【娯楽】幻の国家「モナー朝」【ネタ】@世界史 適当にまとめ その1

模奈亜国見聞録

1 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/10/13 11:45
 あれは今年(高二)の夏休みです。
 僕は世界史の課題を調べに友達と図書館へ行ったのですが、
 そこで不思議な本を見つけたのです。
 本棚の上にひっそりと眠っていたその本は、黴臭くて、紙が黄色く
 変色していました。
 題名は「東土見奇聞」。聞かない書名です。
 解説を見てみると、なんと八世紀の旅行家の著作とあります。
 
 パラパラとページを捲っていたら、
 僕の目はあるところで釘付けになりました。
 『「34話…東方の大国、模奈亜(もなあ)国の話」
  サラセン人の地を離れて北東に百日行程、何者も住まぬ
  砂漠の地を超えてさらに北に六十日行程の道を行くと、そこには
  大都市があり、そこに住む人々は自らを「モナー人」と名乗って
  いる…(中略)…そこに住む人々は、猫のように耳があり、
  みな「オマエモナー」という挨拶を交わしている。これは、
  「あなたはモナー人の資格がある人だ」
  という意味である。…(中略)…この国では祭りが盛んであるが、
  住民は神を崇めている訳でも、偶像崇拝者でもない。
  住民は正直ではあるが、単純であり、騙され易い。
  また「厨房」という言葉が相手に対する最大の
  侮辱とされており、これを口にする者は冷静な傍観者であるか、
  または彼自身が「厨房」であるかのどちらかである…(後略)』
 
2 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/10/13 11:46
 なんていうことだ。
 こんな国家が存在したなんて聞いたことがない。
 歴史界の新たな分野の開拓となりうるかもしれない…。
 
 「おい、起きろよ。おまえ図書館来て寝ただけかよ」
 友達が強く僕の肩を叩きました。
 本がない。
 「本?寝惚けんなよ。おまえは元から何も見てないだろ」
 そんな…そんなまさか。あの質感、記述、夢であった筈がない…。
 
 結局、あの後いくら探しても図書館に「東土見奇聞」はありませんでした。
 しかし、あれは夢ではありません。
 
 と言う訳で、ここの皆さんにご協力をお願いしたく書き込みを致しました。
 いまだ知られざる大国「モナー朝」に関する情報、新たな発見、
 何でもいいですからここに調査結果を発表しましょう。
 皆さまのご協力をお願い申し上げます。
 
4 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/10/13 12:20
 こういうくだらないスレ好き。
 
 モナー朝、あったらいいね。
 
5 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/10/13 12:21
 モナ13世とか。
 
6 名前:1 投稿日:02/10/13 12:34
 >>4さん
 あれからの研究成果によりますと、
 大体4〜5世紀頃、民族大移動でたった一つ東に移動した部族
 「モナー族」が──位置は不明ですが──建国したようです。
 黄金期はモナ五世(在位726〜755)の時代で、
 ほぼ唐の玄宗の治世と同時代です。
 >>5さんの挙げられたモナ十三世は、十世紀中頃に即位し、
 中興の祖とされています。
 他の君主、また衰退・滅亡期についてはまだ謎が多いです。
 皆さまの研究結果が待たれるところです。
 
 
7 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/10/13 12:51
 大変なものがうちの大学の研究室から見つかった!
 実はうちの教授も、密かにこの幻の古代国家・モナー朝について
 研究進めてて、結構資料は豊富に揃ってきてるんだよ。
 
 で、今回見つかった新しい資料によると、これまで謎とされてきた
 モナー朝の滅亡がいつか裏付ける、有力な手がかりが得られたらしい。
 教授が走り回って興奮しまくってたよ。
 
 で、それによるとモナー朝は十三世紀、やはり当時のユーラシアの
 大部分と同じようにモンゴルの襲撃を受け、かろうじて撃退したが、
 これを契機として衰退に向かったらしい。
 その後十五世紀頃には、もうほぼ国内は分裂、事実上崩壊状態だったようだ。
 そして最後の君主、モナ24世(在位1523〜25)の時代にウイグル
 進入を受け、滅亡したらしい。
 モナ24世の最期の言葉、
 「侵略者よ、オマエモナー」
 は、あまりにも有名だ。
 
 
10 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/10/13 13:12
 おにぎり三世は、暗殺を恐れるあまり
 毎日、寝る場所を変えていたらしい
 また、王国滅亡の原因は、8頭身に追われた、1さんの
 大移動が発端という説がある
 
 
14 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/10/13 21:09
 >>1
 「猫のように耳があり、・・」
 とありますが、最近の研究では、頭につける飾り
 と考えられています。モナ−朝初期から見られるものですが、
 中国や西アジアの文化の影響を受けてからも一部の女性、男性に根強く
 支持されたようです。モナ−朝後期には、「メイド服」と呼ばれる
 ヨーロッパの影響を強く受けた衣装も作られていたようです。
 モナ20世はこれら自国の文化を強く愛し、
 
 「ネコミミとメイドが何より好き!!」
 と叫びながら王宮の周囲を3周し、ビザンチンからの使者
 を驚かせた、という記録が残っています。
 
15 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/10/13 21:15
 モナ24世の時代に、ウイグルは弱体化していたとはいえ
 モナー朝を責め滅ぼす力があっただろうか。
 漏れはオスマン帝国に滅ぼされたという説を信じてるが…
 とマジレスしてみるテスト
 
 
20 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/10/14 10:11
 モナー朝では何故か「2」が好まれるらしいな。
 
21 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/10/14 11:40
 モナ五世時代の著述家、モゥ=コネーヨの著書「2ゲット」の中に
 "2は1を支え、3に繋ぐ物。数に於いてこれを最上とす。"との一文があります。
 モナー朝の文化にはどうも数秘術の影響が色濃く見られるようです。
 他にもぞろ目の数や100の倍数が「キリバン」と呼ばれて好まれたとか。
 モナー人たちは何か忌むべき事があったときに
 「2ゲトズサー、ダスレイッテヨシ(我2の力を得て、悪魔を打ち払う)」
 と唱えたという記述も同書に見られますね。
 
22 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/10/14 13:33
 >21
 ピュタゴラス教団の影響じゃないの?
 6で
 >大体4〜5世紀頃、民族大移動でたった一つ東に移動した部族
 てあるから、民族移動期のモナー族はクリミア半島あたりにいたゴート系の
 小部族とクリミアギリシア人との混成部族だった可能性がある。
 キリスト教化されていたギリシア人の中に、ひそかにピュタゴラス教団の教えを守っていた
 マイノリティがいて、迫害を逃れるために東遷に合流したとか。
 
