孔明は無能なんじゃなかろうか? 適当にまとめ
引用元スレッド
まぁ、天才では無いわな、結局勝てなかった以上は。
1 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2008/11/03(月) 22:43:47
最近そう思うようになってきた。
2 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2008/11/03(月) 22:44:40
具体的ににはまあカンウを孤立させすぎた事とか
バショクの件とかあまりにも浅はか。
3 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2008/11/03(月) 22:50:38
馬謖の一見は弁護できないが、それと結局は魏に勝てなかったこと以外、
諸葛亮は失敗らしい失敗をしたことがない。
関羽? 当時諸葛亮は成都で後方を支えてたよ。
責任を問う相手は漢中にいた劉備とその軍師格だった法正だ。
5 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2008/11/03(月) 22:54:33
>>3
失敗らしい失敗をしなかったってのがダメ。
蜀は大成功しなきゃいけなかったんだよ。
負けそうになったらすぐ撤退。こんなんじゃ勝てないよ。
ギエンの策とって攻めるべきだった。
後、孔明って実権握る前はやたら後方支援で安全な所にいたよね。
蜀攻めはしなかったし漢中もあれホウセイでしょ
だからさ自分は安全な所にいたから実権とってからも
危険なことができずにすぐ撤退してたんだよ。
7 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2008/11/03(月) 22:59:31
諸葛亮は蜀攻めで一隊の指揮を執った。
漢中攻めでは益州の軍政を一手に取り仕切る長として
南征して基盤を固めた上で北伐に移った。
ために蜀漢は60年もった。劉氏の親族でもないにも拘らずだ。
並ちょっと上程度の人間が宰相だったら勢力争いで分裂して10年ももたないよ。
法正は一軍の将帥・兼・軍師。建国後は尚書令(皇帝の官房長官的重職だが)。
格は一枚落ちるね。
8 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2008/11/03(月) 23:01:10
>>7
漢中攻めでは益州の軍政を一手に取り仕切る長として兵站を総括した
だな、ごめん
9 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2008/11/03(月) 23:12:34
だからさやっぱ政治家なんでしょ。
兵站とかを管理するのに向いてる。
こう将軍の器ではなかった。危険を冒さず
時間だけすぎてすぐに引き返す。で
「負けませんでした」って言って誤魔化してきたんだよ。
それなら負けたけど勝つ可能性があったキョウイの方が良い
後南西もする必要あったのかな。しかもあれって南西した後も
南はまとまってなかったとかどっかでみたんだが。
14 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2008/11/03(月) 23:27:22
違うよ。
兵站を輸送するというのは、兵士を動かすということだ。
漢代、反乱を鎮圧するのは多くの場合太守や諸郡都尉、
(行政権を持った)刺史の役割だった。
実地の行政能力と軍政能力は高い親和性があると考えられていた。
満寵や訒艾の出世コースを見ればわかる。
「将軍の器」というのはまずそういった統率の能力のことだ。
姜維もその類の人物だった。
諸葛亮や姜維には満寵や訒艾ほどの知略は欠けていたが、
それは幕僚の補佐があれば済むことだ。残念ながらその人材は得られなかったが。
南征は、反乱が放置状態だったから鎮圧に出た。
その後完全に安定したとはいえなかったが、
蛮族の主だった者を人質として成都に置き、
金銀馬牛犀などを朝貢させて軍費に当てたと李恢伝に明記されている。
因みに諸葛亮は軍事畑で出世した人物だ。むしろ文治の官についたことは無い。
大事なことだから二度言うよ。一度も無いんだ。
12 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2008/11/03(月) 23:19:29
ああっとそういえばイリョウ忘れてた。なぜ同行しない。
いけよ孔明。
15 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2008/11/03(月) 23:28:11
>>12
君主と宰相が同時に出兵するなんてありえんよ。
だれが本国を守るんだ。
16 名前:Jominian ◆Henri9gNlM [sage] 投稿日:2008/11/03(月) 23:47:47
立った経緯はどうあれ、諸葛亮無能スレは久々のような気がする。
三戦や中英以外だと、
今でも「諸葛亮は政治家、軍事は大した事ない」って意見はよく見るな。
17 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2008/11/03(月) 23:52:58
副読本とか読んで知識を得ると一度は天才軍師→実は政治家みたいになるな
前提を引っくり返したくなるというか
俺は「反抗期」と呼んでるが
18 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2008/11/03(月) 23:52:59
>>16
「軍事」というのが、
敵と対陣して知略を競ったり武勇を示したりすることだと思ってる人が
結構いるからだろうね。
19 名前:Jominian ◆Henri9gNlM [sage] 投稿日:2008/11/04(火) 00:01:06
>>17
俺は、ネット上に蔓延していた「姜維無能論」を覆そうとして色々考え始めたので、
孔明無能論を唱えるにしても、ちゃんと考えた結果であって欲しいと思う。
同じ主張でも、本にそう書いてあったからってのと、
自分で考えた上での意見とでは全然違うしな。
>>18
武勇はともかく、知略と言う点では史実の諸葛亮も凄いと思ってるけどねぇ、俺は。
特に、陳倉攻囲から武都・陰平を切り取るまでの流れとか、
曹真の攻勢から、魏延らを羌中に派遣しつつ祁山に出る辺りの流れとかね。
