歴史が違う方向に行ってた場合の人物略歴 適当にまとめ その3

玉石混合だなぁ……

211 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/03/07(月) 02:04:41
 木下藤吉郎
  尾張中村の出。幼いころから武芸に秀で猿飛佐助の異名を持つ。
  織田家に仕えるが草履を尻に轢き、信長の怒りを買い出奔。
  墨俣に家を構えるといつの間にか一夜城と呼ばれ大慌てする。
  その功績により織田家に復帰。
  いつの日か大名になることを夢見るが足軽として余生を送ることとなる。
 
278 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2005/03/23(水) 23:23:52
 日吉丸
  尾張中村の足軽百姓・木下弥右ヱ門の子。
  貧家の生まれであるが壮大な気宇と野心を抱いて成長し、
  十五歳の春に「天下を獲る」と息巻いて家を飛び出した。
  しかし程なく路銀を切らし、途方に暮れていたところを通りすがった桃太郎によって召抱えられた。
  もちろん俸禄はきびだんごである。
 
  桃太郎に従い、悪鬼を討つべく鬼が島へと乗り込んだ彼は、彼は同輩の犬・雉とともに力闘。
  鬼を駆逐し、財宝と美女を引き連れて凱旋を果たした。
  その後、財宝の分け前をめぐって犬や雉と対立して孤立を深め、
  さらに意中の美女を桃太郎に奪われたことをきっかけに主家を退転した。
  再び放浪生活に戻った彼は、主を転々と変えながら天下を狙い続けたが
  天正年間の「さるかに合戦」において壮絶な討ち死にを遂げる……。
 
281 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2005/03/24(木) 01:43:16
 豊臣秀吉 1536-1598
  安土桃山時代の武将。木下藤吉郎羽柴秀吉とも。
  元は尾張国に棲息する猿だったが、織田信長に取り立てられて以後
  にわかに頭角を現し、織田家の重臣として各地を転戦する。
  1582年の本能寺の変で主君信長が自害したのち、
  柴田勝家ら重臣との後継者争いに勝利し、1590年に天下を統一した。
  太閤検地・刀狩り令などの政策で知られ、江戸期の封建制度の基礎を作った。
 
219 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:05/03/09(水) 17:05:19
 前田慶次郎利益【1533〜1605】
  滝川益重(益氏)の子で出身は甲賀、実の叔父・滝川一益と同じく
  出自は忍者といわれ、荒子城主・前田利久の養子となる。
  だが父利久は病弱な体を理由に隠居。利益が前田家の家督を継承する。
 
  その傾奇者と呼ばれる異様な出立ち、振る舞いが織田信長に気に入られ
  信長直属の赤母衣衆に抜擢される。
  その後各合戦で「鬼槍慶次」と呼ばれる獅子奮迅の活躍を見せ信長の目に大いに止まるところとなる。
  持ち前の明るさから人心掌握も得意とされていた利益は
  美濃攻めにおける木下藤吉郎の竹中半兵衛調略と同時進行で美濃三人衆の誘降を行い、
  見事織田家に帰属をさせた。
  この働きが無ければ1565年に成し遂げた信長の美濃統一は1〜2年遅れていたと言われる。
 
  常々「負け戦こそが戦の醍醐味」が口癖であった利益は
  1568年、金ヶ崎の退却戦においては朋友・木下藤吉郎秀吉と共に自ら志願して残り見事、殿を勤めた。
  この時の功により利益は伊勢・長島城主となり、一向一揆の殲滅に幾年もの時間を費やすこととなる。
 
  1575年、長篠の合戦においては信長考案の三段鉄砲隊の一翼を指揮し、
  信玄の遺子・武田勝頼率いる武田騎馬軍団を壊滅に追い込んだものの
  生来の「いくさ人」である利益はその光景に疑問を抱き、
  主君信長の命令を無視して勝頼退却後の武田軍を追走、
  従来の追撃戦において勝頼の首を討ち取った。
 
  軍令違反を犯した利益であったが半年の謹慎の後許され、
  家督を継承した信長の嫡男・信忠の副将となり
  勝頼亡き後・武田盛信を当主とする武田家の掃討に取り掛かった。
 
220 名前:無名武将@お腹せっぷく
投稿日:05/03/09(水) 17:07:12
  1578年、甲斐・信濃平定を果たした信長は対北条として
  利益を関東に入れ、関東管領を名乗る事を許した。
 
  利益は関東侵攻においては近隣の豪族・小大名を次々と帰順させ信濃の真田昌幸らを与力とし
  駿河から伊豆へ侵攻する徳川家康と共闘、たちまちに関東のほぼ全域を支配し、
  1582年が明けた頃には大きなところ言うと夏に控えた小田原攻めを残すだけとなった。
 
  この時中国地方を任されていた羽柴秀吉が援軍を要請。
  信長は自ら出陣するという旨を秀吉に送り返していた。
  だが、この時に信長の先駆けとして秀吉の援軍として駆けつけるはずの明智光秀であったが
  手鍛れの忍(元甲賀出身の忍である利益は独自の諜報網を主君・信長の身辺に絶えず置いていた)からの、
  「惟任(明智)日向守殿に謀反の恐れあり」という報告を聞き、
  関東の押さえを一門衆筆頭・叔父の前田利家に委任、内密にて自らは京へと向かう。
 
221 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:05/03/09(水) 17:07:41
  これが後に言う利益の「関東大返し」である。
 
  この利益の尽力に寄り、本能寺に宿していた織田信長は一命を取り止め明智光秀は陣中にて自害。
  現在の世に至るまでも大悪人の例とされている。
 
  後に天下統一を果たした信長は新国家を樹立。中でも柴田勝家、
  羽柴秀吉と並んで前田利益は新国家の枠組みにおいても「織田三大宿老」の一翼を担うことになる
  (ちなみに勝家、秀吉の二人は犬猿の仲とされていたため、
   利益はその仲介役としても重要な役割を果たしていた)が早々と息子の利長に家督を譲り、隠居。
  晩年は教養人としての活躍の方が有名で自領の江戸から大阪(信長の居城)にたびたび出向き、
  主君・信長の茶や歌の相手に興じていたという。
 
