み(すなわち陰の気)を王の代わりに受け、これを守る」という呪術的な役職である。
 この役に着いた者は「王の陰気を負う」ことから「負陰気」と呼ばれ、
 また任命されてしまうとなぜか死ぬまで任を返還できないことから
 人々はこの任に任命されることを恐れたという。
 
 しかし、これらの者が王の害を代わりに受けてくれたおかげで
 秦王は何度も刺客などから逃れ、ついには中国全土を統一することができた。
 この「負陰気」は中国統一後も歴史の裏で代々受け継がれ、それがやがて日本に伝わり
 陰陽師などになったことは意外と知られていない事実である。
 なお、現在で掲示板に「ふいんき(←なぜか変換できない)嫁よ。」と書かれていると
 恥ずかしい打ち間違いと勘違いされることがあるが、本当は現代日本でこの役に
 自分の嫁が任命されてしまったという者が書いた悲しみの慟哭が書かれているのである。
 
 民明書房刊「黒歴史〜平和な世間の知られざる恐怖〜」より
 
149 名前:世界@名無史さん [sage] 投稿日:2005/08/02(火) 14:38:00 0
 家遺書無(かいしょなし)
 
 家で遺書を書かずに自殺した人を家遺書無(かいしょなし)と言う。
 歴史上では、唐の時代のひと政治(せおじゅい)が政治家遺書無(せおじゅいかいしょなし)として有名。
 政敵の民営化(みんえいか)と争い敗れた。
 
 民明書房刊『中国歴史異聞』より
 
152 名前:世界@名無史さん[嵐じゃなくてNEWSとか細部の甘さは許して_| ̄|○ sage] 投稿日:2005/08/14(日) 21:35:17 0
 『亞羅子(あらし)』
 
 後漢末期、未成年の美男子を集め、彼等を皇帝への慰め役として派遣する、
 そのような商売を糧に生活をする「蛇爾委(じゃにい)」という商人が居た。
 蛇爾委の選別眼は非常に優れており、彼と彼によって選ばれた美男子ら「亞羅子(あらし)」は
 皇帝の寵愛を一身に受け、蛇爾委一族は未曾有の栄華を誇っていた。
 また宮廷内においても亞羅子の人気高く、熱狂的な女官たちは「蛇爾於汰(じゃにおた)」と呼ばれる
 亞羅子愛護集団を結成し、亞羅子の擁護を行っていた。
 
 或る時、宮廷内でも権力を擁していた女官「紀玖磨(きくま)」が亞羅子の一人を誘い、
 宮廷内で酒を呑ませ、彼を悪酔いさせ、酔った亞羅子の一人が宮廷庭園内で騒ぐという事件が起きた。
 事件当時就寝中だった皇帝はこれに激怒し、紀玖磨、亞羅子及び蛇爾委をそれぞれ自宅謹慎させた。
 しかしこの処置に対し「蛇爾於汰」は亞羅子への同情、及び彼に呑ませた紀玖磨に対する非難により、
 皇帝の寵愛を受けている女官らが皆一斉に亞羅子の謹慎処分をとくよう懇願し、
 紀玖磨へはさらに強い処分を行うよう毎日強く訴え、その訴えがあまりにも多く強かったために、
 これ以降同じ人に対し、同じ場所において、人の意見を聞かず、
 ずっと同じような一方的主張を繰り返す行為自体を「亞羅子」と呼ぶようになった。
 
 現在の中国においても「亞羅子」は非常に嫌悪される言葉であり、
 またいつの頃からか中国から日本へこの言葉が伝わり、
 日本のインターネット上でも激しく忌み嫌われる行為となっているのは周知のとおりである。
 
 (民明書房刊 「中國と日本の間における言語交流 第二巻後漢期」より)
 
153 名前:世界@名無史さん
投稿日:2005/08/20(土) 20:53:27 0
 『茶暗婆 ( ちゃんば ) 』
 
 去勢した男を使役する宦官という制度は、長く続いた中國文明の闇として有名であるが、
 その女性版とも言える「茶暗婆」については案外知られていない。
 彼女らの仕事はもっぱら茶を入れるといった雑務であり、
 秘密漏洩を防ぐために両目を潰されていたが、皇帝への影響力は絶大であった。
 権力欲に取り付かれ、皇帝にまとわりつく茶暗婆たち。
 それを見た誰もが不快に感じた事は想像に難(かた)くない。
 
 現代日本の蹴球界において、花形選手とその追っかけの様子を
 「あいつが走ればチャンバ(茶暗婆)も走る」と揶揄するのは
 歴史の闇に葬られた文化が、日本で生きているからに他ならない。
 
 ( 民明書房刊 「始皇帝からキャプテン翼まで」 より )
 
155 名前:世界@名無史さん[転載sage] 投稿日:2005/08/28(日) 22:50:09 0
 ウプレカス[Uprecus]
 (紀元前1世紀前半〜没年不明)
 
 ローマ帝国の思想家。(元軍人の説アリ)
 当時帝国により厳重に秘匿されていたあらゆる伝統技術の開放を訴え、
 ローマ市街で市民や外国人、奴隷達を煽動して暴動を起こした。
 その為に帝国から疎まれ元弟子のコニウプにより毒殺(暴動の罪で処刑、地雷で爆殺説等あり)されるが、
 彼の名は後世まで受け継がれ、自由を愛する文化人や思想家などに親しまれ続けた。
 