20 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2008/11/04(火) 00:09:46
少なくとも無能ではないな
21 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2008/11/04(火) 00:17:46
>>19
>知略と言う点では史実の諸葛亮も凄いと
いや、それはわかる。
曹真や司馬懿が東方に駐屯していたこともあって、
諸葛亮はかなりの自由な選択肢と一定の数的優勢を以って魏と対戦し、
戦果も挙げた。
諸葛亮の軍略の最大の欠点は、自軍の優勢が時限的なものだと承知しつつも、
その時間内に危険に踏み込むことをせずに、
陣を構築したり安全に拠点を確保するのを優先してしまう性分にあったと思う。
4,5次北伐の際にそこに踏み込めたのが司馬懿で、
そのために後から押っ取り刀で駆けつけて来る
魏軍に対して優勢を確保しきれないまま長期戦に持ち込まれたり、
兵糧が尽きて撤退せざるを得なかった。
22 名前:Jominian ◆Henri9gNlM [sage] 投稿日:2008/11/04(火) 00:37:41
>>21
諸葛亮が堅固な陣地を構築したのは第四次と第五次だね。
第五次はともかく、第四次はおしかったと思う。
第四次、第五次ともに、恐らくはある程度の長期戦を想定してたと思うよ。
第四次では西県に強固な砦を築き、そこで司馬懿を迎え撃つ形を取ったけど、
これ自体は当初の予定通りで、問題はその前の段階、渭水の麦を刈り取る所だね。
これは推測だけど、
諸葛亮は祁山から上邽までの麦を刈り取る事で魏軍の物資を欠乏させ、
西県の砦への攻撃を強いると共に、
物資不足での撤退に持ち込んで追撃を行う算段だったんだと思う。
その試みは半ば成功していて、郭淮が羌族から物資を集めなければ、
関中からの大規模輸送が必要なほど魏軍の物資は欠乏していた。
華陽国志にある、
「敵の後方を断つのが上策、持久するのが中策、引き返すのが下策」
という諸葛亮の李厳への手紙にも、その事が表れてるんじゃないかと思う。
直後に、「時に宣王らの糧もまた尽き」という記述もあるし。
実際、帰還せずに踏ん張ってれば、面白いことになったかもしれん。
23 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2008/11/04(火) 01:09:23
>>22
叩き上げの武人なら、多少兵士を餓えさせても踏ん張ったかもしれないが、
そこで引き上げてしまうのはやはり諸葛亮の軍政家らしいところだろうか。
魏延はそういう部分が歯痒かったのだろうね。
五次は完全に秦嶺の北側に兵站地を築いてじっくり攻めあがる計画だったけれど、
急進してきた司馬懿が躊躇い無く渭水を渡ったため、
その年の渭南の収穫を半分持っていかれたということだと思う。
それでも長期戦の用意は出来たし、
蜀漢こぞった大軍が漢中-五丈原に集中していたということなので、
歳を越せれば諸葛亮と司馬懿の直接会戦が実現した
(兵力的に劣勢は司馬懿だろう)のだろうが…。
25 名前:Jominian ◆Henri9gNlM 投稿日:2008/11/04(火) 01:25:20
>>23
それが諸葛亮の限界と言えばそれまでなのかもしれないが、
自分で下策と言ってる策を実行してしまう辺り、と言うより、
前線にいながら、後方の李厳の意見を仰ぐってのが歯痒い。
南側から麦積山の方に迂回して、
段谷方面に別働隊を出すとかってできなかったんだろうか?
祁山を包囲しつつ西(鹵)城の陣地を守備しなければならなかったから、
予備が不足していた可能性もあるけど。
26 名前:Jominian ◆Henri9gNlM [] 投稿日:2008/11/04(火) 01:32:32
五丈原は、長引けば長引くほど蜀が不利だったと思うんだよね。
魏としては斜谷の出口で蓋をした形だから、
豊かな三輔の物資を余す事無く使える。
諸葛亮の関中侵入を予見して、灌漑も実施済みだったし。
また、隴右にも蜀軍がいないので、
冀州から上邽に屯田兵を送った成果が挙がっていれば、
渭水を使って輸送できるしね。
仮に年が明けて235年になったとしても、魏が攻撃に踏み切ったかどうか。
諸葛亮が博打要素を嫌って、所謂「負けない」戦いを前提に、 損害を避けていたのは兵力温存主義だとの誹りは致し方無いだろうが、 大敗すると国力差からくる建て直し速度の差によって、 次のチャンスが回って来ない可能性をこそ忌避した長々期的展望…… ……とまぁ、好意的解釈は可能だと思う。 何せ、敵の敵としての呉であったり、何かと不穏な異民族であったりと、 魏にとっての不安要素は無くは無かったといえども、 それらを加味した上でも蜀の国力は魏に比して脆弱であり、 その基盤を失う事こそ政治的にも純軍事的にも嫌ったのだろうと考えうる。 つか、つくづく呉が気張ってくれればなぁ。 やはり荊州閥には悪いが、益州入りの段階で呉への荊州の切り売りしてでも、 東の盾として頑張ってもらった方が良かったかもしれん。 ……いやまぁ、あそこで下手に出るのは内部政治的にはアウト過ぎるか。
28 名前:歴代・益州政権の特徴 投稿日:2008/11/04(火) 08:14:16
滅亡の原因は基本的に外部勢力の侵入であり内部抗争で崩壊することはない。
体制の寿命は最大40年程度。これが限界らしい。
群雄割拠の最終段階まで生き延びていることも多い。
益州から出て成功したのは高祖くらい。また蜀漢みたいな攻撃的な政権も稀
漢民族ではない政権もあるが漢化している。また宗教色の濃い政権もある。
29 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2008/11/04(火) 08:20:07
なぜ歴史に名を残した無能が歴史に名を残さない無能にこんなこと言われてるのか
31 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2008/11/04(火) 09:28:38
なんかね。実は有能なのを使ってこなかったと思うんだよね。
孔明って自分が実権握る為に有能なのは排除してたと思う。
32 名前:あ 投稿日:2008/11/04(火) 10:22:59
んなわけねーだろ。
33 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2008/11/04(火) 10:53:13
>>32
ホウトウとかホウセイとかバショクとか怪しくない?
