狂える求道者

0.直感的感情と論理的真理

 人は恐ろしいほど簡単に死ぬ。
 
 心臓を破壊されれば、或いは脳への血液循環を止める又は脳自体を破壊されれば驚くほど容易く人の命は絶たれる。
 即死、とよく耳にするが本当に即刻死に至る。
 尤も、結果と方法が判っていても手段が有るか無いかという話になるが、これもまた世の中には多数存在する。
 ごく一般的に家庭を見渡してみても、包丁等の刃物で刺殺若しくは失血によるショック死を狙える。ビニール紐ならば絞殺が可能。重量のある家具や調度品を使えば撲殺する事も出来るし、家が高層マンションならばその高さ自体を凶器として転落死させる事も出来る。また、搦め手としては酒類を使って急性アルコール中毒死、タバコや殺虫剤を使って薬物中毒を狙う手も存在する。
 ならば、どうして人は他人を殺そうとはしないのか?
 他人に恨みが無い人間など稀有である、人は総じて他人に対して何らかの悪意を抱く。それが一過性のものであれ慢性的なものであれ種類形は様々であるがそれが悪意であると言うことは間違い無く、その一部には殺意へと転化するものも存在するであろうことは想像に難くない。だが、現実を見渡せばこの現代日本において殺人事件等という大層な代物はそうそう見当たるものでもない。
 
 だが、人はその大勢において生そのものを肯定する。それが己のものでも他者のものでも。
 『生命賛歌』
 それが人の直感的な道徳観であり、その存在がある故に人は地球と言う惑星全体を覆いつくさんばかりにその勢力範囲を拡大し、それでも尚飽き足らず今も尚その生存権拡大と生存条件の向上に努め、苦しみ、嘆く。
 何故、気付かないのだろうか。人が人の生を肯定し人が増えることを奨励し続けている限り、その苦しみが続くと言うことに。
 否、直感的にやはり人は気付いている。この道徳は有限和を真理とする物理法則が存在する以上完全に達成する事は不可能である、と。この世がゼロサムゲームで成り立っている以上は何かを振り落とさなければ世界と言うゲーム盤自体が崩壊してしまうという事を。
 そう、人は直感的に生命賛歌を謳いながらも同時に弱肉強食を称える矛盾をその中に抱え込んでいる。否、その矛盾すらも気付いている。
 理性を持ち感情を制御しながら、感情を以て理性を制する。
 合理的に行動する手段を以て他の生命を圧倒する繁栄を手にしながら非合理的な行動を行ない自らをレミングの行進へと誘う、知性と偽善に満ちた愚者の集団。人は所詮その行動を参照する限りたかだか鼠とそう変わらない。
 
 だが、私はそれを否定する。人は経験と知識を積み重ねて生きる事の出来る生物である。そして、それらを以て論理演繹することによりこれから起きる事に対処出来る生物である。過去と同じ失敗の回避を、過去の成功の再現を努力する事が可能な生物である。
 ならば、私はそれを行なおうではないか。
 過去、人口の爆発によって幾度も都市や国家が危機に面した。そしてその滅亡を回避する為に人は二つの選択をいつも行なってきた。一つは生存圏の拡大。もう一つは人口の削減。この二つの選択肢を同時に満たす事の出来る戦争は人にとって特に魅力的な手段だったのが覗える。
 まぁ尤も、ただの一私人に過ぎない私にとって国家やそれに類する集団を動かして闘争を行なうような事は出来はしない。いや、出来るのかもしれないがそこまでして努力する必要を感じない。ただ私は自分の周りを少しでいいから過ごしやすくしたいだけなのだから。
 