 インターネット上で同人誌や商業漫画のアップロードを求める際に
 「うpれカス」と叫ばれるのは、ウプレカスの名前をもじったものであり
 「総ての文化(同人誌の内容)を開放せよ」と彼の思想を踏まえた上での発言かと思われる。
 
 ttp://cgupload.dyndns.org:8080/~upuser/up/img/1125234813403.jpg
 
156 名前:世界@名無史さん 投稿日:2005/08/30(火) 10:16:31 0
 禁網(きんもーっ☆)
 
 遡るは弥生の時代、自己の土地を主張する為に注連縄(しめなわ)で境界線を引いていたが
 境界線が不明瞭な場合、互いの一族の代表が綱を引き合い勝った者が領地を広げていくという習慣があった。
 その綱引きはまさに一族にとっては死活問題であったため、死にモノ狂いで競い合っていた。
 ある者は策を凝らし、またある者は3日間勝負がつかず互いに倒れ臥すという事もあった。
 
 それを知った伊都国の大王はこれ幸いとその争いで疲弊した集落を吸収していった。
 その際『綱引きによって民が疲弊せし事まかりならん』と禁網の御触れを出したが、
 真実は神社に使われている注連縄を漢達の血・汗・小便で穢れていくのを許せなかったという。
 
 2005年熱犬店従業員が同人誌即売会会場にて漢達がぶわぁぁぁと集まっている光景を見て
 交通整理の縄に沿って目を血走らせている姿はまるで弥生時代の禁網のようだと錯覚し、
 自己の日記に記録したが、その日記が発覚し皆に叩かれたのはあまりにも有名。
 
 (民明書房刊 「ゆかりの家には鏡が無い」より)
 
162 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:2005/09/29(木) 17:16:35 0
 『板賭シ露霧零 ( はんとしろむれ ) 』
 
 紙が発明される以前、中国では木板を紙の代わりに使用していたというのは有名だが、
 当時の文化人の間では、即席で書物を公開し合う「礼素」という遊びが流行していた。
 たびたび木板を賭けて趣のある書を競い合っていたが、初めて参加する者の多くは
 常連達に大敗し、木板を全て失って帰っていった。
 その様を見たある文化人が「板ヲ賭シ露ト成リ霧ト消ヘテ零ト成ル」と詠んだのが
 この言葉の語源となっている。
 
 「板賭シ露霧零」には、「初心者は無理に礼素には参加せず、一定期間見学せよ。」
 との訓戒の意味が含まれている。
 
 ( 民明書房刊 「日記ハ致羅紙ノ裏ニ書セヨ」 より )
 
164 名前:世界@名無史さん
投稿日:2005/10/13(木) 21:19:17 0
 『陰棲杯夜(いんすぱいや)』
 
 命を狙われる皇帝に代わり、「影武者」として公の場に立つ事を生業としている部族があった。
 彼らは、顔を整形し、喋り方、一挙手一投足を完全に模倣することで、皇帝を刺客の手から守っていた。
 だが、影武者の存在は極秘であった為、彼らの日常生活は「影」そのものであった。
 日の当たらない部屋で、物音を立てることも許されなかった彼らの唯一の楽しみは、
 皆の寝静まった夜に杯を交わし、平穏な一日を祝う事であった。
 影武者の存在を知る側近の者たちは、彼らを「陰に棲み、夜に杯を交わす者」と畏怖し、
 いつしか「陰棲杯夜」と呼ばれるようになった。
 
 現代社会では、他人の行動や著作物を模倣することを「インスパイヤ」と呼ぶこともあるが、
 この部族が持っていた高貴な志が感じられなくなったのが残念である。
 
 (民明書房刊 「DNAに刻まれた中國 現代人の行動のルーツを探る」 より)
 
176 名前:世界@名無史さん 投稿日:2006/01/29(日) 04:11:53 0
 『徐如(じょ・じょ)』
 
 中国古代の伝説的英雄。
 不死身とされた暴君泥王(でいおう)を、杖縁(つえ・ぺり)らの協力を得て倒した。
 彼の子孫と復活した泥王との戦いも講談などで人気があり、「徐如奇談」と総称される。
 徐如奇談の登場人物たちは宋代から神格化されるようになり、各地に神像が建てられたが、
 人間には不可能な体勢に形作られていることが特徴である。
 清代の「彫髪の乱」は、反乱勢力が弁髪に対抗して
 「徐如奇談」の登場人物「彫成夫(ぽる・なれふ)」の髪型を模したことによりそう呼ばれる。
 後に日本でこの伝説を基にした劇画が作られ、人気を博した。
 
 (民明書房刊『古代中国の奇妙な英雄』より)
 
177 名前:世界@名無史さん
投稿日:2006/01/29(日) 14:33:25 0
 【厨房】
 
 インターネット上でしばしば用いられる厨房もしくは厨という語は
 一般には中学生の俗称である中坊(ちゅうぼう)の当て字だと思われているが、
 実はこの言葉の由来は明代にまで遡る。
 