271 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/03/18(金) 21:06:50
 竹中半兵衛(1544-1579)
  美濃三人衆の一人・安藤守就の女婿。
  父の死後菩提山城主となり、美濃の斎藤龍興に仕える。
  が、横暴な龍興を諫める為、稲葉山城をわずか13人で占拠。
 
  その後、織田信長が美濃半国と引き換えに稲葉山城を明け渡すように要求した。
  稲葉山を占拠しても倣岸さを直そうとしない龍興に失望した半兵衛は
  これを受け美濃半国の領主となった。
 
  半兵衛の軍略を信長は大いに利用し、自分もまた軍略を半兵衛より学んだ。
  以降、半兵衛は信長の唯一の腹心となり、数々の戦で功を立てた。
  徳川家康の援軍として派遣された三原ヶ原の戦いでは鉄砲三段を編み出し
  逆転勝利を引き寄せ武田信玄を討ち取った。
  これにより、織田家に刃向かった大名はことごとく降伏していった。
 
  1579年に織田信長とともに羽柴秀吉の援軍として進軍。途中本能寺に宿泊した。
  だが、そこに突如明智光秀の軍勢が襲い掛かった。
  彼は彼自ら建立した武装要塞本能寺にて篭城、地下通路より見事織田信長を退却させた。
  だが、信長が脱出する頃には既に本能寺には敵兵が満ち溢れ、半兵衛は遂に討ち取られた。
 
  信長はその後、山崎で明智光秀を打ち破り日本を統一し、
  織田信長を頂点とする新たな政治形態を成立させた。
  この政治の基本とは半兵衛が生前作っていたといわれる。
 
  なお、彼は「陣中に没する事こそ武士の本懐」と残し本能寺で斃れたという。
  遺体は、見つかっていなく戦に飽き南光坊天海となったなど様々な説が残されている。
 
259 名前:無名武将@お腹せっぷく[sa] 投稿日:05/03/14(月) 18:12:33
 加藤清正
  豊臣家家臣。豊臣家最後の忠臣と呼ばれる。
  関が原の戦いの際は三成を嫌い東軍につき肥後一国を与えられる。
  しかし、その後の徳川家の秀頼を蔑ろにする態度に激怒し
  着々と反徳川の組織を結成すべく書状を関が原後、
  徳川家に反感を持つ大名に約300通も送ったといわれ、福島、黒田等の東軍の将も含まれている。
  特に福島正則に宛てた「虎の巻」と呼ばれる書状は
  豊臣恩顧の武将達の涙を誘ったのは言うまでもない。
  清正の動きを知った徳川家は清正暗殺を試みるが失敗、
  これにより合戦の動きが本格化することになった。
 
  清正は大阪城に入城すると秀頼を総大将にするため、
  淀、北の政所らを説得することに成功する。
  秀頼が先陣に立つ報を聞くと各国の大名は「いざ大阪」を合言葉に大阪を目指した。
  徳川を大阪の陣で打ち破ると諸将の説得に応じず、清正は隠居する。
  この行動を見て諸大名も秀頼に再度忠誠を近い、豊臣家300年の平和を迎えることとなる。
 
194 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/03/05(土) 14:27:34
 小西(呂宋)弥九郎 156?〜????
  堺の商人。父隆佐の後を継ぎ薬屋となる。
  主な輸入品をそれまでの漢方薬から南蛮渡来(中東産)の薬に切り換えたほか、
  火薬・奴隷の売買等にも携わった。
 
  世俗の権威からは距離を置くという堺の不文律には無頓着で、積極的に信長・秀吉に近づき、
  豊臣政権下では堺の代官も務め、和泉国内に所領を与えられて、
  「城持ち商人」と呼ばれ巨万の富を得た。
  また面子に拘らず博多の商人たちとも盛んに交わったが、
  秀吉の死後これらの専横が祟って町衆から村八分にされてしまい、関ヶ原後に所領も没収された。
 
  ここに至ってもはや日本にいては自由な商いは不可能であると悟り、新天地を夢見て呂宋に渡った。
  その後の消息は諸説あり、定かではないが、
  高山右近の協力を得てローマ教皇お抱えの商人になったという説が近年では有力である。
 
199 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/03/05(土) 22:51:00
 中川清秀 15??〜1582
  摂津茨木城主。池田恒興の寄騎であったが、
  信長死後は東上してきた秀吉に従い山崎の戦いで戦功を立てた。
  しかし戦後秀吉に馬上から「瀬兵衛、骨折り」と
  居丈高に声をかけられたことに激怒し、抜刀して斬りつけたため、
  その場で手討ちにされた。
 
  それから6年後の1588年12月14日に遺臣47人が竪楽第に乱入し、
  秀吉の寝所を襲おうとしたが半ばは斬り伏せられ、
  首謀者数名は見せしめのため六条河原で釜ゆでにされた。
  一説によれば彼等が徳川屋敷の前を走り抜けたとき、
  在番の本多忠勝は気づいていながら門を閉ざしたままだったという。
 
257 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/03/14(月) 15:55:38
 伊丹康直
  伊丹城主・伊丹雅興の子。
  父・雅興は細川高国の猛攻を何度も退けた名将。
  摂津に浸透した三好氏に対して時に従属、時に頑強に抵抗して強固な勢力を誇った。
  のちに織田信長に従い、摂津三守護の一人に任じられ、
  天正2年には信長に背いた同族の伊丹親興を滅ぼした。
 
265 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/03/16(水) 21:10:28
 尾藤知定(生年不明)
  甚右衛門尉、左衛門尉。尾張重吉の出身。早くから秀吉に仕える。
  1577年に播磨で5000石、ついで但馬豊岡城主となり1585年に秀吉の弟・秀長に属す。
  九州征伐において島津の精鋭2万が4兄弟・伊集院氏・北郷氏らに率いられ
  宮部継潤の4000が守る根白坂に夜襲を掛ける。
 
