歴史が違う方向に行ってた場合の人物略歴 適当にまとめ その4
引用元スレッド
たまに光るネタがあるから止められない
297 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2005/04/09(土) 12:55:17
小竹(通称) 生没年不明
尾張国愛知郡中村の庄屋。
幼くして父を亡くしたが、一家の大黒柱として母・姉・妹を支える。
可もなく不可もない人物だったが、努力は人一倍だったらしい。
兄が生きておれば百万石の大名になれたかもしれぬ…と言いつつ世を去った。
貧乏な借地百姓から庄屋にまで出世した偉人として今尚、庶民に尊敬される。
薪を背負って本を読む少年の像は彼がモデルだと言われている。
また彼の最後の言葉は「少年よ、大志を抱け」とポルトガル語訳されている。
(日本昔話・偉大な農民より抜粋)
追記 最近の郷土史家の研究により、
彼の兄は暴君織田信長の草履を脇の下で温めて殺されたことが判明した。
299 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2005/04/09(土) 17:34:21
「若い日の信長についてはさまざまなエピソードがある。
日頃から草履をはかず、裸足で野山を駆け巡ったという奇行は、
まさに野生児の面目躍如といったおもむきである」
―― 『戦国時代の歴史・天下統一への胎動』 民明書房刊
木下藤吉郎(生没年不詳) 清洲時代の信長に仕えた小者の一人。
―― 『信長公記全登場人物事典』 民明書房刊
273 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/03/19(土) 10:52:00
黒田孝高(1546-1582)
小寺職隆の子、入道後は如水。
1567年(22歳)に父より家督を譲られ姫路城主となり、小寺氏の家老に命じられる
1569年赤松政秀が3千余で姫路へ侵攻してきたが
篭城することなく僅か3百でこれを打ち破り、武名を天下にしらしめた。
織田と毛利の2大勢力に挟まれると小寺氏は織田に付いた。
以降、孝高は羽柴秀吉の与力として活躍した。
荒木村重が謀反したとすると謀反を説得しようと単身乗り込んだ。
が、村重の考えが戻らないとしると友情を裏切ることも出来ず孝高は村重と共に篭城した。
村重、孝高の立て篭もる有岡城が中々落ちないと秀吉は見るとこれを包囲。
兵糧攻めを行うこと3年がたった。
が、もはや落城寸前に織田信長が本能寺で死んだ、と聞く。
有岡城兵は毛利の援軍とともに羽柴秀吉を撃破した。
しかし、この長い篭城生活で歩行困難となりまもなく栄養失調で亡くなった。
荒木村重はこれを聞くと
「私が謀反など起こさなければ彼を殺すことはなかった。」
と、嘆き入道すると孝高の菩提寺を建てたという。
368 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2005/06/16(木) 23:52:55
脇坂安治(1554-1626)
織田信長・豊臣秀吉の家臣。賤ヶ岳の七本槍の一人として名を残す。
関が原の合戦で東軍に寝返り、1609年伊予大洲藩主の領主となった。
安治がまだ若く、信長に仕えて丹波攻略に従事したときのエピソードとして、
次のようなエピソードがある。
「丹波の赤鬼」と呼ばれる猛将・赤井直正に降伏を勧めるため、
安治は単身直正の黒井城に乗り込んだ。赤井直正は安治の堂々たる態度を称え、
パンダの毛皮でつくられた家宝の槍鞘を贈ったという。
江戸時代、「パンダの皮」と言えば脇坂家の代名詞となった。
300 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2005/04/09(土) 23:33:33
斎藤利三(1534〜1600?)