 明の王族の朱有熺は人肉を好むという異常な嗜好があり、
 厨房には常に人肉を絶やさないようにしていた。
 そのため、夕暮れ時に門の前を通る者があると、邸内に誘引しては殺していたという。
 やがてその噂が時の皇帝の耳にも入り、皇帝が邸内を調査させたところ、
 厨房内は人体の残骸が山と積まれ、また人の死体が鉤に吊るされているかと思えば、
 また、まさに料理されんとする人々が監禁され、地獄もかくやと思われる酸鼻きわまるありさまであった。
 そこから、悲惨な状況や見るも無残なありさま、転じて人を人とも思わない言動を
 俗に「朱氏厨房」というようになった。
 ただ、明朝皇帝の姓をはばかる意味もあり、また明清代を通じて朱子学が信奉されたこともあって、
 しばしば「朱氏」が省かれ、単に「厨房」とか「厨」とだけ言うようになった。
 
 (民明書房 刊『電脳世界に生きる中国史』より)
 
180 名前:世界@名無史さん[age] 投稿日:2006/02/19(日) 13:19:24 0
 【寝釜(ねかま)】
 
 かつて明の時代、農村地帯は深刻な結婚問題を抱えていた。
 男性過多というのが実情で、結婚相手のいない男性は子孫が残せず、村を出て行くのが慣例だったという。
 こうした男性は、都へ出たあとで女装し、使用人として働くことが多かった。
 しかし、農村出身の男性が家事をこなせる訳が無く、飯を炊く釜は寝たように静かだったという。
 これが転じて、男性が女性を騙ることを【寝釜】(釜が寝ている)と表現するようになったという。
 
 現代日本において、インターネット上で異性を騙る(多くの場合、女性に成りすます)ことをネカマと呼ぶが、
 語源が明代中国にあったことは余り知られていない事実である。
 
 (民明書房刊「古代中国における男性 〜農村から宦官まで〜」)
 
181 名前:世界@名無史さん 投稿日:2006/03/01(水) 16:25:12 0
 否馬迂鞍(いなばうあん)
 
 南宋の遠征軍が冬林能(とうりんのう)の戦いで、大雪によって山中に閉じ込められた際、
 武将・史通化(しずうか)が咄嗟に編み出した秘儀。動けなくなった馬から鞍を外しすと、
 「否馬迂(馬で迂回することもなし)」と一喝してこれに跨り、上半身を反らしてバランスを取りながら、
 氷と化した雪上を敵陣目掛けて一気に滑り降りた。
 
 この奇襲は、相手は雪で動けないと思って油断していた敵の虚を突いて大戦果を上げ、
 当代最強といわれた猛将・左車項炎(さしゃこうえん)と崇流通華矢(すりゅうつう かや)を始め、
 多くの武将を討ち取る大戦果を上げた。
 凱旋後、史通化は宰相・相応晋(あいおうしん)から、
 「剛にして流れる動き、命をかけて龍を舵するが如し」と賞賛され、
 剛流動命舵龍(ごうるどめだる)の称号を授けられた。
 しかし、この奇襲戦法には卓越した平衡感覚と柔軟性、度胸が必要であり、
 この数年後武将・安道雲(あんどううん)の軍がこれを真似て転倒、
 戦わずして全滅したのは余りにも有名な話である。
 
 民明書房刊『戦場の金メダリスト』より
 
182 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:2006/03/05(日) 14:45:00 0
 ■イナバウアー■
 イナバウアーはフィギュアスケートの技で、
 足を前後に開き、つま先を180度開いて真横に滑る技である。
 
 織田信長の愛馬の因幡馬(いなばうま)が語源とされる。
 因幡馬のひづめは通常の馬よりも開き気味であるが、
 障害物を乗り越えるときに優美な曲線を描いてのけぞる姿を
 人々が「やはり因幡馬。百人乗れども大丈夫」と賞賛した、
 とルイス・フロイスが『日本史』に記している。
 
 『日本史』を通じてヨーロッパに広まったことの言葉は
 やがて「イナバウアー」という発音になり、
 第2次世界大戦ごろまで優美な雌馬を表現する言葉として使われていた。
 
 これをフィギュアスケートの用語として使い始めたのは
 ロシアのフィギュアスケーターだと言われている。
 ちなみに、語源の一説としてドイツのイナ・バウアーが開発したとの説があるが誤り。
 
183 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:2006/03/07(火) 04:05:12 0
 陰斧流円座(いんふりゅうえんざ)
 
 中国幻の暗殺術と言われた物の中に戦斧を駆使する「陰斧流」と呼ばれる流派があった。
 この流派の特徴は、重さが320斤(約70?強)の戦斧を背に担ぎながら
 目的に陰のように近づき、事を果たせば疾風の如く去って行くという
 速さと豪快さを併せ持つ、最強とよばれるに相応しい流派として有名であった。
 
 しかし、その修行の厳しさもまた有名で「陰斧流」の数々の荒行が現在にも文献として残っている。
 その中でも、とりわけ有名なのは「陰斧流・円座」である。
 寒風吹きすさぶ季節に始まるこの修行は、陰斧流の師範を、屈強な修行者達が上半身裸という姿で囲み、
 将来背負う事となる戦斧と同じ重さの鉄塊を背に担ぎ春先まで約3ヶ月、
 延々周囲を歩き続けるという荒行である。
 しかし、これをやり遂げる事ができた者は、陰斧流の使い手として有望、と
 判断されるだけの修行の「入り口」だというのだから恐れ入る。
 