24 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/10/14 14:04
 >>22
 ああ、そうかもしれません。
 モナー族の葬礼儀式では、中央アジアゾロアスター教にみられる納骨器(オツ
 アスリ)が用いられていたようなのですが、ピュタゴラス教団の影響があったなら
 ゾロアスター教の儀式も取りいれやすかったことでしょう。
 納骨器は"壺"と呼ばれ、"トプページ(家の門)"に飾ることによって先祖を祀って
 いたようです。
 
 ところでどなたかモナー族の宗教について詳しい資料をお持ちの方はいませんか?
 独自の宗教を持っていたようですが。
 
25 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/10/14 14:24
 >22
 しかしその説ではモナー語がどんな言語系統とも隔絶した
 孤立語であることが説明できない。
 語彙面ではギリシア語の影響が見られるが文法や数詞からみて印欧語とは
 完全に別物だというのが現在の言語学会の通説のはず。
 
 なので、別に原モナー人がいてそれがギリシア系を吸収し
 現在のモナー民族になったと考える方が自然。
 
27 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/10/14 14:31
 >24
 13世紀に東方正教を受容するまでギコハニャーンと呼ばれる猫
 をモチーフにした動物神を最高神として崇めていたようです。
 
28 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/10/14 14:48
  ∧ 
  )(
  ‖ γ .⌒ヽ
  ‖ | ̄~~匚|
  ‖(´∀`凵
  ⊂彳¥ ノミ
  ‖/__iii_∪
  ‖(Y_(Y__)
 
 サマルカンド壁画に描かれたモナー
 (12世紀中葉)
 
 ・・・職人さん降臨キボン。
 
 
31 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/10/14 18:08
 >27
 モナー朝の宗教は複雑で、ゾロアスター教と妖精信仰が混交したもののようです。
 ギコ=ハニャーンは別名「光の猫」といい、アフラ=マズダの表象として信仰を
 集めたようです。悪神モララーリマンは偽善的な行動で人々を堕落させようとし
 ますので、「嘘は嘘で見抜ける人でないと、モナーびととしてあるのは難しい」
 という成句が戒めの言葉として残っています。
 ギコ=ハニャーンに仕える大神官の権限は非常に大きく、モナー族入部以前から
 の支配層の子孫と思われる「管理する者」ヒーロユーキ家が代々世襲していまし
 た。アフリカ西部に見られる二重王権に似た構造がモナー13世の大改革まで
 続きます。
 
33 名前:棄教者 ◆egKIKYO7cg 投稿日:02/10/14 19:06
 >>31
 モナー歴610年に
 「モナーの他に神はいない。ヒーロユーキはその預言者である」
 とする新興宗教が起こったらしいですよ。
 
 
35 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/10/14 19:26
 モナー文化の詩はかなり独特だそうですね。
 普通、左から右に、上から下に向かって記述するそうですが、
 詩では各行の文頭の文字を縦に読むこともできるとか。
 
36 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/10/14 19:45
 行の最後まで意味を持たせる詩もあったらしい。
 この詩をこなす大家は、グラン・モナリストと呼ばれたと言う説もある。
 
 
38 名前:学生A 投稿日:02/10/14 21:32
 私は某大学の学生です。
 先週のことなのですが、私は教養課程の「中央アジアの民俗Ⅱ」という授業を受けていました。
 丁度ブルガリアの民俗音楽の話題に入ったとき、突然講義をされていた教授が
 
 「『(゚∀゚)アヒャヒャヒャ (゚∀゚)アヒャヒャヒャ 』うるせんだよー」
 
 と叫んで暴れだし、講義資料のOHPの操作をしていた助手に取り押さ
 えられた事件がありました。
 
39 名前:38(つづき) 投稿日:02/10/14 21:33
 その研究室にいる友人が言うには、
 
 教授は、18Cにチベットから清に献上され、
 さらに20C初頭に石原莞爾が溥儀から半ば強制的に譲り受けた
 モナー末期の呪器の研究をしていて、それでおかしくなったそうです。
 
 なんでも、それは一見何の変哲も無いイコン(icon)なのですが、
 それを二回押すと無意味な記号の羅列が、頭の中を強烈な勢い
 で流れて行き何も考えられなくなるそうです。
 
 私としては半信半疑なのですが、皆様どう思いますか?
 
40 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/10/14 22:17
 それはもしや、15世紀モナー正教会の異端ブーラクラ派のイコン・・・?
 信徒は専用の眼鏡「ブーラクラチェカ」を掛けて礼拝したといわれていますね。
 信徒以外の者が裸眼で触ると発狂するように仕掛け、モナー総主教が送り込む
 間諜を見分けたとか。
 
 
41 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/10/14 22:55
 モナー朝は蒙古に滅ぼされた後、最後の王モナ24世の孫、ギコ・ラクシュミー
 カコーログ王女が沿海州に再建した。この王朝は後モナー朝と呼ばれる。
 封禁の地に新王国を作られた、清朝は30万の大軍を以って、攻め落とそうとしたが、
 日本人傭兵隊の活躍もありこれを撃退した。
 以後、19世紀中葉にロシアに征服されるまで王朝は200年の社稷を維持した。
 徳川幕府とは友好関係を維持し、模名国として、10年に一度、国使を派遣した。
 
42 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/10/15 00:35
 モナー朝の経済は他の中央アジア諸国と同じく東西貿易に依るところが大きかったようですが、
 独自の産業も発達していたようです。
 特に無彩色ながら非常に細密な線刻がなされた「アスキアート式陶器」や、非常にカラフル
 に染められた絹糸で織られた「スレ」と呼ばれる織物は特産品としてとりわけ名高かったといいます。
 モナ3世の治世には、「スレノモリ(スレの交易所)」を日に数万人が訪れたとの記録があります。
 しかし時代が下ると、AA式陶器は鋳型を使用した「コピペ品」と呼ばれるものがほとんどとなり、
 またスレも粗悪な絹糸が混ざった「駄スレ」と呼ばれる物が多くなって、次第に市場的価値を
 失っていったといいます。
 
 他にも独自の産業が多くあったようですが、あいにく私の手元の資料で知り得るのはこの程度です。
 詳しい方の補完をお願いしたい次第です。
 
43 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/10/15 01:08
 王国は一時崩壊しかけたようですね。
 その時に一部の国民が一致団結してその時の脅威に立ち向かったとか。
 
44 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/10/15 07:31
 「ユニクス団」という人たちがモナー朝をすくったらしいですね。
 ところでモナー朝黎明期の「ネオム・ギチャ」という人が起こした事件について
 詳しく知っておられる方いますか?
 