後イリョウって負けるのが解かってて反諸葛亮のメンバーを
総動員させた気がする。
34 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2008/11/04(火) 11:15:31
政治的に邪魔になりそうなのは消してるな
35 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2008/11/04(火) 11:36:21
孔明好きの人はしらんだろうけどなんかね孔明の話でさ
劉備が蜀攻めが成功してホウセイが蜀にいた時に
自分を冷遇した人らを処刑したんだって。
で劉備がちょっと問題だな。と思って孔明に相談したんだけど
孔明は「ホウセイの才能が手に入るなら安いもんだ。やらせときなさい」
って言ってホウセイをそのままにしてた
ってのがあるんだよ。俺はコレが孔明の本質だと思ってるんだけど
これってようは孔明は邪魔者は処刑しても言いと考えてるわけで
自分に邪魔なのは本当に排除してたと思う。
なんか公明正大で信賞必罰とか言ってるけど怪しいもんだよ。
バショク処刑して自分謹慎っておかしない。
36 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2008/11/04(火) 11:49:45
司馬懿ならまったく問題にならないようなことも
諸葛亮がやったとなると大問題なのだな。
37 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2008/11/04(火) 11:58:20
>>35
孔明好きならそれくらいの逸話は知ってるだろ。
38 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2008/11/04(火) 12:02:57
>>35
ちゃんと読んだ?
「才能が手に入るから安いもんだ」じゃなくて
「止めたいんだけど法正の功績が大き過ぎて口出しできない」だよ
39 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2008/11/04(火) 12:12:58
そもそも法正を重用したのは劉備だよ
信賞必罰には反していても
蜀入りに関する法正の功績・彼の才能・そして何より劉備からの信頼
これだけのものがあれば諸葛亮が口出しできる状況ではない
法正の存命中における諸葛亮の権限なんてそんなもんだ
少しは調べてから話を振ってくれよ
40 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2008/11/04(火) 13:45:17
>>39
劉備に文句いえなくてもホウセイには言えるでしょ。
孔子から引用して人の正しいあり方教えてあげるべきだろ。
55 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2008/11/04(火) 14:38:28
>>40
諸葛亮は法正の家庭教師ではありません。
そもそもそんなことは諸葛亮に課せられる作業ではないと思いますが。
43 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2008/11/04(火) 14:01:34
つか劉備が孔明とウマの合わないタイプの法正を使ってたのは
牽制の意味もあったかも知れんなあ
孔明は結構自己主張の強いタイプだから、
あんまり孔明を重く置くと劉備的にはやりにくい場面もあったんだろう
45 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2008/11/04(火) 14:07:50
>>43
そこなんだよな
有能無能で単純な足し算的に人材が使えるのなら誰でも名宰相になれる
44 名前:1 投稿日:2008/11/04(火) 14:05:39
ていうか劉備はどれくらい孔明を信用してたのかね?
蜀取りにはホウトウ連れて行くし、ホウセイのほうが信用されてたんでしょ?