  自ら救援に赴こうとする秀長を押し止めるが、その狼狽振りのため傍らにいた藤堂高虎が激怒。
  高虎の一撃で大怪我をし糞尿を垂れ流しながらも逃げ延びる。
  これに奮起した黒田隊と吉川隊のみの突撃により島津隊は壊滅。
  義弘が宮部継潤の棍棒で討ち取られ、家久も竜造寺家配下の鍋島隊に討ち取られた。
  (ちなみに鍋島隊は沖田畷でも猿渡隊を一方的に壊滅させている。竜造寺本隊とは大違い)
  この勝利の結果、薩摩は伊集院忠棟に与えられる事で蹴りがついた。
  逐電した知定は伊勢の朝熊山に潜伏して、秀吉の追手に全山を焼かれたが脱出したという
  (『多聞院日記』)。
 
  その後、関が原において徳川秀忠の軍に仙石秀久を頼り近づくものの
  秀久「あーっ、こいつ尾藤じゃん。秀忠様これ疫病神っすよ」(口語訳)の一言で晒し首にされる。
 
205 名前:無名武将@お腹せっぷく
投稿日:05/03/06(日) 17:20:56
 松平元康
  三河の豪族。今川義元の上洛に際して三河衆を率いて織田氏の居城清洲を落とす活躍をみせ、
  今川家中での地位を不動のものとする。
  1568年に浅井・朝倉連合軍と琵琶湖湖畔の瀬田で行われた会戦では、
  浅井長政を撃ち取り、義元に「日本一の兵」と称された。
  今川幕府開幕後は三河尾張占めて100万石を与えられた。
 
238 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:05/03/11(金) 21:53:41
 徳川忠輝
  慶長の乱で徳川家が滅んだ後、秀忠は武蔵の国に流刑となり忠輝は高野山に流刑となる。
  本来僧侶となる身を金売り吉次の手引きで奥州伊達氏の元に身を寄せた。
  京では「毛利にあらずんば人にあらず」と語られるほどの栄華を誇る執権毛利家の弛みをついて
  会津上杉氏が京を襲い朝日将軍と歌われ一時覇権を握るが
  関東に蜂起した秀忠の軍勢に合流した忠輝がこれを破る。
  その後大阪から毛利一族を馬韓海峡に追い詰め壇ノ浦の合戦で打ち破る。
  しかし豊臣家に篭絡され豊臣秀頼を「日本一の大天狗」と罵る秀忠は
  忠輝は奥州伊達家を頼るが、徳川の追手は奥州に迫り撃たれた。
 
  とされるが史実は違い新大陸に渡って源忠輝−ジンテュキカンとして
  欧州勢を追い払い新大陸を統一する大帝国 龍 を建設
  交易を望んだ欧州との折衝で一蹴されたことから西欧征伐の兵を挙げ
  彼の子オコゼイの代に欧州を制圧。伊達秀宗に藤原姓をもって統治を任せ、
  ここに欧州藤原氏が成立。
  更に孫のヒビライの代に江戸に使者を送るが一蹴されここに龍寇が勃発
 
  ・・って源義経を慶長版で書こうとしたが無茶すぎたな・・ww
 
204 名前:無名武将@お腹せっぷく
投稿日:05/03/06(日) 16:41:52
 上杉政虎 1530〜1559
  越後春日山城主。
  亡命してきた上杉憲政を庇護し、上杉姓と関東管領職を継いだ。
  その後は関東に討ち入って勇名を馳せたが、
  自分は毘沙門天の化身であるという妄念に取り憑かれていたため時に無謀な行動を取り、
  永禄2年下野唐沢山城の救援に向かった際、
  我が身に弓箭は当たらぬとばかりわずかな手勢で入城しようとして、
  寄せ手から弓・鉄砲の集中攻撃を受け満身創夷で絶命した。
 
  兵たちが我先に首を挙げようと群がったため遺体は見るも無惨な有り様になり、
  越後に戻ったのは左足のみだったという。
 
206 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/03/06(日) 17:34:25
 上杉義昭 1531〜1582
  山内上杉家当主。
  元は佐竹氏の当主であったが、河越合戦に敗れた
  上杉憲政を庇護することを条件に上杉氏の家名・家紋・関東管領職を譲り受けた。
 
  義昭は関東管領職と上杉の家名を活用し、
  それまで敵対していた江戸・岩城・那須・小田などの諸侯と和睦し、
  1570年に最後まで北条に従属していた結城氏を打ち破り、北関東屈指の大大名となった。
  そして1575年に、千葉氏の寝返りをきっかけに関東の諸軍勢を率いて小田原へ進軍。
  これを迎撃するために出撃した北条軍と鎌倉で死闘を繰り広げた結果上杉の圧勝に終わり、
  北条氏康は自害して果てた。
 
  関東全てを手中に収めた義昭は、善政を施し1582年にこの世を去った。
  嫡男・義重は佐竹幕府初代将軍である
 
 207 名前:206[sage] 投稿日:05/03/06(日) 17:35:50
  補足
  嫡男義重は、将軍に就任する際に
  藤原氏である上杉の家名を破棄し、源氏である佐竹に復姓した。
 
253 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/03/13(日) 17:47:13
 朝倉義景
  戦国時代の大名。一乗谷城主、越前守。夭折の名将と言われる。
  朝倉英林壁書に基づき身分にとらわれない人材登用を行い、
  若狭の刀鍛冶明智冬次の子・光秀を登用。
  先代から争っていた本願寺と和睦するなど手腕を発揮する。
 
  光秀をパイプ役として足利義輝・比叡山・浅井氏などと同盟し、幕府管領に就任し、
  天才的な軍略で三好氏を滅ぼし、足利幕府の権威を復活させたものの、
  神経の細い義景は生来の遊び好きが祟り、大酒荒淫により衰弱死した。
  しかし、朝倉義景の智謀は衰えて居なかったらしく、忠臣・明智光秀宛に遺言状を書き残し、
  当時美濃尾張を制圧して勢力拡大中の織田信長に嫡男熊若丸を頼むこと、
  天下は織田家に頼むべきことを言い残したと言う。
 