 余談だが、当然この修行に耐え切れず脱落する者も少なくなく
 その多くが修行途中で体調を崩し、修行場を抜け出して麓の村へと脱走した。
 だが、修行による体調不良から病に侵されていた者が多かった為に村では流行り病の原因として恐れられた。
 それが転じて冬先から春にかけて流行する風邪が「陰斧流円座」と呼ばれていたのは有名な話である。
                カ ゼ
 民明書房刊「陰斧流奥義の全て〜疾風の如くあれ〜」より抜粋。
 
186 名前:世界@名無史さん
投稿日:2006/03/25(土) 11:54:05 0
 他スレからのコピペだがageとこう。
 
 「炉梨流棒術(炉梨棍)」
 
 中国に数多あるという棒術の中でもその長い歴史で一際異彩を放つものが唐代に流行した炉梨流棒術であろう。
 己の肉体の棒のみで戦う姿は最早伝説といっても過言ではない。
 しかしその修行は大変厳しく、修行者たちは妖しきものを除き、己の覇気を高めるという意味で
 「妖除覇覇(ようじょはぁはぁ)」の掛け声を出して修行に励んだという。
 しかし、この拳法の厳しい修行に脱落した門下生の中から、
 時に近隣の村の年端もいかない少女によからぬ行為を行う者が出て、当時の社会問題になった。
 民衆はそんな輩を「丙奴(ペド・甲乙丙でいえば丙のような奴)」と呼んで忌み嫌った。
 現代でも少女との性行為をほのめかすような奴に対して
 「氏ね、ペド野郎」という事があるが、これは無論当時の名残である。
 
 民明書房刊『萌える!中国武術』より
 
192 名前:世界@名無史さん 投稿日:2006/06/01(木) 19:32:01 0
 【明渡(めいど)】
 
 唐代の和寧の国王、明宗(朴朱仁)、度宗(朴莉)の治世のこと。
 「明度の治」とも呼ばれる。
 
 朴朱仁は於拓州の出身の宰相・崔阿句の進言により、女官に専用の服を着せ、
 女官に自らのことを、「御朱仁様」と呼ばせていたという。
 朱仁の子の朴莉は、さらに女官に喫茶店を開かせ、
 庶民も利用できるようにしたことから、和寧最高の名君と称えられた。
 
 民明書房刊『大和寧民主王国―明度実録―』より
 
193 名前:世界@名無史さん
投稿日:2006/06/14(水) 20:15:08 0
 『音渡迎謀 (ネットゲーム)』
 
 音渡迎謀・・・・・
 中世、ユーラシア大陸を制した蒙古人は支配地にジャムチと呼ぶ駅伝制を敷き、交通通信制度を発展させた
 元朝初期には軍の移動や軍事情報等の伝達が主であったが、
 モンゴル帝国の支配が確たるものとなりそれらの重要性が薄れるにつれて
 王族や高級貴族の娯楽に使用されるようになったのも当然の成り行きといえよう
 
 初期の音渡迎謀は参加者同士が碁や将棋の手を書にしたため、
 迎謀真手詫(げいむますた)と呼ばれる審判に相当する者に送付し、
 勝敗を競うものであったが時代が進むにつれて多人数が同時に参加できる遊技へと発展していった
 これを極めた者は覇偉人と呼ばれ尊敬の的となった
 吏寧呪、羅愚南録等の音渡迎謀が元朝中期の資料に散見される
 
 なお、元寇の際日本遠征軍を指揮した元の将軍 忻都、金方慶は覇偉人として有名であるが、
 音渡迎謀に溺れたせいもあり、実戦においてはきわめて無能であり
 元軍の壊滅を招いたことは周知の事実である
 
 このように音渡迎謀により軍人や官僚が政務、軍務を怠り、国力の著しい低下を招いたため
 やがてフビライ・ハーンにより禁令が出され、覇偉人たちは世間から蔑まれるようになった。
 
 現代においてインターネットを利用したネットゲーム上においては
 高レベルの者が「廃人」と軽蔑されているが、その起源が「覇偉人」にあることはいうまでもない
 
 ( 民明書房刊 「遊戯 その歴史とは」 より )
 
194 名前:世界@名無史さん 投稿日:2006/06/15(木) 11:58:24 0
 【羅威武怒吾(らいぶどあ)】
 
 南宋全盛時代、洞庭湖の南岸に面する都邑に、羅という武術道場の氏族がいた。
 羅家の男どもは建前の本業こそ道場経営であったが実態は賭博の用心棒であり、
 しかも気性が荒々しく、賭場でケンカざたがあるとすぐさま湖岸につなげてある渡し舟に飛び乗って
 鉄火場へと漕ぎ着け、騒ぎを起こす連中を容赦なく叩きのめしてしまう。
 そのため博徒は、羅家の息のかかった賭場を「漕艇の範囲内」と呼んで怖れていた。
 