イリョウでは孔明のいう事聞かなかったし。
思うんだけど、
劉備が遺言で孔明に全てを託すって言ったのも嘘なんじゃないかな。
確か蜀って歴史書ないんだよね。それも孔明の指示で
都合の悪い過去を隠すために消したと考えれば辻褄があう。
47 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2008/11/04(火) 14:15:48
>>44
蜀取り時は後詰の将軍として
張飛、趙雲らと同様に一軍を率いる大将として扱われてる
留守役の関羽、後詰の張飛、趙雲の次に
「一軍の将」として信頼されていたということになる
あと夷陵戦時に諸葛亮は政治的な立ち位置を明確にしてない
「法正が生きていればこんなことにはならなかったのに」
これを「劉備を諌められたのに」と受けるか
「劉備を勝たせることができたのに」と受けるかは解釈の分かれるところ
少なくとも丞相として皇帝の命令に対して異を唱えなかった
蜀で史官が廃止された時期は確かにあるのだが
都合の悪い過去を隠す為とは言い切れない
同時期、他の
「とりあえず戦争したり政治したりするために必要なもの」
以外諸葛亮は切りまくってるから
何でも陰謀論に走るのは頭の悪さを疑われてもしょうがないよ
49 名前:1 投稿日:2008/11/04(火) 14:19:07
>>47
政治するためには歴史書は必要だと思うんだが
過去になにがあったか学ばないと政策なんて作れないだろ。
50 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2008/11/04(火) 14:21:38
>>49
そりゃ思い込みだ
正史を作る理由なんて宣伝以外にゃほとんどない
過去の記録は個別の収入や支出を見てきゃ分かるもんだし
総括した歴史書なんてのは余力のある国にしか出来んよ
41 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2008/11/04(火) 13:48:02
>>1は無能という言葉の意味すら理解できていない方に1億ペリカ
42 名前:1 投稿日:2008/11/04(火) 14:01:24
なんかな、スレタイはインパクトつけるためにあえて無能ってつけたんだが
じゃあ言い直すよ
孔明は中の下の凡人だったんじゃなかろうか?
政治に関してはあれ全部曹操の物まねなんでしょ?
曹操のところに居たジュンイクとかの方が政治能力あったんじゃないの?
45 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2008/11/04(火) 14:07:50
>>42
まあ三公じゃなく丞相制にもどして
中央に権力を集めるって方法は曹操のパクリだが
46 名前:1 投稿日:2008/11/04(火) 14:15:21
>>45
あと屯田兵とかもでしょ。
48 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2008/11/04(火) 14:16:24
>>46
屯田自体、曹操が後漢からパクってんじゃん
51 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2008/11/04(火) 14:23:49
>>48
曹操の導入したんは流民を使う「民屯」のほう
52 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2008/11/04(火) 14:30:30
>>51
屯田という限定があるんだから別段曹操の独創とは言わないだろ
というか政治に独創なんて代物はねえ
基本的に何でも過去の政策を焼き直して発展させたもんだ
56 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2008/11/04(火) 14:38:33
>>52
だれもそこまで話は飛躍させてないんだが
曹操が行った政治改革の中で諸葛亮も行った政治体系?の話じゃねーの?
57 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2008/11/04(火) 14:40:45
>>56
だから基本的には後漢の政治から曹操もパクってるわけで
「曹操のパクりじゃん」という批評は間違ってるってことよ
お前の言うように
「両者に共通した政治手法」ってな話だったらそりゃいいんだが
>>45>>46みたいな物言いは違うだろ
54 名前:1 投稿日:2008/11/04(火) 14:37:51
じゃあ求賢令は?
孔明は人格を優先するあまり人材がなくなった
って話を聞いたけど。
58 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2008/11/04(火) 14:42:21
>>54
求賢令なんてそれこそ春秋戦国の世から常にあるだろ
諸葛亮が人格を優先したという話は聞かないな
むしろ使える奴は楊儀でも使うという実例がある
62 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2008/11/04(火) 14:46:12
>>57
ていうかパクり疑惑はともかく、
曹操ンとこでやりはじめた制度を他の所でも真似したってのはあったよ。
先に出た民屯や丞相制も同時代でやり始めたのは確か曹操が最初だし、
あと求賢令繋がりだが
曹操とは時代がずれるが九品なんかは魏がやり始めたら呉蜀も真似した。
64 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2008/11/04(火) 14:50:11
>>62
丞相制も漢代に前例があるから
単純に曹操が一番乗りで朝廷を保持して
形式を整え、かつ実力を蓄えたので
同時代でやり始めたという評価になってるだけ
劉備も孫権もそんな政治的なことやる前に
その日その日を生きるので精一杯だった勢力なわけで
67 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2008/11/04(火) 14:58:47
>>64
だから丞相制に「もどした」といってるじゃないか。
同時代に三公制だったのを
中央集権化のために制度を変えたんだからこれは「改革」といえるよ。
こっちの方が自分の子飼いを好きなところに付けられて良いしね
諸葛亮がしたのが曹操の影響だったのか、
それとも独自的に考え付いた方法なのかは知らん
ただ同時代にこの手法をとったのは曹操が最初。
68 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2008/11/04(火) 14:59:48
>>67
董卓のほうが先だ馬鹿
70 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2008/11/04(火) 15:02:59
>>68
董卓は丞相じゃねーべよ
自分が実権を握るって点では共通してるが厳密には違う
71 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2008/11/04(火) 15:06:22
>>68
董卓は丞相よりも強大な権力を持つ相国です
あとこういう場で相手を貶すような言葉は使わないほうがいいですよ?