稲葉一鉄に仕える。
一時期、叔父にあたる明智光秀に仕えるが織田信長の命により再び一鉄に仕える。
この事が幸いし、光秀の信長謀反には巻き込まれず、
変の際には、光秀と共謀して美濃に兵乱を起こした安藤守就を主君一鉄とともに討伐し、
その後一軍を率い、近江の織田方の援軍として美濃・近江国境に軍を進めた頃、
羽柴軍大返しのため光秀軍の主力が京へ撤退。
明智軍が山崎に敗退し、光秀が首を討たれる頃までに明智方に奪われた長浜・佐和山を奪回する手柄。
戦後、姻戚で長宗我部とパイプを持っていることもあり秀吉に優遇される。
稲葉家より自立という形で坂本20万石を領有。
羽柴・長宗我部の紛争の際には四国討伐の軍令が出される直前に
長宗我部家に阿波・土佐2国領有案を呑ませ争いを防ぐ。
豊臣の時代が去ると娘ふくを徳川家に送り込む処世術にも長ける。
政治68 戦闘77 智謀63
282 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2005/03/24(木) 11:27:25
山本勘助(????〜1577)
名は元幸。三河牛窪の出身。前半生は不明。
当初、駿河の今川義元に仕えようとするがその容貌が嫌われ断られる。
だがその才を見抜いた朝比奈泰能に請われ朝比奈家に召抱えられる。
泰能没後も泰朝を支え、1560年の桶狭間の戦いでは織田信長が討って出てくると読みきり
大将義元を桶狭間に布陣させ囮とする大胆な布陣で、
開戦すると泰朝と共に鷲津砦を出撃し織田勢を挟撃。
信長の首級を挙げるという殊勲を挙げる。
この直後の恩賞で義元自ら謝罪したのはその地名に因み「沓掛の礼」と呼ばれ、
現代でも「目上の人間が自らの過ちを認める」という意味で使われている。
1562年には信長の跡を継いでいた信広を討ち、
信賢・信清連合を那古野で大破して織田一族をほぼ完全に一掃。
1563年斎藤攻略のため後方の北畠と同盟を締結に赴き成功させる。
翌64年からの2年にわたる兵糧攻めで稲葉山城陥落、斎藤龍興を自害させる。
ここから1572年まで記録からぷっつり彼の足跡は消える。
謹慎説(主君泰朝をないがしろにし過ぎてたよ派)
隠居説(もう疲れちゃったよ派)
隠密説(諸国を飛びまわってたよ派)
死亡説(ここからの勘助は別人派)など
諸説あるが真相はいまだわからない。
1573年一軍の将として飛騨攻略に出陣。江馬輝盛を討つが程なくして撤退。
そのまま返す刀で北伊勢に乱入、虚を衝かれた関盛信・神戸具盛を滅ぼす。
74年には長野具藤を暗殺。
これに怒り8000の軍勢で攻めこんで来た北畠具教をわずか4000の兵で桑名で撃破。
水軍で後方を脅かすと流言を流し、慌てて北畠軍が後退したとこを伏兵で散々に打ち破ったのである。
76年に木造具政を滅ぼし伊勢統一。
志摩の九鬼嘉隆が今川に降伏し、上洛最後の障壁六角義賢と対決となった直前の翌77年
病にて世を去る。
364 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2005/06/13(月) 20:05:37
真田信繁(1567〜1650)
真田昌幸の次男。
関が原の戦いの際、父と共に上田城に篭り徳川本隊を遅参させた。
西軍が敗れたために配流の身となるが、豊臣秀頼の誘いを受け大坂城に入る。
大坂冬の陣では大坂城の弱点とされる南に出丸を築き、徳川軍に大損害を与えた。
しかし冬の陣後、徳川家に勧誘されるとあっさりと徳川方に寝返り、
以後は十万石の大名として生きることとなる。
嫡男幸昌に家督を譲った後も配流中に考案した真田紐を藩の専売にするなどの政策を行った。
1650年、江戸に出かけた帰りに遊郭で豪遊。
数十人の花魁に囲まれ、「関東に男は一人もいない」の言葉を残し腹上死した。
303 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2005/04/10(日) 15:24:46
長尾景虎 1530-1578
国人衆の争いに疲れた頃、キリスト教に出会い入信。洗礼名ヨハネ。
「東方のエルサレム」を建設するために、十字架を先頭に押し立て、
西洋甲冑に身を包み、勇猛果敢に戦場を突撃するさまは、武田・北条ら諸氏をおそれさせた。