  朝倉家は越前一乗谷三万石の領主として織豊政権、江戸時代を生き延びた。
 
188 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/03/05(土) 02:36:46
 武藤信繁 (157?〜1621)
  武藤喜兵衛の次男。
  武田家臣であったが、主家滅亡後は父と共に徳川家康に匿われた。
 
  早熟な軍才を家康に深く愛され、長久手の戦いでは池田元助を討ち取るという戦功を挙げた。
  戦後家康から松平姓を賜り、本多忠勝の娘小松を娶る。
  関ヶ原合戦では小早川隊を銃撃して寝返らせ、大坂の陣では博労ヶ淵砦を奪取するなど
  その用兵の妙は年を経てますます冴えわたった。
 
  江戸幕府成立後は下野宇都宮15万石を与えられるが固辞し、伊勢桑名5万石に封ぜられた。
 
189 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/03/05(土) 02:38:13
 真田信幸(157?〜1582)
  武藤喜兵衛の長男。
  嫡子であったが、叔父である真田信綱・同昌輝の死により幼くして真田の名跡を継ぐ。
  そのため家中は紛争が絶えず、主家滅亡時に織田に内応した家臣矢沢薩摩守に討たれた。
 
198 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:05/03/05(土) 22:08:44
 村上義清
  村上幕府の基礎をつくった人物
  北上してくる武田晴信を戸石城にて迎え撃ちこれを討ち取る。
  その後、信濃の反武田勢力を吸収、甲斐へと侵攻を始める。
 
  甲斐、信濃を領有した彼は今川義元を桶狭間で失った今川家を攻め、これを滅ぼす。
  その頃京は織田信長が支配していたが 信長に不満を持った足利義昭の要請を受け上洛。
  徳川、織田連合軍を村上騎馬軍団にて屠る長篠の戦いが有名。
 
  その後、義昭を廃し近畿を制圧する。
  その後彼は病死、村上国清が後を継ぎ天下を統一し幕府を成立させた。
 
202 名前:無名武将@お腹せっぷく
投稿日:05/03/06(日) 14:14:21
 太田資正 1522〜1560
  武蔵岩槻城主。
  北条軍に攻められた際後詰めを求める伝書犬を数匹離したが、
  そのうちの一匹が寄せ手の陣中に入り込んだため事が露見し、
  強襲されて城を枕に討ち死にした。
  その数年後資正の次男梶原政景の居城に痩せこけた老犬が迷い込み、
  政景はその犬を一目見るなり「父上…」と呟いて落涙したという。
 
200 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/03/05(土) 23:14:53
 伊達親宗 1537?〜1594
  伊達晴宗の長男。岩城重隆の養嗣子となる約束だったがそれを破り、伊達家16代当主となる。
  不満を持ち反乱を起こした弟・輝宗とその子・梵天丸を討ち取り、伊達家の基盤を磐石にした。
  芦名家を降し南陸奥に勢力を伸ばした佐竹家に従属し、後に佐竹の手によって暗殺された。
  親宗の跡は佐竹義重の三男の貞宗が継ぎ、
  これにより伊達家は事実上佐竹家に乗っ取られる形となった。
 
248 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/03/13(日) 13:29:16
 島津義弘(1535(天文4)〜1600(慶長5))
  戦国末期〜安土桃山時代の武将。島津貴久の次男、兄弟に島津義久、島津歳久、島津家久がいる。
  「島津四兄弟」の1人として、兄・義久の下、前線の武将となり木崎原の戦い、耳川の戦い等で活躍。
  豊臣秀吉の天下統一後は実質上島津家の当主となり、朝鮮への出兵の際も島津家の大将として出陣。
  1600(慶長5)年の関ヶ原の合戦の際は、西軍大将・石田三成への恩義から西軍として参加。
 
  しかし、西軍は総崩れし世界的にもまれにみる「敵前の前方退却」を行う。
  この時に甥の島津豊久を助けようとし、すてがまりを行って戦死。
  その際の勇猛果敢な戦闘ぶりと伯父を助けようとする豊久に対して
  「これからは若者の時代、何があっても生き延び帰国せよ」
  と説得した義弘の台詞は今でも郷土で涙を持って語り継がれる伝説となっている。
 
249 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/03/13(日) 13:29:58
 島津豊久(1570(元亀元)〜1638(寛永15))
  安土桃山時代〜江戸初期の大名。島津義久、島津義弘の異母弟・島津家久の長男。
  1688(天正16)年、急逝した父・家久の跡を継ぎ佐土原藩主となる。
  その後、豊臣秀吉の命により小田原の戦い、朝鮮への出兵に参加。
  実際に佐土原にはほとんど在国できなかったと思われる。
 
  秀吉の死後は徳川家康に積極的に近づくが、
  関ヶ原の合戦の際には伯父・島津義弘への恩義から西軍側に付く。
  しかし、夜襲策を石田三成に受け入れて貰えなかったことなど早くから三成への憤懣があったらしい。
  そのために合戦が始まって加勢を三成から要請されても動かなかったと思われる。
  結局西軍は大敗し、伯父・義弘の奇策による「敵中突破」を行うが
  ほとんどの兵がすてがまりで戦死、帰国できたのは豊久を含め50人程度だったと言われる。
 
  西軍に付いたことから帰国後は改易の危機にさらされるが、
  元々家康よりだったことや伯父・島津義久らの工作により本領安堵。引き続き佐土原藩主となる。
  慶長16(1611)年に伯父・義久が病死するが、
  それ以前から藩主となっていた島津家久(島津義弘三男)の乱暴な行いに
  不満を持っていた家臣が抜け駆けで江戸に行き幕府に訴えるというお家騒動が起こる。
  これに対して徳川幕府は「喧嘩両成敗」策を取り、
  抜けがけた家臣は他藩にお預け、島津家久と島津豊久の領地を総替えした。
 