46 名前:山野野衾 ◆W7NDQJtGoM 投稿日:02/10/15 17:09
 >43
 でもダスレ・ノイチ中納言などは寵姫の為に狼煙で人を集めて「私の肛門も
 滅亡しそうだ。」と馬鹿過ぎる事を言って民衆の怒りをかいました。
 最後には自分の母・妹・主治医・家臣・寵姫まで加わってアボーン城内で彼
 をメッタ刺しにしたそうです。それ以後馬鹿な事をする領主が出て来ると皆
 この故事を語られたとか。
 諫言といえば、セカイシ州(バンと読む)住民は君主のアホな政策の尻拭い
 が巧い事で知られていました。
 
49 名前:内容が不確実 投稿日:02/10/15 18:52
 >43-46
 ユニクス団は、国土を縦横に走る街道の管理を宮廷及び隊商組合より委
 託された街道維持請負人(古高モナー語でユニーカ:独りで動く者の意)の
 互助組織として9世紀初頭に発生したとされている。構成員の性格上、ヒエ
 ラルキーは緩く友愛的な組織であり、共通のスタイルを持ちつつ管理する
 街道ごとに名称の違うスレ(>>42参照)を見にまとうことで成員の証として
 いた。時代が下ると、隊商の運行経路のマスタープランの作成や宿泊所の
 手配も請負うようになる。また、成員同士のネットワークを図るために発生
 した駅站制度は、後のモンゴルのジャムチ制の確立に大きな影響を与えている。
 
50 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/10/15 18:52
 >>44
 でも、結局それがモナーの歴史(言語)の解明を難しくしているんだよね
 
 モナー中期ころ、あまりにたくさんの言葉が話され、また記録されたので、
 政府機能が麻痺してモナーは滅亡寸前まで行った。
 しかし、ユニクス団が言葉を圧縮してから話したり記録したりする事
 (グ・ジップというらしい)を発明してそれを克服した。
 
 #玄奘三蔵の記録にも出てくるけど
 #話し手は、まず頭の中でモナー語の平文で文章を組み立てて
 #それをグ・ジップで圧縮してから口に出す
 #聞き手は、耳に入ってきたそれを展開して平分に戻してから理解する・・・らしい
 
 そこまではいいんだけど、モナー滅亡とともにその圧縮のアルゴリズム
 (グ・ジップ)が失われたため、今もってその膨大な記録のほとんどが読めない
 
 結局「ネオム・ギチャ」の説話のように、周辺民族の伝承や記録をもとに
 その歴史を類推するほか無いのが現状なんだよね
 
51 名前:なうえに 投稿日:02/10/15 18:52
 1001年8月25日、10世紀以降モナー朝を服属させていたビグローブ朝は、
 モナー朝との国境に位置するカイセン関門を通過する隊商が輻輳し、自国
 の軍勢や糧秣の運搬に支障を来たすことに業を煮やし、使者ヤーキーン・
 アル・ビグロービーを遣わした。ヤーキーンは、脆弱な桟道の安全上1日に
 数十名の通行しか許されないカイセン関門を隊商が通ることを今後全面的
 に禁止する旨の通告を発したが、このことは中継貿易立国であるモナー
 の死命を制する出来事であった。
 7日間後の強制執行の意志を含むこの通告は公開の場で行われたため、
 数時間のうちに宮廷の内外にも知れ渡ることになり、朝野はこの難問をどう
 解決するかに湧き立った。ある者はビグローヴに巨額の貢納を行うことを
 提案したが、もともと税率の低いモナー朝でそれだけの額を準備できる可
 能性は低かった。
 
52 名前:長文スマソ 投稿日:02/10/15 18:53
 いち早くこの情報を掴んだユニクス団は、絶壁に嵌め込まれた木の板が連
 なるカイセン関門の桟道を根本的に改造することを検討し始めた。短時間の
 うちに、唐土より伝来していた火薬を利用して絶壁に横穴を穿ち、これを繋げ
 隧道と為すことが最良の策と判断し、火薬に改良を加えて爆発力を高めると
 ともに駅站制度を活用して全国より団員を集め、昼夜を分かたざる突貫工事
 を開始した。宮廷の助けをほとんど借りず自弁で取り行なったこの工事は僅か
 6日間で終了し、結果関門は実に16倍の通行に耐えられるように変貌した。
 ヤーキーンは一部始終を見届け、隊商通行禁止令の撤回を宣言、「対モナー
 7日間要求」による危機はここに回避された。
 
 ユニクス団の構成員は救国の英雄たちとして称えられ、モナー朝文学を代表
 する叙事詩「ユニーカラ」に謡われたほか、モナー朝独特の紙芝居「フラーシュ」
 の格好の題材として老若男女に長く親しまれた。
 
53 名前:かぶった! 投稿日:02/10/15 18:56
 うわっ!
 
 50さんごめんなさい!49,51-52は続きものです。
 
61 名前:50 投稿日:02/10/15 23:15
 >>53
 こちらこそすみません。(同時に書き込んでしまったようですね・・・)
 
 ・ユニクス団の活躍については49,51-52が定説。
 
 ・ただ、記録が圧縮されていて、解凍方法が未発見なため、
  現在モナー史の大部分は闇の中なことも事実。
  ユニクス団が情報を圧縮してから記録・伝達することを始めた
  という説もある
 
 ということでよろしく
 
62 名前:49 投稿日:02/10/15 23:32
 >50=61
 全く同時同分に書き込んでましたね。いやはや。
 ユニクス団の活躍については、モナー諸語の碑文、チャガタイトルコ語による
 資料やロシアの各種年代記、サハ人の伝承などにばらばらに登場するので、
 なかなか全貌がつかめません。定説というほどのものはないと思いますよ。
 
 モナー朝の情報圧縮技術に関する研究は遅々として進んでいませんが、間接的な
 成果として、モナー語の階級別分化をもたらした原因はこの情報圧縮にあるので
 はないかという見方もあるようですね。
 
 
54 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/10/15 20:08
 ニダー朝からも、徳川幕府へ将軍の代替わりごとに国使を派遣したが、
 使節の待遇は御三家に準じるものであった。
 一方、後モナー朝の国使の礼遇は将軍家世子に準ずる待遇であり、
 将軍自ら箱根の関まで出向くことを慣例としていた。
 特に5代将軍綱善公は、後モナー朝との友好を重視し、
 猫類を保護する「猫類憐れみの礼」を発した。
 この法律により、猫を殺した者は死罪。傷つけた者は遠島と言う厳罰であった。
 さらに、野良猫を保護するために江戸郊外の中野に猫屋敷を作り、野良猫を収容した。
 万民はこれを善政と称え賞賛した。
 