59 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2008/11/04(火) 14:42:23
>>52
先進的な制度の導入や制度の作り変えは
普通「政治改革」と表されるもんだが。
別にだれもそこまで曹操を意識してないよね。
曹操の独創なんて言ったのキミが初めてだし
60 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2008/11/04(火) 14:44:49
>>59
>>48で曹操も後漢のパクリだねと言うと>>51で反論されるわけだ
「曹操のは違う」と
「曹操の独創」と言葉にしたのは俺かもしれないが
>>51の意識がそうなっているから「そんなわけねぇ」って言ってるだけ
63 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2008/11/04(火) 14:48:56
>>60
そりゃそうだろw
兵に開墾させる従来の「屯田」と
流民を使って開墾させる
曹操が部下に起草させて導入した「民屯」は別モンだもの
制度的に差があるのに「屯田という概念が〜」なんていう方がおかしい
65 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2008/11/04(火) 14:52:01
>>63
部下に起草させてたわけじゃない
部下が自発的に起草して導入を進言したが最初は退けられてる
何度も強く言ってやっと曹操はその効果に気付いたようで
曹操の命令で考え出されたもんじゃない
66 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2008/11/04(火) 14:54:27
>>63
彼の主張を考えると
「前身の要素は全く考慮せずゼロからひねりだせ」
という事だから…
「改正」でもパクりになるな
でもそれってどうなんだ?
69 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2008/11/04(火) 15:00:56
>>65
どっちにしろ部下の草案を採用し
改正制度を導入して成果を挙げた事には違いない
政治家のトップの役割ってそういうもんだ。
53 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2008/11/04(火) 14:33:18
中の下の凡人を同時代の敵国の人間が褒めるんですね。
そしてそれをすぐ後ろの世代の敵国の史官が正史として記録するんですね。
つまり全ての史書は捏造されたクソという主張ですね、わかります。
78 名前:Jominian ◆Henri9gNlM 投稿日:2008/11/04(火) 20:34:25
諸葛亮の政治が曹操のパクリだって意見はたまに見るけど、
あれの具体的な話聞いた事無いんだよね。
あの意見のネタ元ってなんなんだろうか?
79 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2008/11/04(火) 20:40:47
蜀漢(諸葛亮)の政治制度が曹操のパクリか、というのは
後漢と蜀漢のほんの一部しか見ていない意見で、意味がない。
蜀漢は滅びた後漢を辺境で受け継いだ王朝であり、
外に強大な敵を迎える状態で自分達の正当性を示さねばならなかった。
そのために、少なくともその形式は、積極的に後漢(彼らは中漢と呼んだようだ)
の制度を踏襲しなければならない立場にあったわけだ。
万機を司る丞相。
それより格は落ちるが政軍の全権を握る官としての大将軍。
内朝にて皇帝を補佐し執務を掌握する尚書台、その長の尚書令。
公卿の形式化。
鎮征将軍の成立と地位の向上。
これらは漢代の複雑な歴史の中で育ったものであり、
ゼロから朝廷を作った蜀漢なら、もっと効率的な組織を作ることができたはずだが、
それは現実には不可能だった。「漢」ではなくなってしまうから。
国内は不安定で、外には強力な新王朝がある状況で、
そんな機械的な改革を行うのは自殺行為だ。
故に蜀漢は、後漢官制の形式と名称を維持しつつ、状況に合わせて簡略化し、
外戚や宦官のような後漢の問題を排除し(後者は成功しなかったが)て政府機能を作り上げた。
結局は大将軍−尚書台に軍・政の権限を集中させることで安定する。
そのようにして作った制度に曹操の時代のものが残るのは不思議でもなんでもない。
なぜなら、董卓や曹操が支配した時代も「漢」であり、
劉備は長くその朝廷から官位を受け、孝愍皇帝(献帝)から帝位を受け継いで即位したのだから。
董卓や曹操が悪臣だとしても、その時代のものをすべて否定してしまっては
蜀漢へ至る連続性をも否定してしまうことになる。
80 名前:1 投稿日:2008/11/04(火) 20:40:51
>>78
俺は漫画の蒼天航路の影響だと思うよ。
81 名前:Jominian ◆Henri9gNlM 投稿日:2008/11/04(火) 20:54:39
蜀が後漢の制度を結構踏襲していた、というのは言われるし分かるね。
蜀の場合、宋書百官志とかより、後漢書(続漢書)百官志の方が、
蜀書等の記述から窺える蜀の政治体制と合致してたりするし。
そういや上の方で、屯田が曹操のパクリとかっていう一連のやり取りがあり、
「曹操のは民屯、後漢の軍屯とは違う」って話があるけど、諸葛亮って民屯してたか?