 だから、私が行なうことは唯一つ。

1.発端

 誰もが一度は思うだろう。自分の周りが不快に満ちていると。
 それは無意識のうちかもしれない、逆にはっきりと意識しているかもしれない。
 世界は故意にせよ過失にせよ悪意に満ちている、と。
 まぁ、それは当然と言えるかもしれない。人は何かを犠牲にしなければ何も得る事は出来ない。
 利己的な人間ならば他者を、利他的な人間ならば自己を犠牲にして代わりに何かを得ている。
 無論、犠牲は人間同士に限らず動植物や鉱山資源に化石資源、水・空気・太陽。更には空間や時間を言ったものをも犠牲にしてその対価として人は自ら欲するものを成果として得ている。
 それは人によっては種類は様々であるが、つまるところ欲求の満足である。
だが、その満足の陰には当然欲求を満たす事を阻まれた人間が少なからずいるわけで、また 逆に自分が欲求を満たすことを阻まれる事もあるわけである。
 万人の万人に対する闘争とはJ・ロックの言葉であるが、コレは確かに人間社会のみならず世界の本質の一端を示している。
 コレを否定する為には彼ら近代の法学者が否定した王権神授説などの絶対的存在から権利が保障された存在を証明しなければならないが、無論神など存在しないし神に変わる絶対的存在など人は想像し得ない。そもそも、近代の学問とは絶対的理論を否定する事によって生まれた代物である以上は絶対である理論とは「絶対・完全なるものが絶対に存在しない」と言う只一点のみである。
 即ち、近代以降に築かれた理論を以てしても人が人から搾取する事は自然の成り行きとなってしまうわけである、無論それは個々人が所属する共同体なり自治体なり国家なりの常識の範囲内に限られはするが。
 
 (要するに幾ら俺の逆鱗に触れているからといって、今横で大声上げて携帯使ってる馬鹿も、回りの顰蹙買うぐらいに馬鹿笑いを上げている向こうの連中も、好き勝手に叫び走り回っている糞餓鬼も、直接どうにかするのは駄目だと、現状に適応するならそうなるだろうな――――糞ったれが!)
 今、彼がいる場所は電車の中。時刻は昼前と言ったところだろうか、日差しがきついのかブラインドを下げている乗客も幾人か見られる。
 窓の外を流れるは郊外の田園風景、空に広がるは何処までも澄み切った蒼穹、手元には一冊の文庫本と缶コーヒー。それだけを書けば絵になる情景である。だが、現実問題今の世の中に於いて公共の場所にてそういった情景がただそのままの姿である事はそう多くない、少ないとまでは言わないが。
 (まぁ、所詮庶民の交通手段だ。少々雑然としているのは認めるし、騒々しいのも了承済みだ――――だけど、それにだって限度ってもんがあるだろうが!)
 今、彼の目に映っているのはその限度を明らかに超えた面々だった。この公共の場所でまるで自分だけがそこに存在しているかのように振舞う、規律の欠落した愚者の群れ。彼だけでなく、周りの他の人間もまた彼らを直接的・間接的に白眼視している。それどころか、彼ら自身互いが互いを嫌悪しあっている節すらある。
 
 「近頃の若い人は」
 「向こうの連中煩くて」
 「自分の事を棚に上げて」
 
 彼らの会話には回りのものが呆れ果てるほど自己の客観視に欠けた、まるで自分に向かって言い放っているのではないかと疑いたくなるような発言が含まれる。尤も、それ以上にどうでもいいような事柄が大量に含有されてはいるが。
 (いや、別に携帯の電源を必ず切れとか電車内は無言にしろとか餓鬼は電車に乗るなとかじゃねぇけど、でもとりあえず回りに迷惑をかけないってのは社会を構成する人としての義務っぽいと思うのだが!)
 携帯を使うならなるべく音を立てずに、話し込むなら小声で、子供連れなら監督を怠らない。その前提さえしっかりすれば、この空間は大多数の人間にとって快適な空間になるはずであり、その環境は彼らにとっても悪いものではないはずである。
 その前提を理解していないのなら話にならないし、前提を理解して自分の現状を正しく把握していないのなら愚かであるし、前提を理解して自分の現状を正しく把握してなおかつそれを逸脱しているのだとすればそれは明らかに悪意ある行為であろう。
 何にせよ、彼らは――――
 
 (俺の敵だ)

2.覚醒

 敵と決まれば、話は早い。ただ只管に、純粋に、冷徹に、残酷に――――殺戮すればいい。一個の存在にとって敵とは、即ち打倒するべき物に他ならない。過去において学者にとって「未知」がそうであり、為政者にとって「政敵」或いは「敵性国家」がそうであり、殉教者にとって「異教徒」がそうであったように。
 打倒し、蹂躙し、略取し、強姦し、殺害する――――目的ないし手段は溢れかえっている。
 
(続く)