 
55 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/10/15 20:36
 モナー国では「ウマーイボー」というものが主食になっていたと聞いた事が
 あるんですが、これはどのような食べ物だったんですか?
 御存知の方、ご教示下さい。
 
56 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/10/15 21:16
 ウマーイーボーは貴族階級の常食であったが、
 庶民は年1度、ひろゆき祭で国から支給される貴重な食品であった。
 材料は鰹節と小麦粉、それにモナモナの実の粉で作られていた。
 モナモナの実が大変な貴重品で、同じ重さの黄金と同じ価値があったと言う。
 製造も、国家の専売であり、無許可でこれを作ると死罪に処せられた。
 
57 名前:山野野衾 ◆W7NDQJtGoM 投稿日:02/10/15 21:26
 >55,56
 でも第一王朝(半ば伝説的)に製造されたというばかりで
 それ以降実際につくられたという記録が無いんですよね。
 
58 名前:山野野衾 ◆W7NDQJtGoM 投稿日:02/10/15 21:46
 それと1にはああ書いてありますが、実際には信仰対象の四柱の神が存在しました。
 喜のモナー、怒のギコ、哀のシィ、楽のイヨゥ。
 この四神が四季や四大元素を司るとされ、ユングの「四位一体」説のヒントとなりました。
 またシナから追ナが伝わると現地の信仰と習合して
 妖怪「イチサン」を追い払う、というか追い求める鬼神「ハッ・トウ・シン」が
 民間で信仰され行事にもなりました。
 
102 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/10/18 17:40
 >>57 (モナー朝の国教)
 ひろゆきを唯一の裁定神・最高神とする教えが広く信仰されましたが、
 ハンカーク地方では、「エロガゾーうp」と言う奇跡により
 多くの神が出現したとも伝えられています。
 また、史料が多く残されているセカイーシー州(BANと呼ぶ)の隣、
 ミンゾク・シンワ州では、ナナシー全てが「天之御名無主」と
 神号によく似た名称を称していたそうです。
 
103 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/10/18 21:21
 >>102
 多神教なのか
 
 
59 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/10/15 22:46
 
  ,__        /
  ,шii■∧ _     \
   (;=゚ω゚) //     /
    |   つ     \
    |  |       \_
   〜|  |        | :
     ∪∪        (_\
 
 ィョゥ神線刻図
 
 中国の影響を受け、皇帝の姿で描かれている。
 右側部分が欠落しているが、おそらく悪神モララーリマンが対峙しているもの
 と思われる。
 (エイエ=サヴァー碑文、9世紀)
 
 
60 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/10/15 23:09
 ”イタチーガイ”という厳格な身分制度に根ざしたモナモン教に異を唱えたのが
 BC6世紀にチャンネラ族から現れたプッ(覚者)であった。
 時を同じくして北モナー地方にはポカーン(勝者)と尊称された
 マハーゴルァ(大勇)がありポカーン教を創始する。
 初期のプッ教におけるプッ典がチャンネラ語によって記されているのは
 モナモン階級の言葉であるダスレッド語を避けた為だと言われている。
 
 
64 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/10/16 01:49
 モナー美術は、文字や記号と芸術の融合だったとか。
 
68 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/10/16 13:14
 >>42にある”スレ”の製作は、基本的に幾人かの職工が任意に
 絹糸を織り込む作業の繰り返しで行われた。
 
 しかしその作業中、2人の職工が、同時にほぼ同じ種類の
 絹糸を織り込んでしまうことがあった。
 このとき、この2人は、周りの他の職工から「結婚しろ」と
 せっつかれたそうである
 
69 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/10/16 18:17
 >>42において紹介されている”スレ”の製作過程で、一度織り込まれたものと
 同じ絹糸を再び織り込む行為は「ガイシュ・ツウ」と呼ばれ、特に学者や技術者
 の衣服用に織られるスレにおいては最も忌避されるべきものとされた。
 
 なお、この行為への嫌悪は近隣諸国においても同様であるが、他国では一貫して
 「キシュ・ツウ」と呼ばれている。なぜモナー朝においてだけ呼称が異なるのか
 については、モナー諸語の孤立性を勘案しても不自然であり、今後の研究が待た
 れるところである。
 
70 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/10/16 19:02
 モナー語と近隣諸語を比較すると、かなりの語彙が共通することは
 以前から知られていたが、最近の研究から、共通する語彙においては、
 モナー語に特長的な音韻変化が認められることが分かってきた。
 特に顕著なのが、(近隣諸語)○ッ○○ −> ○○ー○(モナー語)
 という変化である。例えば、「安楽な」を意味する「マッタリ」という
 単語は、モナー語においては「マターリ」と発音される。
 この発音の変化と、英語に起こった大母音推移との類似性に注目し、
 その原因を探る研究が、現在言語学者の注目を集めている。
 
71 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/10/16 19:06
 モナー族が使用していた言語は現在使用されてはいないが、
 僅かに残っている記録から見る限りいくつかの特徴が見られる。
 
 ①促音便の発音が長音に変わる。 
 ②文書を書く際、当て字を多用する。
 ③語尾の変化が不規則に起こる。
 
 また、語順からすればアルタイ諸語との相関関係が疑われるが、
 まだ有力な研究成果は挙がっていない。
 
 
74 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/10/16 19:54
 ところでモナー朝の国教はどうだったのでしょう?
 一神教として唯一神ひろゆき」を信仰したという説と
 多神教として最高神「ひろゆき」のほかに
 「夜勤」「マァヴ」などという神が居たという説がありますが。
 
75 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/10/16 20:05
 分家としてアメザー朝があったとか
 
76 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/10/16 21:16
 いや、アメザー朝の武将だったモナー将軍が、
 独立して王朝を立てた、とかいう感じじゃないか。
 
77 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/10/16 22:53
 >>76
 歴史的にはそうなんだろうけど、
 ひろゆきをはじめとする神々がモナーを作ったという伝説もありますね。
 
 --
 ひろゆきは、数ヶ月の引篭りの後、不毛の大地にアメゾという町を見つけた。
 ひろゆきは、アメゾの隣にアメゾとそっくりな町を作った。
 ひろゆきは、そこでは売手も買手も話手も聞手もみなナナシーと名乗れば
 自由に商売ができるようにした(注1)。
 アメゾの住人は、ひろゆきの町へそっくり移住した(注2)。
 
 (注1)モナーンの聖典に言う「石が集まれば玉も集まる」か?
    何れにしろ、現実的には盗品やバッタ物の交易・ガセネタの流布には
    身元を明かさないほうが便利だろう。
 (注2)新興モナーのチュウボウ(特殊部隊?)がアメゾのインフラを破壊
    したので仕方なく移住したとするテクストもある。
 