82 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2008/11/04(火) 21:14:15
>>46は五丈原の軍屯のことじゃないかな。屯田兵と言ってるし。
つまり諸葛亮は曹操のじゃなくて後漢のパク(ry
ていうか、民屯は曹操が初めてだったのか。
そりゃ韓浩の政治がkoeiゲーでやたら高くもなるはずだな。
83 名前:Jominian ◆Henri9gNlM 投稿日:2008/11/04(火) 21:21:23
>>82
まぁ、そうだと思うんだけど、諸葛亮の屯田の話で、
曹操の民屯が云々って話になるのが分からん。
読んだ限りは、相手の意図を読み違えたようだけど。
諸葛亮をどう批判しようと、「諸葛亮は凄い」という意見なら、
史書からいくらでもひねり出せるからなぁ。
両派がどこで折り合いをつけるかって事かな。
85 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2008/11/04(火) 21:25:16
>>83
陳寿と裴松之自身が諸葛亮の信奉者だからね。
裴松之注三国志から凡庸な諸葛亮像を導き出すのは殆ど無理難題だ。
88 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2008/11/04(火) 21:51:15
>>83
レスをみる限りではそいつらは
「曹操は後漢のパクリ」といわれた事に関して反論しただけだと思う
孔明のパクリ云々には特に言及してないし
>>67などは「孔明がパクッたかはわからない」と言ってるしな
84 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2008/11/04(火) 21:23:23
>>47
孔明が張飛・趙雲に同行したのは伝にあるが、
孔明に兵権ってあったの?
86 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2008/11/04(火) 21:28:43
>>84
当時諸葛亮は、軍師中郎将・使督零陵桂陽長沙三郡。
官に使われる「督」の字は、その地の軍事警察権を示す。
入蜀では張飛、趙雲と分担して諸県を平定したとある。
兵権がなかったら何が出来る?
87 名前:Jominian ◆Henri9gNlM 投稿日:2008/11/04(火) 21:38:17
益州攻略での諸葛亮に関する記述は、
・諸葛亮、張飛、趙雲らは兵を率いて長江を遡り…(先主伝)
・諸葛亮と張飛、趙雲らは軍勢を率いて長江を遡り…(諸葛亮伝)
・張飛と諸葛亮らは長江を遡り…(張飛伝)
・諸葛亮は趙雲と張飛らを率いて…(趙雲伝)
となっており、同格以上で扱われている。
また、三国志では張飛が破った事になっている張裔だが、
華陽国志では、
諸葛亮と張飛はテン江で分かれ、
諸葛亮は西に出て張裔を破って徳陽を平定し、
張飛は北に出て巴西功曹龔褜を破って巴西を平定している。
つまり、少なくともテン江から成都までは諸葛亮が単独で軍を動かしており、
単に同行したわけではないという事だね。
89 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2008/11/04(火) 21:57:17
>>84
それ官職じゃないし。
やったのは租税の徴収でしょ。
>>85
七縱七禽の記述ある華陽国志だし、
ある程度は割り引いて考える必要はあるね。
90 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2008/11/04(火) 22:02:52
「三郡を督し、賦税を調して軍費に充てた」が「やったこと」なんだけど。
どんな根拠を以って「三郡を督し」の部分だけ割り引きたがるの?
91 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2008/11/04(火) 22:05:48
「三国志」の各伝の入蜀の記事には諸葛亮と趙雲と張飛の名前が併記されているのに、
なぜ諸葛亮だけ別の役割を持っていたように捉えたがるの?
92 名前:Jominian ◆Henri9gNlM 投稿日:2008/11/04(火) 22:12:27
華陽国志だから、と割り引いて考えるのは勝手だが、
諸葛亮が張裔破ったのではないとすると、張飛は江州から巴西に向って北上し、
その後に南下して資中まで戻ってから紱陽に向かい、
張裔を破って成都に至った事になるわけだが、
兵を分けて郡県を平定したはずの諸葛亮はボーっとしてたって事になるのか?
正直言って不自然すぎる。
張飛が巴西を降してから改めて劉璋が張裔を派遣したのなら、
ただでさえ後手に回っている張裔の派遣が更に遅れる事になるし、
あれは諸葛亮が破ったとする華陽国志のが自然。
96 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2008/11/05(水) 09:52:41
そもそもさ孔明が政治上手ってなってるのはさ
「あんなに戦争したのに国力落とさなかった」
みたいな事がよく言われてるけどそれっておかしくないか?
結局はプラスマイナス0じゃん。なにもしてないのと同じじゃん。
戦争して勝てば+ しなければさらに国力が上がってて+
政治家って結局は結果だろ。孔明はなにもしていない。
97 名前:無名武将@お腹せっぷく[さげ] 投稿日:2008/11/05(水) 10:42:24
いや、涼州の一部を切り取りしてる
99 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2008/11/05(水) 19:31:24
>>96
諸葛亮が托孤を受けた(223年)ときの蜀漢の状況
・一代で皇帝まで昇った強力な君主が建国二年で死去。
・後継は十七歳。
・荊州喪失と夷陵の大敗による将兵の損耗。
・本貫を失った荊州人士他古参臣下と土着の益州豪族の動揺
・特に南部の叛乱。
諸葛亮の事績
・自己の指導下での政府の再編成と集中。
・南征し、独立状態だった四郡の平定。
・北伐し、武都・陰平二郡の領有。
・夷陵に匹敵すると思われる大軍を少なくとも二度動員可能になるまでの国力回復。
・五度の北伐の規模の割には捗々しい成果を挙げられず。
・後事を蒋エンらに託し、政事軍事に特に後顧の憂いを残さず死去(234年)
この間11年と半年。
100 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2008/11/05(水) 20:10:12
>>99
おおこれは解かりやすいね。
・一代で皇帝まで昇った強力な君主が建国二年で死去
これはけど建国まもなくだったから逆にやりやすくなった面もあるよね。
・後継は十七歳。
当時17歳は十分大人だよね。
後
・荊州喪失と夷陵の大敗による将兵の損耗
これあるけどさ
これを二度大軍動員できるまでに回復させたって言うけどどうやって?