 また羅家の縄張りの賭場はそれを誇示するため、羅家の頭領格に頼みこんで「怒吾(吾は怒る)」と
 ただ二文字を彫りこんでもらっていた。
 「賭場アラシは、吾ら威武ならびなき羅家の怒りを呼ぶぞ」という威嚇である。
 羅家の独特の彫り文字で護られている門は当時、「彫り衛門」と呼ばれたが、
 一般には彫り衛門は単に「怒吾(ドア)」と略され、ドアの語源となったのである。
 
 また羅家の男たちは「夢羅神(むらかみ)」という道場神を崇め奉っており、その神託のままに行動していた。
 羅家は自覚していなかったが、かれらが崇拝する夢羅神の神官・世師阿木は野望のもちぬしであり、
 羅家はかれに操られるまま地上を夢羅神がすべての規範となる土地とすべく活動していた。
 じつに羅家は、「夢羅神範土」実現の道具だったのである。
 
 南宋が元朝に滅ぼされたとき、羅家は殺到する蒙古軍に抗すべく賭場に立てこもりながら転戦した。
 いずれも敗退であったが、それぞれ立てこもった賭場の元締めの名を冠して
 「金哲の乱」「普慈の乱」「周韻の乱」と呼ばれている。
 いずれも羅家の惨敗におわり、最後は「興西双狭の戦い」で滅ぼされ、
 いまでは羅家の道場があった地に、碑を留めるのみである。
 六本の大樹に囲まれた景勝の丘陵地であり、
 後世、さびれきった碑が留まるのみの元朝時代の同地を活写した「六樹碑留図」の画がうまれ、
 諸行無常を表現した水墨画の傑作として有名である。
 
 なお羅家が滅んだあと、辛うじて生き残った世師阿木はみずから神の子と名乗って脱出をはかるも、
 第二次「興西双狭の戦い」で敗北して滅んだ。世師阿木の一連の逃亡戦は、
 俗に「半神の役」とも呼ばれている。
 
 (民明書房刊「南宋武侠秘話・民間伝説あるいは風説の生成過程」より )
 
197 名前:世界@名無史さん
投稿日:2006/08/13(日) 09:45:03 O
 【博之】
 
 中国明代の詩人。河北省西村出身。字は旨棒。
 十九歳の頃から万里の長城に漢詩を刻むようになり、
 のちに多数の詩人たちが集まり、詩作を競うようになった。
 博之は詩人たちから「示申」と呼ばれ崇められた。
 そのなかで当時十七歳の厨房詩人、根汚麦茶による漢詩「我襲西鉄牛車也」が注目を集め、
 のちに麦茶本人による牛車襲撃事件が本当に発生したため、
 万里の長城はこの事件を詠んだ漢詩で埋め尽くされた。
 
 民明書房刊「あやしい厨房の歴史」より
 
198 名前:世界@名無史さん 投稿日:2006/09/08(金) 21:24:18 0
 【我知無知(がちむち)】
 
 古代ギリシャの哲学者、ソクラテスは恐妻家として有名であった。
 事あるごとに暴力を振るわれ、夜の営みなどもっての他だった。
 そこでソクラテスは哲学の勉強会の時、容貌の美しい青年を品定めしては男色に耽り、欲望を解消していた。
 「行為の中で行う議論は発展的である」と彼は弟子たちに語っていた。
 この頃から、アテネでは男色スポットの隠語として「発展場」が使われ始めた。
 
 また、ソクラテスはプラトンとの行為の最中に「無知の知」の境地に至ったと言われている。
 「私が何者であるかは知らないが、無知であることは知っている」
 この有名な言葉は、中国で「我知無知」と漢訳され、日本にも広まった。
 
 最近日本で、ガチムチ兄貴を求める同性愛者が続出しているのは、
 荒んだ社会を生きていくために哲学的な心を持った兄貴的存在を探しているからかもしれない。
 
 民明書房刊『一緒に哲学極めようぜ!』より
 
199 名前:世界@名無史さん
投稿日:2006/09/22(金) 15:23:53 0
 ヴァラ族
 
 女性ばかりの部族としてはギリシア神話のアマゾネスが広く知られているが、
 ヴァラ族は古代エーゲ海沿岸に実在した男性ばかりの狩猟民族。
 太陽神アポロンを崇拝し、太陽の光を全身に浴びるために彼らは常に全裸であったという。
 
 戦場における彼らは独特の「ウホーイオートコ」もしくは単に「フゥー!」という奇声を発し、
 全裸のまま馬を駆る姿はギリシア中から恐れの対象となった。
 またその独特の奇声はシルクロードを渡って日本にも伝わっており、
 いまでは大きく形を変えて、薩摩示現流独特の猿叫にも大きな影響を与えたと伝えられている。
 
 現代の日本では、このヴァラ族をモチーフとした雑誌も発刊され、
 一部の愛好者からかつては絶大な人気を誇ったものの、現在では休刊している。
 
 民明書房刊『知られざる神話〜あの部族は実在した〜』
 
200 名前:世界@名無史さん 投稿日:2006/09/26(火) 01:21:08 0
 古代中国、春秋から戦国時代にかけては儒家・法家などに代表される様
 々な思想家、論客が次々に生まれ、俗に百家争鳴という言葉に言われるほどの賑わいを見せた。
 その中で黄河のほとりで生まれたとされる一派は互いに義兄弟の契りを交わし、
 頭髪を刈り落とすことでその覚悟を示したといわれる。
 