ルイス・フロイスは「プレスター・ジョンの再来」とベタ褒めしている。
なお、私生活は修道士のようであり、生涯妻帯しなかったという。
284 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2005/03/25(金) 00:55:46
北条氏直 15??〜1630
北条家5代当主。妻は徳川家康の娘。
父・氏政に押し切られ秀吉と敵対し、小田原城を落とされる。
その後氏政は切腹となったが氏直は死一等を減じられ、高野山に蟄居処分となった。
父という重石がとれた氏直はのびのびと才覚を発揮し始める。
まず豊臣政権の有力官僚石田三成に誼を通じ、その一方で風魔衆を使って旧臣達を煽動し、
家康が入部した関東で一揆を起こさせた。
家康は討伐隊を遣るも、押しては引き引いては押す一揆勢に苦戦、
秀吉軍が出動する事態になる。(つづく)
285 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2005/03/25(金) 01:08:20
この時氏直は三成の依頼を受ける形で書状を出し一揆勢を降伏させた。
戦後家康は統治の不手際をとがめられ、武蔵一国に減封される。
その弁明に家康は氏直に疑いをかけ 証拠として一揆勢から奪った密書を提出するが、
氏直は落ち着き払って花押の差異を指摘し、これを退けた。
戦功により氏直は旧領の内、相模・伊豆・下総・上総4カ国を与えられ小田原に復帰した。
小早川隆景死後5大老となり、三成と組んで権勢をふるった。
朝鮮攻めの最中に秀吉が死ぬと、上方留守居役だった氏直は一揆鎮圧の名目で武蔵に出兵。(続く)
286 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2005/03/25(金) 01:09:31
事実上の乗っ取りに成功する。
これに大して屋台骨が揺らいでいる豊臣政権は何も出来ず、三成は北条独立圏を承認する。
この後上野・下野・安房も平呑し、関八州の覇者となった氏直は、関東関領に就任し、
形骸化しつつある豊臣政権とは兄弟同盟を結び、天下一の巨城の落成を見た直後に大往生した。
287 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2005/03/25(金) 01:11:15
豊臣政権が曲がりなりにも二百年続いたのは
北条王国という仮想敵国の存在があったからであろう。
304 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2005/04/12(火) 20:20:23
今川義元 1519-1574
東海一の弓取りと呼ばれた。
1560年に上洛を開始。尾張の織田信長、伊勢の北畠らを駆逐し京の三好らを追い払った。
上洛後は足利義輝より副将軍の職を受領した。
その後、別の将軍をたてた三好勢と戦い続け1566年、野田・福島の戦いでこれを打ち滅ぼした。
そして近畿を固めた義元は関東管領上杉謙信の要請を受けて武田・北条攻めを開始。
三国同盟の破棄により武田・北条同盟が組まれたが
近畿勢7万を始め上杉、佐竹、里見、村上ら諸将以下14万の兵により
武田を討ち返す刀で小田原を包囲、これを落とした。
武田・北条という大大名がいともたやすく敗れたことをしると毛利、伊達、島津などが次々と服従。
これにより応仁の乱以降続いた足利幕府の騒乱は終わった。
1574年義元が死去すると副将軍は氏真が継ぐが政敵である伊達政宗、細川一族の策謀により失脚。
放浪の蹴鞠士として生涯を過ごした。
305 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2005/04/12(火) 20:22:03
>1574年義元が死去すると副将軍は氏真が継ぐが政敵である伊達政宗、細川一族の策謀により失脚。
>放浪の蹴鞠士として生涯を過ごした。
氏真の運命は変わらないのかw
312 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2005/04/13(水) 21:02:22
今川氏真(1538-1615?)