在任期間11年でしょ。11年じゃ子供は生まれても兵にはできんし
人をどっから持ってきたの?
101 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2008/11/05(水) 20:26:17
当時「大人」になるのは二十歳。十七歳は未成年。
だが二十歳の若造が国政を仕切れると思うの?
四十でも難しい。俺には無理だね。君には出来る?
諸葛亮はそのとき四十前半だったんだけどさ。
おそらく朝廷に居並ぶ列卿より一回り若いとかそんな世代。
当時中華は、飢饉、戦乱、統治の緩みによって民衆が離散し、
山野に隠れたり豪族が不法に所有したりしていた。
それをどうやって国の戸籍に組み込むかに三国とも苦慮した。
諸葛亮(ら)が文治面で主にやったのは、蜀漢の朝廷の機能を立ち上げること、
その下に法制を敷き民を安定させ、王化に帰し、そこから税を徴し
軍兵を揃えて強力な武器を作り、訓練して統率された軍隊を揃えること。
諸葛亮から姜維の時代に掛けて、蜀は強兵だと司馬懿や訒艾が語り、
事実野戦ではしばしば魏軍を破っている。
他の群雄や諸国もやった常套手段として、北伐で奪取したが永続的に
領有はできない土地から民衆を内地に強制移住させるというものもある。
102 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2008/11/05(水) 20:30:05
>これはけど建国まもなくだったから逆にやりやすくなった面もあるよね。
これは論外。
正統な統治者の名分がないまま国を統治し続けるというのは、
臣下の不満や君主の猜疑を押さえつけるだけの圧倒的な実力と信望を要する。
簒奪したほうがよっぽど楽。
103 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2008/11/05(水) 20:41:28
両漢のように長期間続いた国なら、その伝統が重石になって
権臣の専断も国という器の中の小さな波風と許容されることがある。
国家機構に対する忠誠心と保守姿勢があるから。
二年ではその保守心が生まれようがない。
それでも諸葛亮への権力一極集中を他の廷臣が許容したのは、
諸葛亮自身と能力に大きな信頼が置かれていた以外に解釈するのは難しい。
104 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2008/11/05(水) 20:44:05
軍権と政権を集中させながら
社稷を守り通したのは孔明が今も評価される美徳でしょうな
105 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2008/11/05(水) 21:35:58
>>100
>在任期間11年でしょ。11年じゃ子供は生まれても兵にはできんし
>人をどっから持ってきたの?
10歳の男の子は10年たてば20歳の立派な青年になる。
当然、そういう若年層だけを動員して賄ったわけではないだろうけどな。
107 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2008/11/06(木) 00:16:27
>>100
支配力を伸ばして戸籍の外にいる人を戸籍に組み込んだんだろ
新野時代からの常套手段だよ
109 名前:Jominian ◆Henri9gNlM 投稿日:2008/11/06(木) 00:37:45
諸葛亮が組織した軍と言うと、飛軍と号した、南中の青羌によって組織された部隊や、
涪陵の獽族、蜑族より選抜された三千人の連弩士などがあるな。
110 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2008/11/06(木) 02:55:12
コーエーの本にあったよね。
孔明は主を辺境の偽帝にした…ってね。
たしかに流浪の将軍が領土を持って割拠したのは凄い。
天下三分の計も、それなりに形にはなった。
でも、一部でご都合主義と評価され、歴史的にも中途半端で不完全に終わったところが、
評価が上がりきらない理由だろうね。
その辺は、現実がそうだから仕方ない。残念だ
112 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2008/11/06(木) 19:34:01
>>110
古代、論語に「君君たり、臣臣たる」「賢者は世を辟(避)く」とあるように、
国や君主が相応しくないならば危難を避けても良いというのが倫理の中にあった。
だが、匈奴の進出に追われて東晋が成立すると、
いわば「君君たらずとも臣臣たれ」という倫理観が発展し、
同じ亡命王朝である蜀漢の再評価の機運も起きる。
蜀漢正統論自体は長続きしなかったようだが、
衰亡した漢を受け継ぎあくまで護持した蜀漢、特に諸葛亮は、
臣下の鏡として称揚されて時代は下り、朝廷は廟に祭り、
民衆は講談・民話に語り継いでそのイメージを発展させていった。
それは、明代、三国時代から実に千年の醸成期間を経て、
「三国志演義」として結実する。
というわけで、
歴史的に言うならば、諸葛亮は小国の一宰相という地位に不釣合いなほど
高い知名度と評価を中国史の中で得て、現代に至る(周知のことだね)。
諸葛亮の歴史的な「評価が上がりきらない」などという「現実」は無い。
その事跡が「中途半端で不完全に終わった」というのは確かに言える。
その観点から言えば後漢末・三国時代の人物は
中国史の中ではすべて二線級ということになるが。
「辺境の偽帝」が誰の評価か知らないが、
演義ベースを掲げるkoeiがその説を記載するというのは興味深いな。詳細を求める。
114 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2008/11/07(金) 05:18:39
>諸葛亮
三国志演義という歴史小説により異常に持ち上げられたってのが事実だね
確かに正史の観点から見ても偉大な人物ではあるが
演義によって作られた偶像としての諸葛亮に及ぶべきものではない。
高い知名度と評価と言うのは偶像としての諸葛亮に与えられたもの。
115 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2008/11/07(金) 11:48:20
上の方でさ同時期の奴が
「孔明はすごい」って褒め称えたってのがあるけど
具体的に誰なん?