 
78 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/10/16 22:55
 モナ神話にある
 「我国にあるところのギコ、これを全て宝となす。」
 を皆さんどう解釈しましたか?
 私はギコを国の宝にしようと言ったように思えるんですがこれだと
 
 「皆多いに悲しみて宴を催し、後宝開きてギコ再び2を得んとす」
 と繋がらなくなってしまうんですが…
 
84 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/10/17 10:41
 >>78
 うちとこのセンセイが、
 「“宝”という名前を持つ個人あるいは組織が、国中のギコを
  私物化しようとした」
 という説をとなえたんですが、学会では一笑に付されてましたね
 
 しかしセンセイはこの説にますます自信を深めているようです。

85 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/10/17 11:47
 >>84
 ウチのセンセのいうには、「国の”宝”は栖流宇を何よりも忌避したがる
 傾向を持つので、徹底的に栖流宇してみるのはどうだろうか」という学説を
 発表しようとしている。ちなみにセンセに送られた贈答品には鼈甲飴の香りがしたそうだ。
 
86 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/10/17 11:59
 太加羅、擬古を我が物にせんとす。
 弐の住人、師を率いて太加羅の意を砕く。
 是に拠りて擬古、再び解放されるを得たり。
 「宋史太加羅伝」
 
 この太加羅というのは、今まで朝鮮半島加羅のことだと思われていたけど、
 モナ神話に出てくる宝のことではないか、という説でしたよね。

80 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/10/17 00:05
 ところで、皆さんの博識には驚かされるばかりですが、どのような文献を
 参考になさっているのでしょう?
 私の手元には、ラシードの「集史」とロシアの原初年代記のほか、モナー
 自身の残した資料としては「網の愚者年代記」(「葡萄酒の」ヒーロユーキ著、
 ゲオルギコ・フッサール訳、1897)程度しか揃ってないのですが。
 日本で入手可能な資料についてご教示いただければ幸いです。
 なお、「網の愚者の記録」については、下記URLでご覧になれます。
 
 ttp://www24.big.or.jp/~faru/txt2001.html
 
105 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/10/19 13:28
 >80
 「モナー典」持ってないの?今すぐ古書店へGO!
 ガイシュツを含めると、以下3点は持っといた方がいいよ。
 
 「モナー典」
 モナー典プロジェクト編著、居間野宇智・朴李仁太邦訳 1927
 モナー諸語についての最大の辞典であり、かつモナー文化・宗教・政治・経済体制
 について広範かつ詳細にまとめられている。プロジェクトはゲオルギコ・フッサー
 ルを筆頭に、ウジェーヌ・イョゥネスコ、エルネスト・モナンなど欧州の主要な
 モナー朝研究者・文学者により結成され、当時フライブルク大学に留学中の居間野
 も作業に参加している。
 
 「ユニーカラ集」
 作者不詳、銀田一鄙助訳、1959-64
 モナー朝文学を代表する長編叙事詩。ユニクス団と呼ばれた組織が国難を救う過程
 を描く。現在残っているテクストの大部分がモナー朝独特の技術により圧縮表記
 されており、翻訳されたのは平文の部分のみである。
 >>52
 
 「2ゲット」
 モゥ=コネーヨ著、宇和湾分須子訳、1982
 数秘術を基礎とした神秘思想について述べ、現存するモナー語資料としては最長の
 もの。著者はモナ5世時代の著述家で、大変短気であったとされ、捨て台詞を残し
 て車を引いて去る線刻画が多数残されている。
 >>21
 
 
92 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/10/17 22:45
 酉和 彦(?〜1175)
 
 靺鞨人阿鋤部の長。モナー朝を訪れた彼は、その文化の爛熟・退廃を
 ことのほか憎み、かの国を排除せんと企んだ。
 そのために彼は流浪の身であったアメザー朝の末裔を推戴し、
 モナー朝の西方に「太一国」を建てた。
 しかし太一国の威勢はあまり振るわなかった。
 一説には徴税の過酷が民の流入を阻んだらしい。
 
 
108 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/10/20 10:25
 とりあえず100超えた記念にこのスレと手元の資料を基に年表をまとめて見ました。
 …空白が多いですね。やはりモナー朝はまだまだ謎の国家のようです。
 
 4-5c モナー国建国(諸説あり)
 |
 ?  ネオム・ギチャの乱
 |
 726  モナ五世即位
     モナー朝黄金期=前期モナー文化
     イスラム、唐との貿易(AA陶器、スレ)
     モゥ=コネーヨ「2ゲット」などの文学作品
 755  五世崩御、モナ六世即位
 |
 950  モナ十三世即位
    「次スレの令」:国内スレ産業を保護
    「テン・プレ(国内図)作成」:国内情報伝達体系の確立
    モナー朝中興期
 1000 モナ十三世崩御
    謎の遺言「アスワンハイダム」により国内が乱れる
 1001 「ヤーキーンの最後通告」
     ユニクス団による通商路確保、言語体系グジップの導入?
 |
 1220頃? モンゴルの侵入
      かろうじて撃退?国力は疲弊、滅亡の端緒を開く
 |
 15c  モナ二十世の治世
    メイドスタイルの流行=終期モナー文化
    国内は内乱に明け暮れる状態
 |
 1523 モナ二十四世即位
 1525 ウイグルの侵入、モナー朝滅亡
 
 
112 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/10/20 14:25
 モナー朝発足以来の悩みの種はコヴァ族であった。
 アメザー朝時代から一大勢力を誇るコヴァ族に対し
 アメザー朝はコヴァ族にシソー地方を与え封土としていたが
 コヴァ族の増大によりシソー地方からコヴァ族は溢れ始めた。
 コヴァ族はハングール州を制圧し、モナー皇室の一族と言われる
 ニダーを藩王に推戴。
 
 ニュース州は度々コヴァ族の侵入を受け、被害が深刻になるに至り
 皇帝に朝廷を懇願。ニュース州はコヴァ族に極東地方を割譲。
 
 これを切っ掛けとしてニュース州の治安の低さを問題視する声が高まり
 ニュース州は首都ソクホー市に選民(キシャ)による統治を定めた
 プラス要塞を建設。ソクホー市の要塞外地域は流民の支配に任せた。
 
 さらに、コヴァ族はアサピーの乱の鎮圧を名目としてマスコーミ州
 にも侵出。これを占拠した。
 
 
114 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/10/20 18:17
 モナ神話より
 「夏、疫病各地に広まる。街は死人で溢れ、壊滅寸前まで追いつめられたが、
  ある小地域に住む賢人、壊滅を防ぎ、神となる」
 
 
115 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/10/20 21:12
 モナ国で禁忌とされる”チョソ”ってなんですか?
 近親相姦?
 