風流の蹴鞠士を装った必殺の仕事人
1560年に父、義元が桶狭間で死亡すると突如姿を消し、諸国を放浪した。
だが、この放浪には常人には思いもよらぬことが起きていた。
織田による天下を乱そうとする悪人、武田信玄を三原ヶ原にて単騎忍び込み、蹴鞠を使い、暗殺。
その後、非道なジェノサイダーと化した織田信長を止めるべく単身、蹴鞠の公演と名乗り乗り込む。
蹴鞠に見入る信長の隙を取ると放浪中に編み出した『今川流蹴鞠式剣術』にてこれを暗殺した。
彼の悪を裁く旅は終わらない。
信長の死後、羽柴秀吉が天下を取り朝鮮出兵という悪事を行うことを知るや否や
親友、石川五右衛門、前田慶次らと共に世界一の居城大阪城へと乗り込んだ。
すでに名の知られていた氏真を数多の猛者が防ぐが(島左近・真田幸村・加藤清正・福島正則etc)
仲間が一人、また一人倒れていく中、これらの難関を打ちのけついに秀吉の本丸まで乗り込む。
ここまでの戦いで満身創痍、そして老齢の為、秀吉にやられるかと思われたが
蹴鞠に鋼鉄線を通しそれを蹴り、相手の首に鋼鐵線を掛け柱を通った蹴鞠に首を掛けて吊るすという
現在において仕事人と呼ばれる技を閃き、逆転勝利するのであった。
しかし、第六天魔王信長の血肉を持ち蘇ったデビル秀吉が復活し、野望を膨らませたが
妻、蔵春院早川殿と蹴鞠ラブラブ天驚拳により消滅させ、天下を平和にした。
316 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2005/04/17(日) 10:32:53
今川氏真(1538-?)
1560年に父、義元が桶狭間で死亡すると突如姿を消した。
1585年に突如隠岐島に現れ、日本にサッカーを伝える。
その時に、
山斗州(サントス)
露兵素(ロペス)
真羅道那(マラドーナ)
緋礼(ペレ)
申芭塔須(サルバトゥース)
仏府晴斗(ブッフバルト)
織芭亜(オリバー)という南蛮人を引き連れていた
最近の調査によると、
氏真は中国〜シルクロードを経由し、ヨーロッパに渡りサッカーを会得したという
驚きの調査結果が報告されている
しかもイタリアの古代サッカーに関する文献に
「IMAGAWA-KEMARISHOOT」なる文字もある事が発見された
(つづく)
317 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2005/04/17(日) 10:49:52
さらに驚くことに、中南米の古代サッカー遺跡より日本の蹴鞠が発見されたことが
色々な憶測と物議をかもし出している
「中南米にサッカーを伝えたのは今川氏真では?」との学説も浮かび上がった
モンゴルに古くから伝わる遊戯に「ケマリ」という物があることも確認されている
驚くことに、日本の蹴鞠と古代サッカーを融合したような物であるらしい
さらに驚くことに同じような蹴鞠がモンゴルの草原地帯から発掘されている
この事から
今川氏真は、中国よりシルクロードを経て、イタリアへ渡ってサッカーを会得
その後、中南米へ渡りサッカーを伝来させる
後にモンゴル〜日本へ返り、サッカーを伝来させたと推測される
(「サッカー伝来」著 今川カズ)より
323 名前:ネタ通り越して冗長なチラシの裏[sage] 投稿日:2005/04/21(木) 18:24:57
朝倉景健 1537〜1581
安居城主朝倉景隆の子。朝倉分家筋に生まれる。
姉川(三田村)合戦で総大将を勤めるも退却
志賀の陣にて再度大将。主君義景の命に背き、織田との徹底交戦を主張、
長島一揆の尾張侵入でついに信長が退却を始めると浅井勢、叡山門徒らとともに追撃。
堅田で信長を討ち取る。余勢を借りた景健は醒井、大垣と転戦し、信長主力をほぼ壊滅させる。