  本来なら改易となってもおかしくなかったが、
  薩摩大隅という生産力が低く特殊な地域であるためこの処分となったと考えられている。
  これ以降豊久は薩摩藩19代藩主となった。関連項目として「慶長薩摩騒動」も参照すべし。
 
262 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/03/16(水) 15:59:29
 吉見広頼(1645〜1616)
  毛利家臣。
  1585年父正頼から家督を継ぐが、病弱だったため政務を行ったのは彼の息子の元頼であった。
  朝鮮出兵で元頼は重傷を負うものの生還した。
 
  関ヶ原の戦いでは吉川広家の働きで毛利氏は本領安堵され、
  元頼は本領津和野で六万石を領し、次男広長は別家を起こし安芸で一万石を領した。
  また、彼の娘婿であった益田元祥は毛利氏永代家老となり、益田八万石を領し、
  同じく娘婿の毛利元康は備後神辺を領し家中に重きを為した。
  彼の血縁に繋がるものは皆長命を保ったと言われている。
 
  広頼自身は決して歴史上で活躍した人物ではないが、
  こうした一族の繁栄を目にすることができた、極めて家庭的に恵まれた武将であったと言える。
 
231 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:05/03/11(金) 19:05:45
 陶隆 ????〜????
  字は房。寧波の商家に生まれる。先祖は徐州刺史であったと言う。
 
  幼い頃に父・陶興の乗った船がポルトガル船に沈められ、家が没落する。
  15歳の時、交易船に乗って山口へ渡来、そのまま土着し大内氏に仕え名も晴賢と改めた。
  その後は持ち前の才覚からどんどん出世し、「西方不敗」の異名を取ったが、
  その出自から家中の風当たりが強く、敵も多かった。
 
  天文10年、山口に宣教師が来ると、
  亡父の恨みからこれを追放することを主君・義隆にすすめたが容れられず、謀反を起こした。
  主君を討った後、他家から当主を迎え一時勢威を誇ったが、
  やはり漢人というのが仇となり、豪族の離反が相次ぐ中、安芸の毛利元就に討たれた。
 
250 名前:無名武将@お腹せっぷく
投稿日:05/03/13(日) 16:01:22
 山中鹿之助(1545〜1617)
  出雲尼子家の家臣。
  毛利家の月山富田城攻略戦では奮戦虚しく敗北。尼子家はここに滅亡した。
 
  鹿之助は尼子家を復興しようと決意。
  何度失敗しても諦めることなく遂には織田家の後ろ盾を得て尼子家を復興する。
 
  このときの尼子の領土は上月城と宿敵毛利との最前線であった。
  別所、荒木らが織田に叛旗を翻し、羽柴秀吉が鎮圧にでている間に上月城を毛利の大軍が包囲。
  鹿之助ら尼子諸将は織田の援軍を待ち篭城。
  ついに織田信忠率いる羽柴、柴田、明智、滝川ら5万の大軍が救援に向かい毛利との決戦になった。
 
  だが、上月城は場所が悪く折角の兵数がいかせない戦場であった。
  激戦が数時間続き鹿之助率いる隊が毛利の陣を強行突破、これにより毛利は総崩れになった。
  この戦いにより小早川、吉川、両川が討ち死に。毛利諸勢力が尼子に寝返った。
 
  かねての約束通り上月城を返上し出雲を回復した尼子家であったが
  織田信長が本能寺で討ち死にという報を聞くと滅亡間近の毛利が力を戻し怒涛の進撃。
  羽柴秀吉の信長の仇討ちは不可能と思われたが鹿之助が尼子、宇喜多による迎撃策を提案。
  これにより羽柴秀吉は明智討伐の第一人者となり天下獲りへの道を開くのである。
  秀吉は「鹿之助の何たる武勇かな」と褒め称え槍、「日本号」を渡したといわれる
 
  その後、秀吉は九州を討伐。恩賞として尼子家には肥後一カ国を領有した。
  もっともその後、佐々成政が領土経営に失敗した際その領土を受け取っている。
  一説には最初から秀吉が仕組んでいたとも言われる。
  その後尼子勝久が若くして亡くなるとその子の後見として尼子家の政務を取り仕切った。
  堅城として名高い月山富田城をも越える熊本城を建設し、西国将軍と呼ばれた。
 
251 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:05/03/13(日) 16:06:50
  秀吉が亡くなり徳川家康が天下を獲ろうと画策し鹿之助に
  本多忠勝の娘、稲を家康の養女にし婚姻政策を獲ろうとしたが
  「内府の天下獲りに協力する気は毛頭無い」、と一蹴している。
 
  その後独断極まる徳川家康を倒す為、石田三成、上杉景勝らと協議しした。
  鹿之助はその後、本領仕置という名目で各城を普請。
  家康が催促状で上洛を何度も促したが「山中状」と呼ばれる書状を家康に送りつけた。
  これに激怒した家康は天下の兵を率い、大坂を発ち熊本城へと進軍した。
  だがこれは全て鹿之助による計略であり、空になった江戸を上杉が急襲。
  さらに上方においては石田、大谷ら諸将が鳥居元忠率いる伏見を落とし大坂城を占拠していた。
  九州の各勢力はこの報を聞くや否や山中派、徳川派に別れた。
  山中派には島津、鍋島、立花、小早川、宇喜多ら西軍8万2千
  徳川派には福島、加藤、黒田、池田、前田ら豊臣諸将が付いた東軍7万4千
  さらに、徳川秀忠の率いる四国渡海勢、3万5千(真田、長宗我部、仙石、十河etc……)
 
  真田、長宗我部は秀忠軍より抜け出し土佐の国を挙げての篭城。ついに秀忠勢を四国に釘付けにした。
  伏見を落とし大坂を占拠した石田勢は北陸の前田家と激突。
  上杉家は江戸より帰陣し東軍勢力である伊達、最上ら奥州勢力と一進一退の戦いを繰り広げた
 