116 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/10/20 22:54
 モナ国初期より徐々に流入してきた朝鮮系の人々の総称。
 チョソはモナ語で嘲笑という意味で、これは彼ら半島系移民者が
 皆体を張ってモナ国に笑いを提供してくれた為に呼ばれた名である。
 特に仮面を着用した芸「ジサクジエン」は彼らの最も得意とする芸であった。
 
 しかし王国崩壊と同時に謝罪と賠償を要求したため
 正史から抹消されてのである。
 
  Λ Λ
 <=(..´∀`)
 発掘されたログより復元された(一部改修)仮面のチョソ
 
117 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/10/21 11:27
 李モナー朝とはなんですか?
 
118 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/10/21 21:19
 >>117
 >>41にある後モナー朝のこと。
 ギコ王女が李氏朝鮮と婚姻関係を持ったため、その名がある。
 清軍との対抗上、どうしても後ろ盾が必要だった。
 日本人傭兵も、実は秀吉の朝鮮出兵で朝鮮に来た武将たちが指揮していた
 という話だ。
 
119 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/10/23 12:42
 一方、16世紀のモナー朝滅亡時、東方に向かい後モナー朝を形成した一団
 とは別に、早くから正教会に帰依していた西部の住民を中心に、ロシアの庇護を
 求めて西に向かった一団もあった。当初はウクライナを中心にオスマン朝との
 商業活動に従事していたが、やがてこのディアスポラモナー人はアルメニア
 などと競合し、商業市場が「重く」なったため、これを避けて北部ロシアから
 バルト海方面に向かって活動範囲を広げた。
 
 これらの人々は「ナンミーン」と呼ばれたが、この言葉は「いるべき所にいられ
 ない人々」という意味の後期モナー語に由来する。ナンミーンは各地で「ヒナン
 ジョ」と呼ばれるコミュニティを形成しつつ、一部はブルガリアポーランド
 ドイツなどに移住を繰り返している。
 なお、モナー朝研究の碩学ゲオルギコ・フッサールの母親シィルヴィア・ダッコ
 ヴァはナンミーンの出身である。
 
 
120 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/10/23 19:40
 モナ−朝初期から諸州を脅かしたと言われる「ドキュソ」、「アラシ」と
 呼ばれる集団について詳しい方、ご教示下さい。
 「ドキュソ」については「ネオム・ギチャの乱」との関連を指摘する
 研究もあるとのことですが・・・
 
 
123 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/10/25 13:22
 あの耳のようなかぶり物をつけずに姿を人に見られることは
 モナー朝の男子にとって最大の恥辱だったらしい。
 かぶり物を没収する「ヒキ」という刑罰があり、この刑に
 処せられた者は自ら部屋に籠って餓死を静かに待ったという。
 
144 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/10/30 03:55
 ヒッキッーという反乱者がチュウボウという地方都市で反乱を起こしたとき
 コンフューシウスという聖人が一国の司法大臣の地位を投げ捨ててまで駆け付け
 たことは後の語り草になってるんだよね。まだモナー朝が統一王朝を建てる前の
 時代のことだよ。
 
146 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/10/31 22:41
 国民に多くいた「ヒキ」は前出のように一種の刑罰であったようですが、
 当時は一般的に職業難な時代で、職にありつけなかった無能なものは
 不満を溜め込んで自ら「ヒキ」になったとも言われています。
 
124 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/10/25 17:38
 その際、受刑者は「ウツダシノー」とつぶやき続けたという。
 意味はいまだにわかっていないが、なんらかの呪文の類ではないかという説が有力である。
 
125 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/10/25 21:30
 モナー朝の呪文といえば…。
 
 「ヨ・シノヤ」、「ア・ユ」(こちらはとある歌姫の名という異説もあるとか)
 というかなり長い呪文があったとか。
 どちらも、自らの思いを告白する謂いだと聞きましたが。
 
126 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/10/25 21:51
 「ネギダ・クギョク」「ユーノ・ジテエブル」の真相はまだ掴めないのでしょうか
 
 
134 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/10/26 01:01
 暗黒神タシロ
 
135 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/10/26 02:13
 三度過ちを犯した暗黒神タシロの姿を
 聖書の表紙にしようという運動(祭り)が
 モナー朝の住民多数を巻き込んで
 そんな感じ
 
136 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/10/26 11:05
 タシロー朝て暗黒神タシロと関係あるの?
 どなたか詳しい方御教示下さい。
 
 
141 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/10/29 16:45
 2002.10.25
 ワシントン(ロイター) 独考古学者、テル=ミ女神像の断片を発見?
 
 ドイツの考古学者ホッシュマンが24日、米モナー考古学の専門誌に
 今回の中間報告を発表した。
 
 注目の断片は古代モナー朝の都市ネェート=ヲチ(世界を眺める者)遺跡の神殿
 ネェート=アドゥール(『アドゥール』とは『美しい女性』の意)跡の周辺から発見されており、
 アカイイモチプスも一緒に発見されている事から同女神像である可能性が高いという。
 
 神殿の石柱からはテル=ミ女神像は羞恥・醜悪の象徴とされ、長い間外の高台で
 祭り上げられていたという旨の記録も見つかっており、今後の報告が期待されている。
 
142 名前:棄教者 ◆egKIKYO7cg 投稿日:02/10/29 20:00
 >>141
 古代語ではアカは紫に近い色を指していたらしいですね。
 
 
143 名前:研究者某 投稿日:02/10/30 03:29
 まあやはりペルシア語にいうマジュレス(議会)は
 モナー朝のマジレスから来ているのであろうか
 モナー朝もペルシアも隊商の往来によって栄えた商業立国であり
 宗教芸術も含め両者には深い繋がりがあるように思えるわけだが
 
 
147 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/10/31 23:05
 ディ・スワ・ク・ディェン共和国について詳しい方いませんか?
 モナー語では、「君たちは、ディエン共和国人のようだな」という
 用例があるみたいなんですが。
 
 
148 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/10/31 23:50
 モナー朝の名前の由来については、諸説有るものの
 ギリシア語で「孤独」を意味する「モナス」が転訛したという説が有力である。
 モナー朝臣民には孤独な者が多数いたことを考慮するとまんざら無視できない。
 
149 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/11/01 16:40
 スレを織る作業の経過がよいと職工が
 「リョ・ウ・スレノヨ・カン」
 という文字を織り込むことが稀にあっ
 たという。
 
150 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/11/02 01:00
 織っている途中でアラー氏呪われていると判断した職工は
 「シ・ユウリ・ヨウ」
 と織り込んでそれ以後の作業をやめてしまうようです。
 もったいないと思った別の職工が引き継いだときには
 「サ・イカ・イ」
 とうまじないを織り込むことで、アラー氏の呪いを
 払っていたと伝えられています。
 
152 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/11/03 03:19
 14世紀の半ばには邪教徒アラーシが微意具流を祭り上げモナー国のリョスーレ
 と呼ばれる大都市郡を荒らしまわったがモナー国のアクキーンという戦法に敗れ去った
 話は昔話としてかたりつがれている。
 また、アラーシの残党はネンチャークと名を変え何度もモナー国を襲ったようだ。
 なお、今しつこいものや人をあらわす時粘着というのはこのネンチャークが元になっているそうだ。
 
 
154 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/11/05 18:42
 どなたかホ・シュと呼ばれる儀式について知ってる方いらっしゃいますか?
 