シバイがなくなるときに「あの世で孔明に教えを請いたい」
なんて言ったのは創作でしょ?
116 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2008/11/07(金) 12:17:27
具体的には司馬懿
117 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2008/11/07(金) 12:18:17
>>115
確か、晋書宣帝紀に司馬懿が諸葛亮を
「天下の奇才であった」評したってのがあったはず。
118 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2008/11/07(金) 12:28:56
>>115
117氏の仰るとおりです。
原文で「天下奇才也」。
これ以上の賛辞がありますか?
119 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2008/11/07(金) 12:51:46
徐庶 「諸葛亮は臥龍である」
劉備 「諸葛亮と私は水と魚のような関係だ」
「諸葛亮の才能は曹丕の十倍である」
劉蒅 「諸葛亮は深器だ」
司馬懿「諸葛亮は天下の奇才だ」
諸葛亮伝でパッと思い出せるところだけ抜き出してみた
敵味方から大絶賛です
133 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2008/11/07(金) 22:40:31
>>119
天下の奇才と称したのはたしか事実
でも教えを乞いたいとかいったのはたしか創作
120 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2008/11/07(金) 14:03:59
実際孔明は当時の民衆から支持されていたから、
時が流れて演義でも超人にされた事を忘れてはいけない
121 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2008/11/07(金) 14:25:59
たしか「奇」って今と意味違うんじゃなかったっけ?
奇才ってあんま褒め言葉じゃなかったような。
124 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2008/11/07(金) 14:46:16
>>121
晋書におけるその前後の記述を読んで、
それでもまだ褒め言葉ではないと解釈されたのでしたら仕方ありません。
126 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2008/11/07(金) 19:08:10
蜀軍が引き上げた後の陣地跡を見て、天下の奇才と驚嘆した、とある
ただまあ、晋書だし、創作である可能性は否定できん、が
諸葛亮に勝利しつつも第四次では迎え撃とうとして返り討ち、
撤退した相手を追撃したら伏兵、と意外と痛い目も見せられてる。
あと私的な手紙(黄権の時の)を交わしたりもしてるね
その点から言えば、諸葛亮を賞賛する、という流れに違和感は感じない
少なくとも、晋書が書かれた時代において、評価はされてたって事だろう
ただ>>121の言葉が気になる。文の前後的には賞賛と取れるんだが……
127 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2008/11/07(金) 19:19:35
>>126
>>121がバカってことでok
漢文における「奇」は「レアで優れてる」って意味だから
「天下の奇才」は
「この広い天下全ての中でも数少ない優れた才能の持ち主」という意味になる
128 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2008/11/07(金) 19:31:58
>>127
説明ありがとう
だとすると天下奇才とは賞賛の中でもかなりのもんだな
129 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2008/11/07(金) 21:04:22
けどシバイと戦ったから孔明は持ち上げられて
書かれてるって説あったよね?
孔明を無能にするとそれと引き分けたシバイまで無能になるから。
シバイの子孫の晋の歴史書ではダメになってしまう。
130 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2008/11/07(金) 21:08:02
説があるだけでそれが真実になるのか?
ならないだろ
136 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2008/11/08(土) 00:05:20
>>129
で、あるならば、司馬懿が有能であるなら、
それと渡り合った諸葛亮が有能であるのもまた必然となるわけだ。
一方が無能なら決着付いてるはずだからね。
137 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2008/11/08(土) 00:09:20
いや、諸葛亮が死んでも30年近く持ってた事を考えたら
それはもう個人の資質云々だけでは片付けられない
132 名前:Jominian ◆Henri9gNlM 投稿日:2008/11/07(金) 22:12:56
今更なつっこみかもしれんが、
「天下の奇才である」っていう司馬懿の言葉自体は、
諸葛亮伝の本文にあるよ。
晋書は諸葛亮伝から採ったんだと思う。
134 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2008/11/07(金) 23:33:52
天下奇才は正史の伝にあったのか
だとすると信憑性は結構高まるな
あと、饅頭の逸話は『事物紀原』にあるが、
小説に云う、と前置きされてて信憑性は乏しいみたいね
135 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2008/11/07(金) 23:54:29
奇才というのはどーも
関羽の万人敵やら曹操の超世の傑やらと同じ匂いを感じる…
10 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2008/11/03(月) 23:16:20
孔明が無能じゃ、誰が有能なんですか?
11 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2008/11/03(月) 23:18:15
曹操