 また、この儀式の際に使用されたのが辣酒(らつしゅ)と呼ばれる薬剤であり、
 これを用いることで頭の中を真っ白にし、師の教えを体の芯に受け容れたのだ。
 この流派の真髄は同門同士での掛け合いであり、「押忍、押忍」の挨拶から
 千頭狸(せんずり)・決萬(けつまん)と呼ばれた討論へと入っていったと伝えられている。
 
 この流派の創始者であり、その道において並ぶ者無しといわれた男は、
 その死の間際に「私は、自らが無知である事を知った」と言い残したとされ、
 このエピソードからもこの一派、芸家の芸に対する真摯な姿勢が伺える。
 この男が身長180cmという当時としては異例の長身であったことから、
 後世にこの一派に入門した者達からは「我知無知の六尺兄貴」と
 親しみを込めて呼ばれたといわれている。
 
 民明書房刊
 「今日からはじめる数理道」
 
201 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:2006/09/26(火) 13:18:10 0
 通理 (つり)
 
 古代中国において通理と呼ばれる遊びがあった。
 何かの質問に対し、一見理が通っているかのような回答を考え上げ、
 それを皆で笑うというものであった。あまりにも秀逸な通理には敬意を表し、
 「通理られた」とその回答者のユーモアを称えた。
 
 時は流れ、通理も廃れたころ、自分の勘違いを指摘された男がいた。
 彼は必死に「通理だよ!通理だよ!お前ら通理られやがって!」と自分の過ちを認めず、ごまかそうとした。
 周囲のものはあきれ、その事件以来、その男が何か言うたびに「また通理かよ」と、男を相手にしなくなった。
 それ以降、あまりにもくだらない言動は相手にしないという意味で
 「また通理かよ」「下手な通理だな」などと言うようになったのである。
 
 通理という遊びのなくなった現代社会においては、
 fishingを意味する「釣り」という言葉に置き換えられているがその精神はまだ生きている。
 
 ちなみに古代中国において通理の大会がよく開催されていたという「似長寝留」
 (似長とは正しいような気がするということ寝留とは愚かな者は寝、賢き者は留まるの意)
 の最盛期の管理者「秘炉遊鬼」は
 「嘘を嘘と見抜けない人には(通理をするのは)難しい」という発言を行ったと言われているが、
 その子孫にあたると言われる掲示板群「にちゃんねる」の創設者である
 「ひろゆき」氏がその言葉を引用したのは記憶に新しい。
 
 (民明書房刊 「古代世界のすばらしき遊戯をたずねて」 より)
 
202 名前:世界@名無史さん
投稿日:2006/10/26(木) 03:49:37 0
 【覇威藩(ぱいぱん)】
 
 語源は古代中国明代に四川省成都を統括していた覇威藩に遡る。
 彼は統括領地に於いて、文武両道・富国強兵を旨とする政治体制を敷き、
 男子たるものは齢15にして単身寮に強制収容され、
 起床から就寝に至るまで心身共に強健たらんとすべく鍛錬を行わせたと言う。
 
 その過程に於いて、特に身体的練度の振るわない者に対して、
 覇威藩自らその者の陰毛を公衆の面前で六尺青龍刀を用いて完膚無きまでに剃り落とし、
 無様さと不甲斐なさで打ち拉がれている者の菊門に情け容赦の無い六根清浄による指導を与え、
 その者に男衆本来が目覚め進むべき道を示したと言う。
 
 出典:民明書房刊『明代中国男衆緊卍縛剃毛鍛錬奇鍛』第六章-突撃ラブハート-より抜粋
 
203 名前:世界@名無史さん 投稿日:2006/11/05(日) 12:50:56 0
 『濡流帆(ぬるほ)』
 
 安土桃山時代、宣教師達が日本侵略の礎となるべく各国を訪れて布教活動に勤しみ励んでいた頃、
 次第に彼らの後続として一攫千金の夢を見る商人達が野心を燃やし、
 若さに任せて海を渡り、黄金の国日本へ集まってきた。
 ある年の元旦、日本の友人を招いて船上パーティーを開いたポルトガル人の航海士達が
 南蛮船のメインマストの上で裸になり、次々とおどけはじめるという、
 無謀極まる綱渡り芸をしはじめ、次第に多数の見物人が集まりはじめた。
 その内に一番酒癖の悪い船員が悪酔いし、刺激を求めて突如マストの綱をナイフで切り落とそうと試み始める。
 これに気付いた船長が「NULUPO!(やめろ!)」と叫んだ瞬間に綱が切れ、
 すり落ちたマストの骨が船長の頭頂へ見事命中。
 そのまま海へ転がり落ちていった為に見物していた庶民達の間からどっと大きな笑いが巻き起こった。
 信長は前田利家に聞かされたこの笑い話をいたく気に入り、
 以来滑稽な話を締めくくる際に「濡流帆!」と叫び、
 家臣達は一斉に「雅!」と答え、最も先に答えたものが信長に褒美を下賜されたのである。
 
 余談ながら、織田家重臣の羽柴秀吉と柴田勝家の長年にわたる確執が在り続けた一因に、
 初参加の秀吉が扇子で頭を叩く事で、より素早く適切な「雅」の意を示した機知が信長の格別な寵愛を誘い、
 勝家の名手名人の座を一瞬にして覆して恨みを買った事にあるのは、研究者間で周知の事実である。
 