155 名前:ホ・シュを再現してみます。 投稿日:02/11/06 06:59
 ホ・シュ
 
156 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/11/06 09:22
 >>155
 さらに活性化させたいときは
 
 ア・ゲ
 
 が追加される。
 
 
157 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/11/06 17:14
 モナー朝最大級の都市ニュースソクホウの堕落していく様にはロマンを感じるよね。
 
158 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/11/06 20:47
 そうだね。ニュースソクホウ市は国内最大のマーケットをもち、常に世界中から
 最新の情報が集まってくることから急速に人口が増加し、号を煮やした政府が
 市をどんどん分割していった。中世ノブゴロドのように各区ごとに民会があり、
 互いに抗争を繰り返したり、>144で言及されているチュウボウ反乱の遺民の子孫
 が大量に流入したりして治安はどんどん悪くなって行った。
 でも、ニューソク都市連合はモナー朝滅亡まで国内最大の人口を保っていたから、
 魅力のあるまちであったことには間違いないだろうね。
 
159 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/11/07 10:27
 >>158
 いや最近の研究によるとモームス市の方が人口は多かったとする説もある。
 もともとは「ナッチ」という異端の神を崇める者達を隔離するために造られた都市だったが、
 隠れ信者も多く、一時期最大人口を誇ったらしい。
 
177 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/12/02 16:58
 >ナッチ
 異端の神説もあるんですか。宋から渡来したモナー朝の御用商人で、
 宋の宣和年間の人と伝えられる紳商・宋清の随筆には、
 「この市(モームス市)に嘗て名知(ナッチ?)なるものあり、
 肥満にして甚だ増殖して市民迷惑す、故に肥満の人を罵るときしばしば名知といふ」
 とあり、人の名だと思っていたのですが・・
 
 
160 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/11/07 23:45
 ニュースソクホウ市には上記>112の記述にもある『キシャ』と呼ばれる同職ギルドが存在し、
 市政に多大な影響力を持っていたという記述を読んだことがあります。
 また、そのギルドの中でも『キャ・プ』と呼ばれるマイスター的な称号をもつ特権階級が存在し、
 彼らの許可がなければスレを織ることが出来ない地区があったということなのですが、
 これに関して詳しい史料をどなたか持っておられないでしょうか?
 
 
164 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/11/09 18:59
 カブイータ市はモナー朝の金融の中心地だったが、没落する山師も多く、
 その者たちをジュカイという名の安息の地に送ることをなりわいとした
 モナー=カンコウという商人が隆盛を極めたそうだな。
 
 
178 名前:山野野衾 ◆W7NDQJtGoM 投稿日:02/12/02 17:04
 モナー朝の戦闘はまず戦闘を行う事を提案した者の一騎駆けから始まった。
 しかしその一騎駆け主(通称1)にセンスが無いと見なされた場合後続の者
 が存在せず、からかいに来る「煽り」や「荒らし」、売り込みに来る商人が
 たまに現れるくらいであったという。
 なお「煽り」は嘲笑に現れた者、「荒らし」は隊列を乱しに来た者を指す。
 いずれも愉快犯であり、なんだかんだといってもモナー朝は平和であった。
 
184 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/12/07 15:22
 モナー朝の軍事制度は、当時にしては珍しい志願兵制度だったと言われている。
 彼等は軍団単位で各州ごとに配置され、サクージ・ヨニンと呼ばれた。
 モナー朝1000年以上の歴史の中には、多くの名将の記録が残っている。
 彼等の中には出世して、王族と婚姻したものさえ出たという。
 最盛期のモナ5世の時代には、数十の軍団が全土の治安を維持していた。
 しかし「ネオム・ギチャの乱」を経て「アラシ」や「ドキュソ」の勢力が
 全土で増大、サクージ・ヨニンの中にも彼等に同調する者が現れ、
 モナー朝の治安は次第に悪化していったと言われている。
 
 ちなみに、サクージ・ヨニンには戦闘の際「アボーン」と
 掛け声を掛ける独特の伝統があり、モナー朝を滅ぼした蒙古人達は
 この掛け声を、死を招く声として恐れたという逸話が残っている。
 ちにみにこの掛け声の意味は現在でも不明で、今後の研究が待たれるところである。
 
 
179 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/12/02 19:58
 世界遺産候補の「ィョゥ神線刻図」は既出ですが、
 このィョゥ神は中国三国時代の韋曜(いよう)を神格化したものだと
 されていますね。呉の大帝孫権は、モナー朝へ船団を送り込んで
 拉致をしようとしたので、モナー朝では蛇蝎の如く憎まれており、
 1さんが書かれていたモナー語の罵倒語「チュウボウ」の語源も、
 孫権の字だと言われております。
 そして、孫権に逆らって処刑された韋曜を「救世主ィョゥ」として崇拝するように
 なったとか。猫耳がついているのはモナー朝では「ィョゥはモナー人で
 あって、祖国のために身を投げうった人物」とされていたからだそうな。
 ィョゥ神線刻図の右側も、孫権をモデルにした、悪神チュウボウ
 だという説もあるんですよ。
 
180 名前:179(=) 投稿日:02/12/02 20:18
 そうそう、私の史料(当方中国史屋なので漢文史料ですが)を紹介します。
 
 擬古巴爾編注『茂名雑誌大全』上海太公望書林、1983
 中国側に残るモナー朝について述べた記述を網羅し、注を付した労作。
 著者擬古巴爾(ぎこはに)は中国に於けるモナー朝研究の大家で、
 後モナー朝の最後の王・宣宗の末裔。
 今のところ漢文史料では最高のモノとされています。
 惜しむらくは入手が非常に困難で、私も某図書館でしかみたことがありません・・
 