大垣郡司として真柄直隆・三段崎らを置くとただちに上洛
内裏・御所警固にあたり、浅井長政とともに義景の上洛を待つ。
この時長政と親交を深める。
義景3万を率いて上洛、義景は従四位参議続いて管領代に就任。
景健は中務大輔を拝領、朝倉景恒に代わり敦賀郡司に。
景健、義景主力を率いて畿内転戦。南近江の六角氏を討つため上洛すると、
景鏡による景健讒言を察知。義景の逗留する二条御所を不意に攻め将軍義昭を保護、
義景とともに上洛していたライバルの大野郡司朝倉景鏡を討ち取る。
義景は浅井を頼るが逆に今津にて討ち取られてしまう。
景健管領に就任。池田景久を若狭、前波吉継を敦賀、斎藤吉唯を佐和山に配し、岐阜を攻略。
織田家を滅亡させると武田と和し、徳川を攻める。
足利義昭・浅井長政挙兵、これを討ち堺から将軍義栄の息、足利義助を迎える。
義助、義健と改名(烏帽子親は景健)させ16代将軍とする。
この頃から日下部姓を止め、清和源氏足利義嗣裔鞍谷流を自称し、源景健と署名しだす。
やがて義健を追い将軍空位とすると、みずからも管領を辞して事実上幕府滅亡
居城を小谷、ついで観音寺城に構えると、ついに将軍位を拝命。翌年病没
363 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2005/06/01(水) 20:51:20
朝倉義景
越前守護孝景の子。初め延景を名乗る。
天文二十一年(1552)家督を相続し、越前、加賀一向一揆を抑えて加賀半国を制圧した。
永禄九年(1566)、足利義昭を越前国一乗谷に迎え、幕府恢復を要請されるが腰をあげず、
義景の許を去った義昭は同十一年(1568)織田信長に擁立されて入洛した。
義景は上洛を命ぜられるも拒否し、浅井長政と結んで信長に対抗。
元亀元年(1570)、長政のもとに援軍を送るが、姉川の戦で信長軍の徳川家康に敗れた。
のち信長軍に一乗谷を侵攻され、自刃に追いやられた。享年四十一。
その死後、義景の頭蓋骨は信長によって朱色に塗られ、酒盃にされたと伝えられる。
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朝倉義景
越前守護孝景の子。初め延景を名乗る。
元亀元年(1570)、姉川の戦で信長軍の徳川家康に敗れた。
のち信長軍に一乗谷を侵攻され、一族の朝倉景鏡(かげあきら)の謀叛により自刃に追いやられた。
享年四十一。その死後、義景の頭蓋骨は信長によって青色に塗られ、酒盃にされたと伝えられる。
--------------
朝倉義景
越前守護孝景の子。初め延景を名乗る。
(中略)信長軍に一乗谷を侵攻され、自刃に追いやられた。享年四十一。
その死後、義景の頭蓋骨は信長によって七色に塗られ、酒盃されたと伝えられる。
--------------
朝倉義景
(ほとんど略)
その死後、義景の頭蓋骨は信長によってどどめ色に塗られ、酒盃されたと伝えられる。
328 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2005/05/05(木) 19:54:31
那須与一宗隆(?〜1189)
那須太郎資高の子。平安〜鎌倉時代の武士。下野国(栃木県)那須出身。
源平の合戦に源氏方として、源平最後の合戦、屋島の戦に参戦。
この時与一、弱冠20歳。小柄な体格であったという。
飛ぶ鳥三羽のうち二羽を必ず落とすという弓の名手。
元暦2年(1185)2月18日、与一の遥か先には平家の小舟、
竿の先につけられた日の丸を描いた扇が立っていた。
ぶれる鏑矢を嫌い、矢尻のついた矢を取る与一。
源平勝負の晴の場所、武運はこの矢に定まると、
那須乃与一は一心不乱、ねらい定めてひょうと射る。