 (民明書房刊 「まるわかり2ちゃんねる 〜100の謎の由来〜」より)
 
204 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:2006/11/05(日) 14:49:43 0
 ・・・『滑刑闘(すけいとう)』
 
 清朝末期、洋務化に反対する忠臣「李 羽英」は、
 皇帝のみ許されていた真冬の白晶湖の小魚釣りを
 駐清英国陸軍大将リッテン男爵が行っているのを偶然目撃し、その場で溺死させてしまった。
 清は英国の猛抗議と軍の内陸進駐を背景に恫喝を受け、皇帝はやむなく羽英の獄門を決定したのである。
 
 全権大使ピットの強い要望により既に禁止されていた「滑刑闘」を
 リッテンが殺された白晶湖にて執り行うこととなった。
 処刑の日、羽英は蝋を塗った鉄柵を取り付けた靴をはかされ、皇帝の合図と共に腹を空かせた虎が放たれる。
 しかし、拳法師範であった羽英は素早い滑走と軽やかなステップで猛虎を翻弄し、
 脚裏のブレードで蹴りつける事でついに猛虎を屈服せしめたのである。
 執行に立ち会ったリッテンの部下が逆上して羽英を撃ち殺そうとし、辺りは一触即発の雰囲気となったが、
 リッテン男爵の長男リチャードが羽英の動きに心酔して友人と宣言する事により
 羽英の罪を許す運びとなったのである。
 
 この後、リチャードは滑刑闘の資料を根掘り葉掘り調べ上げ、芸術として確立すべく動きはじめる。
 欧州において滑刑闘に類似する氷上を滑走する遊びは以前から存在していたが、
 芸術として明確な名を与えられた「スケート」は中国の厳罰が語源、原形となる。
 
 余談ながら、「悪急流(あくせる)」や「稲葉雨蛙(いなばうあ)」等の技術は
 この滑刑闘で処刑された罪人が苦し紛れに取った挙動の記録をヒントにして
 ヨーロッパで発明された技術でる事は、スケート選手の間では有名な逸話である。
 
 (民明書房刊 −「シノワズリー、四方山話」−より)
 
205 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:2006/11/05(日) 15:36:03 0
 数渡流阿馬(すとるぁま)
 
 中国三国時代、最高の名馬と賞賛された赤兎馬を凌ぐ「威阿」という陽馬がおり、
 この陰にあたる異性馬がいると識者の間でささやかれ続けていた。
 曹操はどうしてもこの両馬を手に入れたく願い、数十万の捜索隊と数万人の僧による祈祷を行い
 威阿、数渡流阿馬を捜し求めたが、威阿は既に仙人のもので手に入れる事は叶わなかった。
 
 仙人曰く、
 「数渡流阿馬はどんなに離れていても、千里を駆ける威阿のみを愛し続け、いくつもの大河を越えて
  威阿を追いかけ1000年に一度だけ出会って交配する脚と忠実さ持っている。」と言う。
 仙人の協力でついに数渡流阿馬を発見した曹操は感涙し、
 この日の快晴の空と名馬を手に入れた喜びを手紙に記し、
 「天高く馬肥ゆる秋」という典雅な字体で表したのである。
 
 数渡流阿馬の毛並みは神秘的な薄蒼であったと三国志正史へ記録されており、
 名馬の体躯のみならず、並外れた容姿の持ち主であった事が容易に伺われる。
 
 余談ながら、某社の設計した戦闘機ストラマは、この数渡流阿馬をモチーフにして
 敵機を追い続けて必ず射止めるという意味で名づけられたものである事は、
 創立者の出身大学では有名な逸話である・・・。
 
 (民明書房 刊 〜 「現代戦闘機、驚くべき新技術と革新への道」〜 より抜粋)
 
206 名前:世界@名無史さん
投稿日:2006/11/05(日) 19:07:18 0
 ・・・『屋螺内華(やらないか)』
 
 漢の将軍・宇葡(うほ)が敵軍楚の将軍・李乙胡(い・おとこ)と対峙した時に、
 「屋内に美しい華があるから一緒に観賞しないか」と言って漢軍の施設に誘き寄せて捕虜にしたという故事。
 転じて男性が男性を室内に誘う時の掛け声として使われるようになった。
 
 この時、一繋ぎの鎧を纏った巨漢宇葡の勇姿に感動した乙胡が「宇葡!快男児!」と叫び、
 喜び勇んで誘いに乗ったと伝えられている。
 
 なお、この時宇葡が話に持ち出した花がバラであったということは言うまでもない。
 
 (民明書房刊 −「九楚三楚」−より)
 
211 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:2007/01/19(金) 23:47:03 0
 寝党よ(ねとうよ)
 
 明治初期に於ける日本では、政府が西洋化政策を取り続けたことによって
 外来の文物が流行り、持てはやされていた時期があった。
 その頃、特権的身分を脅かされそうになった士族達の中で
 政府の政策に反するということで、尊皇と反蛮夷を唱える者達が現れた。
 彼らの多くが士族への禄や、父母の養いに頼る若者であり、
 また昼夜を問わず、寝ては外国排撃を唱え、寝ては外国排撃を唱えていたことから
 世間の人々は彼らを寝党と呼び、言葉を投げかける形で「寝党よ、寝党よ」と呼んだ。
 