 阿本『茂名記聞研究』台北明名書房 1989
 擬古巴爾の本に収録されなかった敦煌文書『茂名記聞』の研究書。
 前に書いたィョゥ=韋曜を唱えているのはこの阿本です。
 
181 名前:179(=177) 投稿日:02/12/02 20:46
 ※前の名前欄は179(=177)と書くつもりで間違えました。
 すいません。
 
 さて、1さんの言って居られた「東土見奇聞」ですが、これは
 後モナー朝に使節として滞在した江戸幕府官吏、木村仲吾宣武の著した
 モナー朝史です。モナー朝に関してはモナー人そのものが非常に歴史的概念が
 希薄であったため、通史としては木村宣武のものが最初で、
 史料価値も高く、世界的にも高く評価されています。
 江戸時代末期のベストセラーでしたから、探せば結構出てくるはず。
 
182 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/12/02 22:20
 >>181
 
 おいおい、「東土見奇聞」は木村仲吾の本じゃないぞ。
 1さんが書いているように『東土見奇聞』は八世紀の旅行家の著。
 書いたのはチラ・ネーヨだっけ?
 木村宣武のは、『東土史奇聞』。
 あと木村宣武が鬼平犯科帳の「うさぎ」だってのが抜けてる。
 彼は史実では丸耳のかぶり物をしていたので長谷川平蔵から「うさぎ」
 と呼ばれていたわけ。通信使で来日した後モナー朝の王族のセガレなので、
 猫耳だった。
 
 
183 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/12/07 14:35
 モナー朝の女性についてなんですが、「フジョーシ」若しくは「ド・ジンオンナ」
 と呼ばれる女性集団について、詳しくご存知な方はいらっしゃいませんか?
 色々と調べてみたのですが、「ヤオイ」なる極めて特殊な宗教(思想?)を
 奉じていたことぐらいしか分かりません。
 モナー朝女性史に関して詳しい方の解説をお願い致します。
 
185 名前:De Jinona 投稿日:02/12/07 15:27
 「棒が2本あれば、
  その2本の棒はまず間違いなく
  前後の脈絡なく不可避に相互に愛しあう」
 の恐るべき宗教的ドグマのもと、脊髄反射で歴史の書き換え(妄想)を
 おこなう恐るべき神秘集団です。
 
 たとえば以下の妄想をみたときにはのけぞりました。
 これが真実なら、明治政府は20世紀を迎えることなく醜聞のなか
 自己崩壊をとげたでしょう。
 帝政ロシア秘密警察によるユダヤ陰謀議定書にも比すべき、
 日本国家を標的にした悪質なデマゴギーでしょう
 http://www6.ocn.ne.jp/~chojabar/010820/yamakubo.html
 
 
186 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/12/07 16:58
 『オ・グーラ・ユーコ』という演芸家が大ブームだったそうです。
 当時どの市にいってもオ・グーラ・ユウコの肖像が書かれた『スレ』を見つけることができたらしいです。
 
 
188 名前:日本@名無史さん 投稿日:02/12/07 19:18
 位置比定論争で、モナー朝がネパールあたりという説もあるね。蜀の侵略で
 烏戈国が平定されたあと、危機感を持った呉が、遠交近攻策で友好関係を作
 ろうとしたところ、拒否したので呉に攻撃されてひどい目にあったとか。そ
 の証拠がチュウボウという言葉だ、ということで。
 
 
189 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/12/09 23:27
 モナー朝の治安は治世を通じて常に悪く、隊商や旅行者の悩みの種であった。
 これは、戸籍がなかったことや、貿易立国の国是としてどのような背景を持つ者
 でも入国を許したこと、144で言及されているチュウボウの乱の遺民を取り締まる
 力がなかったことなどが主な原因である。
 なお、14世紀の旅行家イブン・バティストゥータはその著「三大陸蹴球記」の中
 で、デリー=トゥグルク朝の使者がモナー朝の街道筋で旅客同士の喧嘩を目にし、
 モナ王に「ここはひどい街道網ですね」と語ったことを紹介している。
 
 
190 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/12/10 02:07
 モナー朝もその末期には群雄割拠の状態となって、天下分け目の1000取り合戦が行われ、
 その後ニスレ・モナー朝(後モナー朝)が成立したということだ。
 
192 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/12/10 15:37
 後モナー朝初代皇帝モナー9世の従兄弟にあたる
 ナナシー伯が1000取り合戦のどさくさに紛れて
 モナー朝(後モナー朝)から離反し
 ナナシー朝(首都:アットマ・ク)を建国し
 その後、後モナー朝と2年にわたって
 戦ったアイデイ戦争について書かれている資料を
 ご存じの方はいらっしゃいませんか?
 
193 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/12/10 15:54
 >>193
 それはもしかして、後モナー騒乱記第五集に乗ってる「エ・イデン・ニィの乱」
 のことじゃありませんか?
 
 
197 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/12/10 23:26
 モナー朝の資料を見ると「サイ・タマ」という言葉が
 よく出てくるが、これは何?
 
198 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/12/11 10:57
 サイ・タマはモナー王朝黎明期に抗争を繰り広げたドコモ朝サイタマのこと?
 モナー王朝の黎明期はかなり殺伐としていたらしい。
 ドコモ朝サイタマは外務大臣リョウコウの経歴に問題があるといいがかりを
 つけられて一夜で滅ぼされた。
 
200 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/12/12 01:09
 >ドコモ朝サイタマ
 太陽崇拝をしていたと言う説があるのですが。
 
201 名前:198 投稿日:02/12/12 12:28
 太陽崇拝をしていたのはサイタマ朝サイタマじゃないかな?
 サイタマ朝サイタマの言語は「サイタマ」という言葉だけで構成されており、
 ほとんどが未解読の状態だよね。
 
 東京美術館で開催中の「モナー朝美術展」でサイタマサイタマ・タブレット
 レプリカが公開されているから、興味があったら見てきたら?
 
 
199 名前:198 投稿日:02/12/11 11:18
 ゾロアスター教アカピー派がフシアナ=サーンに騙された事件、
 いわゆる「アカピの屈辱」について教えてください。
 
 
204 名前:世界@名無史さん 投稿日:02/12/13 22:54
 >>35
 遅レスだが、べつに不思議はないだろう
 漢詩押韻や和歌の裏どりなどにも似たような技法は見られるし。
 
 ただ唯一不思議なのが中国語や日本語と全く言語体系がちがうモナー語において
 このような技法があることだよ
 
205 名前:日本@名無史さん 投稿日:02/12/14 07:55
 >204
 遅すぎて、流れがわからん。