252 名前:無名武将@お腹せっぷく
投稿日:05/03/13(日) 16:08:51
  その頃、両軍は博多にて対陣。夜が明けると共に決戦の火蓋は切って落とされた。
  これは後に博多大戦と呼ばれる。
  鹿之助率いる西軍は東軍を包囲し家康本陣への突撃を開始していたが日和見を決めていた
  尼子に恨みを持つ小早川秀包1万5千が謀反。島津義弘率いる島津隊に突撃を開始した。
  義弘は死を覚悟し小早川本陣を強行突破、これにより小早川勢は3丁も潰走したといわれる
  再び勢いを取り戻した西軍勢力は黒田長政、福島正則ら諸将を討ち取り東軍を潰走、追撃した。
 
  その後、故福島正則の居城であった広島城に家康は篭城。
  家康は秀忠軍、反尼子勢力である毛利残党を掻き集め最後の一兵まで抵抗。
  功城戦は2度に渡り続き広島冬の陣、夏の陣と呼ばれた。
 
  これにより徳川家康という反豊臣勢力は消滅。
  新五大老として山中鹿之助、石田三成、上杉景勝、宇喜多秀家、真田昌幸が就任。
  鹿之助は五大老筆頭となり右大臣に就任。
  これ以降は領土の経営に精を出し豊臣300年の基礎を築いたのであった。
 
  なお、彼の息子の山中新右衛門は武士であることを嫌い商人へとなった。
  彼の経営手段は非常に優れておりヨーロッパを始め海外と交易を開始。
  日本に工業革命を起こした第一人者であった。
 
190 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/03/05(土) 09:48:55
 雨森弥兵衛(生没年不詳)
  浅井氏の臣で、赤海雨三将の一。実は事績はよくわからない。
  光栄の「信長の野望 武将風雲録」で笑える顔グラフィックをつけられたため(一部で)大ブレイク。
  以後同シリーズの常連である。
 
  2ch三戦板の看板の左が雨森弥兵衛である(右は荻清誉)。
 
192 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/03/05(土) 12:59:26
 二階堂盛義(????〜1581)
  奥州須賀川城主。弱小二階堂家を強力にするために智謀の限りを尽くし
  裏では蘆名盛興暗殺(表向きは病死)に関わりながら、蘆名盛氏に降伏し
  実子の盛隆を養子に送り込んで、蘆名家乗っ取りという大博打を打つ。
 
  盛義の思惑通り盛氏の没後、家督を盛隆が継ぐことになると
  あまりの事の運びに3日3晩大笑し、そのまま逝ってしまったと言われている。
  現在残されている肖像画は、この時の喜びを表現する為に絵師に書かせたものと伝わっている。
 
226 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/03/10(木) 14:37:59
 畠山重忠 1164〜1205
  幼名を氏王丸という 父は畠山庄司重能、母は三浦義明の娘。
  1180年、当初平家側として石橋山の戦いに出陣した。小坪、衣笠の戦いの後、源頼朝方に参陣。
  頼朝はこの参陣を、自身を八幡太郎になぞらえ「我が真衡が来てくれた」と言って喜んだという。
 
  1184年 宇治川の戦にて活躍。
  その渡河中、溺れ流され、自らの腰にしがみ付いてきた大串某を、片手で対岸に投げ上げ、
  そこで大串某が戦陣一番乗りの声を上げると、敵味方から失笑が上がったという逸話がある。
 
  1184年の一ノ谷の戦いにあっては、義経に従軍。
  有名な鵯越の逆落としに、震え上がる愛馬を自らの背に括り付け、
  その足でもって崖を下ったりもした。(盛衰記)
  その後、奥州征伐にも参加、大木戸の戦い、阿津賀志山の戦いなどにおいて戦功を上げる。
  由比ガ浜にて陸奥と名乗る無手の士と戦うという口伝が今も残っているが、その真偽は定かではない。
 
  1205年 息子、重保が北条時政の縁者と口論の末、殺されるという事件が起こる。
  これを期に、重忠にも大群が差し向けられた。
  北条方の大軍を数度退けるも、武蔵国二俣川の激戦において、
  嫡子、重秀が討ち死にを遂げると「生きる望みを失った」といって、その場で割腹して果てたという。
 
258 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/03/14(月) 16:15:41
 大友宗麟 1530-1587
  豊後・府内に漂着したアラビア商人と親交を深めてイスラム教に興味を持ち、
  日本初のムスリム大名になった。ムスリム名・アブドゥルラフマン。
 
  領内の寺社神社を破壊し、竜造寺・島津・大内ら諸氏と激しく覇を競った。
  天正少年遣トルコ使節団を派遣、オスマン帝国と友好関係を結んで
  アラビアの学問や兵器を導入したが、耳川で島津氏に大敗し没落した。
 
  フロイスは見るに耐えない凄まじい言葉で彼をけなし、
  「シモの地方で十字軍を起こすべきだ」と述べている。
 
241 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/03/11(金) 23:53:09
 立花裎千代 1569〜1602
  立花道雪の娘。7歳にして女婿の身で家督を譲られ立花山城城督となる。
  15歳の時に父道雪が没し名実共に父の跡を継ぐことになる。
 
  1586年、島津軍5万が高橋紹運の守る岩屋城、紹運の子統虎が守る宝満城を
  それぞれ激戦の末に攻め落とし裎千代の立花山城にまで攻め寄せてきたが、
  裎千代は豊臣家からの援軍到着まで守り抜き撤退する島津軍に一撃を加えた後
  星野兄弟が守る高鳥居城を1日で攻め落とし、岩屋城、宝満城も瞬く間に奪還した。
  この功績により大友家から独立し筑後柳川13万石の大名となる。
 
  肥後一揆、小田原征伐でも活躍し、文禄の役では小早川隆景の6番隊に入る予定であったが
  裎千代の強い要望で旧主である大友吉統が属する3番隊の一員となった。
  1593年、最前線の平壌を守っていた小西行長が李松如の指揮する明軍4万の攻撃を受けた時、
  行長の救援要請を無視して京城まで退こうとした吉統を激しく叱責し明との交戦を決意させる。
  小西行長の救援に駆けつけた立花軍は日本軍の先鋒を務めその勝利に大きく貢献した。
  この戦いでの勝利が明軍との講和のきっかけとなった。
 