しかし、与一の矢はあれよあれよと扇を逸れ、空に消えた。
「これを射損じる位ならば、弓切り折り自害。」
との覚悟であった与一、滋籐の弓を折り捨て、
喉を突かんと短刀を抜いたが、小船の向こう、
沖より絹を裂くような女官達の悲鳴を耳にして手を止めた。
なんと、与一の矢は扇ではなく、
清盛の子、安徳天皇の眉間を貫き通していたのだ。
この珍事によって平家は総崩れとなり、屋島の泡と消えたのである。
これにより、源平最後の戦にて、図らずも大金星をあげた与一は、
源頼朝より那須氏の総領の地位と十五カ国内の荘園を与えられた。
文治5年(1189)8月8日、京都の即成院にて病の床にあった与一、
その手を取ろうとした一族の者の手を振り払い、
「利き腕を人にあずけるほど、俺は自信家じゃない…。」
と、一言つぶやいた後、息を引き取ったという。
355 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2005/05/18(水) 20:15:06
【曹植】
漢の丞相魏王曹操によって、曹植は曹家の後継者に定められた。
曹家の影響力を保ち、安泰を計るため禅譲を起こすことが不可欠であると薦める者も多数いたが、
それを拒否。魏王国を返上し、自身は司空に就き、陳グン、華キンと共に三公となった。
しかし、諸派閥のバランサーとしての役割を果たしていた夏侯惇の死後、
諸侯に封じられていた曹丕は、魏王国消滅により官職を失ったものの不満を糾合し、
鐘ヨウと結び、司馬懿を謀臣として、司隷を中心に兵を挙げる。
曹植はこれに対し、各地の将軍に不動を命じ、楊脩、荀?を謀臣とし、曹彰、丁儀らを将軍として
自ら短期間でこれを鎮圧するも、この騒乱の中で曹丕の妻、甄氏も殺害されてしまう。
この後、甄氏の枕を抱えて泣く姿をその他の朝臣の目の前で晒し続けた曹植は官を辞し、
司空の後任には楊彪が就く。
曹家の当主としての曹植の漢貴族社会における影響力は行使されることなく、
曹家はその後数々の名臣を生み出すものの、曹操の頃の威勢を振るうことはなかった。
その後、漢は二賊を討伐し再びその栄光を取り戻した。
曹植 統率74 智謀82 政治75 魅力69 教養99
277 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2005/03/22(火) 18:55:49
関羽(161?〜230?)
蜀漢初代皇帝劉備の義弟。劉備入蜀後は荊州の支配を一任される。
隣国呉とは友好国でありながら隙あらば荊州を乗っ取らんと様々な調略を受け、
関羽自身憤りを感じ、呉王孫権を犬畜生と認識。
しかし、諸葛亮に言い渡された戒め「北は曹操を防ぎ、東は孫権と和す」を守り、
蜀と呉の関係が冷め始めた頃に持ち出された関羽の娘と孫権の息子との縁談話を承諾し、
蜀・呉の衝突を防ぐ。改めて蜀と呉が共同で魏に当たることを誓い、
劉備は長安から中原、孫権は徐州から中原を攻略することを約し、中間の関羽は襄陽・洛陽を突き、
3方からの進軍に魏はじりじりと後退し、222年、洛陽・許昌など中央の主要都市陥落。
翌年には、北方の拠点業も陥落し、事実上の魏滅亡。その後数年で蜀・呉が魏の旧領を支配下に収める。
以後、関羽は2国の関係を取り持ち、
蜀政権により魏旧領の治安が落ち着いた頃寿命死。
関羽の死後20年ほどして、呉では関羽の娘が生んだ太子が呉国を相続し、
関羽の血筋の者によって荊州・揚州・徐州・青州・台湾にわたる広大な地域が支配されることになる。
329 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2005/05/05(木) 20:40:40
関羽(161〜230?)