 現代に於いては、それがネット上に国粋主義的論理を展開している人々の総称になっているが、
 もともと反権力の集団を差す言葉であったことは皮肉としか言いようがない。
 
 (民明書房刊 「驚愕!唖然!おもしろ子供質問箱」より)
 
213 名前:世界@名無史さん[age] 投稿日:2007/03/17(土) 19:19:22 0
 明朝は弘治帝の治世、武良拳の始祖・李瓊は天下無敵の格闘家として
 10年間以上も名声をほしいままにしていた。
 後年遂に敗れる時が来たのであるが、
 彼をやぶった張涼玖は李瓊の左腕は幼少時から精巧な義肢で攻撃力が皆無であった事、
 そしてそれをずっと隠し続けてなお格闘家として
 海内に覇を唱え続けていた事に敬服しその場で弟子入りした。
 張涼玖は李瓊の拳を学び、以後は左腕を体の後ろにまわし隻腕のごとく装い
 戦いにあけくれたが、相手を真の強敵と認めた時に限り左腕を使い戦った。
 「手を抜く」「奥の手を出す」という言葉はこの故事が由来である。
 
 (民明書房刊「拳法感動秘話集」)
 
216 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:2007/04/06(金) 14:03:46 0
 【南極2号】
 
 中国明の時代、万里の長城拡張へ長江ほとりから動員された一工夫には結婚を誓いあった美しい女がいた。
 ひたすら女も買わず一人婚約者を思い続けていた彼はある日重傷を負ってしまった。
 医師に絶望視される中、彼は決してあきらめず、南面して叫んだ。
 
 「遠き南の果ての君よ、一発あたわざるして死するの無常やあらん。我誓う、必ず君に一発せん」
 これが天下に名高い、”南極に号す”の語源とされる。
 
 時は流れ、南極越冬隊に参加した日本男児たちの所持品にあった空気人形の隠語である”南極2号”の名は
 この”南極に号す”をもじった物であるということはあまりにも有名である。
 
 (民明書房刊 中国南方諸話・怪傑児編)
 
224 名前:世界@名無史さん 投稿日:2007/05/06(日) 13:31:26 0
 寵彩宮剣(ちょさくけん)
 
 明の時代、時の王は優れた文化・芸術作品を創作した者に対し、
 その功労を称えることを目的とし、色彩豊かな大変美しい剣を与える制度を導入した。
 この恩寵の剣は「寵彩宮剣」と呼ばれ、この剣を持つ者は王宮の文化事業にも積極的に採用されることもあり、
 当時の芸術家の間ではこの剣を賜ることが最高の栄誉とされた。
 しかし、寵彩宮剣を与えられた芸術家の中には、剣を振り回して民衆を威嚇したり、
 死後返納しなければならない剣をいつまでも返さず、
 子孫の代まで勝手に剣を受け継いだりする身勝手な者もいたため、
 寵彩宮剣制度は廃止されてしまった。
 
 現代においても、著作物には「著作権」とよばれる権利が与えられるが、
 権利者が必要以上に著作権を振りかざして利益を要求したり、
 権利をより強化するよう政治家に要求する様は、
 まさに「寵彩宮剣」の歴史を繰り返していると言えよう。
 
 民明書房刊「中国史に見る権利意識〜なぜコピー商品が後を絶たないか〜」より抜粋
 
228 名前:覚有情
投稿日:2007/07/18(水) 23:38:37 0
 戦国時代、秦の国に寒泉という霊泉があった。
 この泉の水から作られた獰緑芬散という散薬は薬効顕著で、
 服用すれば重病人も立ち上がり、一刻に千里を走るという評判であった。
 その評判を聞き、はるか東方の蓬莱島からも薬を求める者が訪れたほどである。
 
 隣国の韓はこれを妬み、なんとか秘薬が欲しいと考えていた。
 そのころ、はるか西の国から鄭という男が韓にやってきた。
 鄭は、自分は名医であると韓の王に売り込み、「治部」という施療所を建てさせた
 鄭はなにかと勿体をつけては、韓の国から金を引き出していたがなかなか薬は完成しない。
 王がしびれを切らす頃、ようやく鄭は完成した薬酒、獰緑醜酎をうやうやしく差し出した。
 王は喜んで先ず自らこれを試飲した。
 
 ところが、しばらくすると体が震えはじめて止まらなくなり、しまいには窓を破って飛び出す始末であった。
 怒った王は鄭を捕らえようと、追っ手を治部に差し向けた。
 しかし、鄭はとっくに逃げ去っており、
 ただ子庸(しよう)という名の留守番の老人が残っているばかりであった。
 子庸は、耳が遠い上にボケも始まっており、追っ手の者が何を問うても、
 自分の名を尋ねられていると思いこんで「子庸です」と答えるばかりでラチがあかず、
 ついに追っ手も追跡をあきらめたという。
 
 後に、この話が日本に伝わり、
 クレームをつけられたときに唱える呪文「仕様です」になったことは余りに有名である。
 
 民明書房刊「鄭治部医より秦寒泉」第壱百鉢拾伍巻より