  1600年、関が原の戦いでは東軍につき
  (秀吉に側室になるよう言い寄られたことが原因といわれているが真偽は定かではない)
  関が原本戦において目覚しい活躍をする
  特に戦いの終盤に東軍の中央突破を図った島津義弘の軍に追撃に次ぐ追撃をかけて
  終に撃滅し義弘を討ち取る功を上げる。
  家康に「西国一の女丈夫」と称され筑後32万石を領する。
 
  しかし1602年、関が原で島津軍に受けた傷が元で死去。
  高橋統増の子を養子として跡を継がせた。享年33歳であった。
 
208 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/03/06(日) 21:23:56
 近藤勇(1834〜1912)
  武蔵国多摩郡に生まれ、天然理心流で剣術を学び、剣術を学び、天然理心流4代目を継ぐ。
  豊臣幕府に仕官の道を求め、大坂にいくも、
  逆賊徳川領の出身ということで差別され、失意のうちに武蔵に戻る
 
  その後剣の才を認められ、同郷の土方歳三らとともに庄内藩最上家に召抱えられる
  ペリーの堺来航によって幕府が混乱する中
  幕府に関東警護を命じられた庄内藩藩士清河八郎の提言によって作られた浪士隊に参加、
  浪士隊は後に新撰組に名を変え、近藤は局長にまで出世する。
 
  やがて反幕府を掲げる奥羽列藩同盟が成立し、豊臣側と戦争に入る中
  新撰組は米沢城攻撃、江戸川越の戦い、大坂無血開城、
  安芸戦争、薩摩藩攻撃、琉球首里城の戦いにことごとく戦功をたて、
  新政府から従四位を与えられた。
 
197 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:05/03/05(土) 19:03:30
 福本精三 ????〜????
  果心居士とも。
  何度討たれてもその都度別な場所・別な形で蘇生するという
  摩訶不思議な能力の持ち主。
  歴史書に残る最後の目撃記録は明治初期、賊軍の残党として射殺されたというものである。
  また18世紀の仏蘭西でも似たような人物の目撃記録が残っているが、
  関連があるのかは不明である。
 
212 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/03/07(月) 06:49:25
 織田信成 1987-
  織田信長の七男・信高にはじまる近江神崎20万石織田家の御曹司。
  幼少の頃よりフィギュアスケートの鍛錬に励み、名手として知られる。
  2005年、世界ジュニア選手権で優勝し、世界に名を轟かせた。
  http://www.sanspo.com/morespo/top/more200503/more2005030702.html

  「昔は触れられるのが嫌だったが、
   今はいい“おじいちゃん”を持ててよかったと思える」
  http://www.sanspo.com/morespo/top/more200503/more2005030403.html
 
  おめでとうだ。
 
191 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/03/05(土) 10:21:54
 諸葛亮
  三国時代の発明家。諸葛瑾の弟。
  生涯野にあって、さまざまな発明を行った。
  一度劉備が草庵を訪ねたことがあったが仕官を断り、
  「一顧だにしない」という表現ができた。
 
196 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/03/05(土) 18:28:10
 諸葛亮
  隆中の土人。
  賢者の噂が高かったが、劉備直々の面会を断り
  更に訪ねてきた劉備を待たせて昼寝をしているなどの
  無礼な面が多かったために激怒した張飛に屋敷に火を放たれ焼死した。
 
193 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/03/05(土) 13:23:21
 張飛
  劉備の義兄弟。勇猛であったが、劉備に言われて奮起し、学問に励むようになった。
  あるとき、孔明と議論になったが、
  四書五経古今の兵書をマスターした張飛は孔明をことごとく論破、
  孔明の起こした風をさらに変え、八卦陣をあっさりと破った。
  孔明をして「酒乱の張将軍ではないな」と言わしめた。
  張飛の言葉「士、別れて三日なれば、すなわちさらに刮目して相待て」は有名。
  
213 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/03/07(月) 15:42:56
 劉禅(207〜271)
  漢(蜀)の二代目皇帝 興武帝と号す
  昭烈帝劉備の後を継ぎ皇帝の位に就くが、白帝城での劉備と孔明のやり取りを人づてに聞き、
  「能ある鷹は爪を隠す」と悔しそうに一言だけ洩らし孔明在世中は彼に全権を委任する。
  234年に孔明が歿すると直ちに魏延を大将軍に任じ、
  孔明により野に下っていた李平(厳)や廖立を復帰させ軍制改革に着手する。
  魏延・姜維・李平・夏侯覇・馬岱・張翼・張嶷・馬忠などの将士と
  蒋エン・費イ・董允・郭攸之・向寵・楊儀・廖立などの文官に支えられ北伐を敢行。
 
  255年には狄道で陳泰・王経を破り256年には段谷で訒艾を撃破。
  さらに前々年の曹芳廃位に怒った反司馬勢力と連携し次々と魏の領内に侵入。
  257年に長安攻略(鍾会降伏) 258年に洛陽攻略(賈充戦死・魏ギョウに遷都)、
  さらに呉の後ろ盾を得て徐州と豫州を平定していた諸葛誕が劉禅に降伏。
  この裏切りに怒った呉は直ちに軍を起こし成都を急襲しようと目論むが、
  孟獲・李恢・呂凱の別働隊に夷陵で大敗。丁奉・韓綜・朱異など数多くの将を失う。
  260年には魏皇帝の曹髦が司馬昭を斬り降伏を申し出る。
  262年の濡須口の戦いで陸抗・孫チン・顧譚・張承を討ち、呉の孫休を自害させ滅亡させる。
  264年には司馬昭の遺児炎を担ぐ訒忠・許儀・郭淮を易京で破りここに天下統一を成し遂げる。
 
  天下統一後、降将鍾会が政務に忙しい劉禅を見て「蜀の事を思い出しませんか」
  (孔明が生きてた頃のようにボーッとしてればと言う意味の皮肉)と言ったのに対し
  「政は楽しくて蜀の事なんか思い出す事もないよ」と切り返したのはあまりにも有名。
 