劉備・張飛とともに義兄弟の契りを結び、
劉備の下で活躍するが200年、曹操による徐州侵攻に降る。
「寿亭候」「偏将軍」の称号を受けるなど厚遇される。
曹操と遠紹の争い「白馬の戦い」では遠紹方の顔良・文醜を討つが
文醜と相対した際、旧主劉備が第2陣の大将としてやって来てることを知らせようとした文醜を
「問答無用!」と斬り殺した。
これは曹操配下として鞍替えした関羽の武力ではなく陰湿な悪謀による勝利である。
その後、劉備の陣を強襲し敗走せしめ、怒った遠紹により劉備は討たれる。
汝南に潜伏してた張飛に対しては城外に誘い出し、合力として駆けつけた祭陽とともに討ち取る。
さらに手もとに質として置いていた劉備の妻を自身の妻に。
曹操配下徐州の太守、呉との争いでは荊州方面の総大将とされ優遇。
功績から死後、関帝廟なるものをあちこちに建て祀られるが
いつの頃からか、功績については忘れ去られ、裏切り者・不義者を晒すための廟と化す。
政治70 戦闘95 采配80 知力85 魅力30
288 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2005/03/30(水) 15:30:23
趙雲(生年不詳〜200)
字は子龍。常山郡真定県の人。
公孫サンに仕え、界橋の戦いでは文醜と互角に渡り合う。
敗色濃い公孫サンの元で忠義を尽くすが、味方の退却を助けて趙雲軍が危機に陥ったとき
城門を閉められてしまう。その時は背水の陣ともいうべき活躍で退けたが、
公孫サンの「100の兵を助ける為に1000の兵を危険に晒す訳には行かない」との言に怒り野に下る。
公孫サン滅亡後も郷里に戻っていたが、界橋の戦い以後も何度も槍を交えその力量を
高く評価してた文醜の推挙もあり袁紹に仕え重用される。
白馬・延津で顔良・文醜が討たれると、袁紹配下の将軍として全体をまとめる立場に抜擢される。
しかし烏巣の兵糧庫が焼かれ撤退が確実となると責務を一身に負い
単騎で官渡の曹操の本陣に斬りこむ。
せめて盟友文醜の仇を討とうと奮闘し徐晃・張遼・楽進・夏侯淵を退けるが
関羽の前に討たれその生涯を閉じる。
後世の史家は「子龍これ一身義なり」と伝える
289 名前:無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2005/03/31(木) 14:43:39
范操(162?-220)
字は孟徳。
楚王朝成立の功臣であった相国・范増の子孫を称する。
当時宦官による腐敗政治で斜陽の運命を辿っていた後楚の十四代皇帝・項協を擁立し、
後楚の実権を掌握すると共に勢力圏を広げる。
涼州の項備(前楚の淮南王、項勝の子孫を称する)と燕の鐘離権(鐘離昧の子孫)と
中華の覇者を競い、生涯戦場に赴いていた。
自信は相国と九賜授与・斉公・斉王を位を進め、220年に没する。
その後、嫡子・范丕は楚皇帝・項協から禅譲を受け皇帝に即位し、「斉」を建国する。
その数ヵ月後、涼の項備は楚の皇帝を自称し「涼楚」を建国した。
318 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2005/04/17(日) 17:21:32
真田幸村 (1567〜1615?)
戦国大名真田昌幸の次男。本名は信繁。
関ヶ原の合戦の際、父と共に徳川秀忠軍を釘付けにするも、西軍が敗れた為に九度山に流される。
1614年、大阪城の豊臣秀頼の要請を受け入城。
大阪冬の陣では大阪城弱点とされる南側に出丸を築き、徳川軍に大損害を与えた。
夏の陣では敵本陣を目指して突撃し、一時は家康を脅かすほど奮戦したが適わず
討ち取られたというのが通説だった。
しかし2005年2月13日、鹿児島県の農家が山中に潜んでいる幸村さんを偶然発見した。
警察の調べによると、徳川家の打倒を目指して山中に潜伏していて、
徳川幕府の崩壊にも気づかなかったという。
2005年2月18日、彼は故郷の上田に415年ぶりに帰郷した。