  215 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/03/07(月) 20:42:55
   >>213
   本当にいい話だねー
 
  216 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:05/03/08(火) 08:26:41
   でも実際劉禅は無能ではないんジャマイカ。
   てかあの時代珍しいくらい温厚だよな。父似か。
 
   でもその親父ですら権力に座ったらあまり周りの意見を聞き入れないんだから
   劉禅は父をも上回る温厚さを持った人物といえよう。
 
   217 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/03/08(火) 11:53:41
    >>216
    普通の人だったんだよ、きっと。
    上に立つような器じゃなかったんだろう。
 
214 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:05/03/07(月) 18:40:48
 周瑜(175-208)
  呉の将、字は公瑾。
  曹操軍の迎撃に赴いた際、ささいな事から部将の黄蓋を鞭打って殺害。
  越権行為を咎める副都督・程普に「これは作戦であった」などと
  気の触れたような弁解をしたため拘束され、後方に檻送される。
 
  呉主・孫権は狂人の言を容れて開戦を決めたことを悔い、
  張昭に周瑜の首を持たせて使者に立て曹操と和睦。
  後漢末からの戦乱は終息に向かうこととなった。
 
229 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/03/11(金) 17:04:44
 蔡瑁(???〜225年)
  190年に劉表が荊州刺史に任ぜられた時、劉表に招かれ帷幕に加わった荊州の豪族。
  劉表の荊州平定では黄忠・黄祖とともに主力を為し、
  カイ良の策に応じなかった反劉表系の諸豪族の討伐に費やす。
  192年の孫堅の侵攻では黄祖の援軍として後陣の韓当を奇襲し首級を挙げるという殊勲を立てる。
  またこの頃、妹を劉表に嫁がせ家中一の重臣となる。
  207年劉備が劉表に身を寄せると初対面で劉備の野望を見抜き、
  対曹最前線の新野に送るよう劉表に進言し容れられる。
 
  208年になると荊州は慌ただしくなる。劉表が死亡すると後継者争いを抑える為に劉蒅を立て、
  劉備・劉磐・カイ越と4人で後見する体制を取り家中の分裂を抑えると
  孫権の侵略を防ぐ為、長沙太守韓玄に命じ黄忠を黄祖の援軍に送り夏口を死守するよう命じる。
  これにより敗北寸前だった黄祖軍は持ちこたえ東部戦線は膠着する。
  また曹操の南下が始まり新野の戦いで劉備が戦死すると、
  カイ越・カイ良・文聘らの反対を押し切り襄陽を捨て江陵まで兵を退ける。
  この退却中に曹操の先遣隊に追撃を受けるが、
  零陵出身の猛将刑道栄の一騎駆けという奮闘もあり軽微な損害で江陵に入る。
  上流の江陵を獲れなかった曹軍は烏林に陣を敷き、降将の張允に水軍提督を命じるが
  これがすでに蔡瑁の埋伏の毒であった。張允は船酔い対策と称し船を鎖で繋ぐ事に成功する。
  またこの策をいち早く見破った徐庶とホウ統を暗殺。
  この報を聞いた蔡瑁はただちに軍を動かし、両軍激突とみせかけ直前に大量の火矢を射て火計に成功。
  そして曹軍をぎりぎりまで引きつける為に自らも死ぬ覚悟で乗船していた張允を救出。
  残された曹軍は逃げ場を失い大量の死者を出し大敗北を喫し、曹仁・程碰・荀攸などの将を失った。
  これをただちに追撃するよう文聘に命じ、襄陽はおろか新野まで回復した。
  これが世に言う「赤壁の戦い」である。
 
230 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/03/11(金) 17:05:33
  この後、自ら膠着状態の夏口の後詰めに出陣。迎撃に来た孫権軍と激突した。
  カイ良の策で軍を三手に分け、それぞれ蔡和・蔡仲・蔡勲に率いさせ
  孫権軍の横腹をつく事に成功し大勝を収める。
  212年は夏口の戦いで功を挙げた魏延という将校を抜擢し益州征伐の大将に、
  文聘を呉征伐の大将に任じそれぞれ攻略を試みるも失敗。
  213年にはこれに乗じて攻めて来た曹純・曹休軍を博望坡で撃破。
  216年に劉蒅が亡くなると劉蒴を立て家中の実権を完全に掌握。
  219年別働隊を黄忠に率いるよう命じ、自らも軍を率いて呉に再侵攻。
  交州の士燮を動かすことに成功し揚州の西半分を平定する。
 
  220年魏の建国に対抗し劉蒴に楚王を名乗らせる。
  223年宛を攻略し徐晃・満寵を討つも武陵蛮の沙摩柯が反乱を起こし撤退。
  224年には蔡勲・魏延・刑道栄・鮑龍に呉侵攻を命じ平定。
  劉蒴が急死(暗殺説あり)すると蔡瑁が後継者となり同時に皇帝に即位する。
  国号を「楚」と定め都を襄陽に定める。
  225年唯一の後継者となってしまった蔡和に後を託し病没。
 
  この後、楚は五代56年続き280年晋の前に屈し滅亡する。
 
235 名前:無名武将@お腹せっぷく
投稿日:05/03/11(金) 20:40:22
 【袁紹】
  字は本初。後漢の名家であった袁家の嫡子で混乱する漢室を支え続けた。
  都で当時の帝・献帝を擁し、暴政を極めた董卓に対抗するため自ら連合を結成、
  その長となりこれを率いると董卓に焼き払われた旧都洛陽を奪還した。
 
  袁紹は洛陽復興を第一とし民を安息させ、
  後この功に献帝は「朕の故郷を守ったことは朕を守ったに等しい」と賞賛されることとなる。
  その後漢室が曹操によって支配されると袁紹は大軍を持って都を占拠。曹操を追撃しその首を獲った。
  献帝はこの功を認め丞相に任命。
  当時傘下にあった劉備などと共に善政を敷き第二次後漢の礎を作った。