歴史が違う方向に行ってた場合の人物略歴 適当にまとめ その2
引用元スレッド
多分、オチの人は永遠の17歳なP……というか横光魏延。
112 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:05/02/23(水) 22:45:30
織田信忠(1557〜16??)
幼少期に武田信玄の娘、松姫との政略婚約を結ぶ。
時は流れて1573年春、
前年三方ヶ原にて徳川軍を破った武田軍が尾張に乱入。
雪解けによる上杉謙信の動きが懸念されたが
江北戦線で浅井勢が織田方の横山城を強襲して
大勝利を収めたとの報を受けての賭けである。
武田と織田による濃尾最終決戦!
兵力では織田が5万、武田が3万ほどだが
長島一向宗の支援と連戦連勝の勢いにより武田が勝利。
その戦いの最中、信長と信忠の隊が分断、信忠必死の奮戦で信長を岐阜に逃がし、
自身も清洲に入ろうとするも生け捕られる。岐阜はわずか2日で落城し、信長自害。
信長自害の報を聞いた徳川父子も降伏。
捕らわれの身の信忠は自害しようと試みるも先の戦での戦い振りに惚れ込んだ信玄が
見張りをつけ四六時中監視してそのスキを与えない。信忠が次に採ったのは「断食」による餓死。
みるみるうちに信忠の体は痩せこけていった。
信玄は愛娘、松を呼んで信忠の看病をさせるも信忠は食を拒み続ける。
ほどなくして、信忠は危険な状態に陥る。
死の淵にて松の愛が伝わり、献身的看病により体力を取り戻す。
快復後、信忠と松の婚儀が行われ、幼少の頃の婚約が実現。
以後、信玄により密かに除かれた家康の跡徳川を継いだ信康、
後に同じく信玄の娘を娶る上杉景勝とともに勝頼を輔佐し、
武田の天下取りに貢献し、尾張1国を宛がわれる。
158 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/03/02(水) 18:58:48
織田ひょっとこ斎 1542〜1621 【茶の道に生きた信長の弟】
信長の実弟。源五、長益。信長没後は秀吉に仕えて御伽衆となった。
関ヶ原合戦以後は家康に接近し、大坂の陣では豊臣方の情報を徳川家康に通報している。
家康により大和国に2万石を与えられたが、武将・政治家としてよりは
千利休の高弟で茶道ひょっとこ流を創始した茶人として有名である。
東京・ひょっとこ町は、彼の江戸屋敷があったことにちなむ地名である。
130 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/02/27(日) 20:47:04
織田信勝(1536〜1568)
織田信秀の子。弾正忠。尾張末森城主。
信秀の死後は同母兄の信長が家督を継承したが、奇矯な振る舞いが多く人心が離反、
謹厳実直な性格で人望が厚かった信勝は、重臣の林秀貞・柴田勝家、
上四郡守護代織田信安らの支持を受けて蜂起、1556年、稲生の戦いで兄・信長を討った。
のちに不和になった信安や、犬山の織田信清と尾張の覇権を争った。
1560年、今川家の軍勢が本格的に尾張に侵入すると、
岩倉城に篭城して滅ぼされた信安や、奇襲を仕掛けて戦死した信清と異なり、
彼我の勢力差を冷静に判断して今川家に従うことを選択、織田の家名を保った。
その堅実さ・実直さは義元や氏真に厚く信用され、尾張衆を率いて各地を転戦したが、
近江観音寺城攻略戦で若くして戦死した。享年三十三。
嫡男の織田信澄(幼名坊丸)は今川氏真の娘を娶って今川一門として活動。
今川幕府成立後は天童32万石を与えられ、東北の外様大名ににらみをきかせた。
また、弟の織田勝益(有楽斎)は茶人として有名。
161 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:05/03/02(水) 20:39:59
【木下藤吉郎】1536〜1608
尾張の国中村の農家に生まれ,父はもと足軽。
はじめ日吉丸といい,やがて木下藤吉郎と名のった。
今川家の武将に仕えていたが出奔、織田家に仕官を願うがかなえられず、
その後堺にて商家として頭角を現していく。屋号は尾張屋
尾張屋藤吉郎として織田家の財政等を援助した政商でもあり織田信忠の側近になっている。
織田信長の天下統一後には、信忠の早逝で政権から遠ざかることとなるが
信長は信雄追放信考を高野山で自害させ、無謀な朝鮮出兵するなど狂気の果てに薨去
織田政権は崩壊の兆しを見せる。
無能な孫信秀(信忠の一子)柴田勝家ら守旧派と明智光秀ら新参派の抗争が激化
これに徳川家康、伊達政宗、毛利輝元といった信長の力で屈服してきた外様大名が絡み
天下分け目の関が原の合戦がおきる。
そして徳川家康が天下を平定することとなると江戸幕府の財政政策に大きく貢献。
石田三成、増田長盛、長束正家や小西行長といった江戸幕府初期の閣僚は彼の推挙ともされ
徳川将軍家茶道頭の千利休とも懇意であったほか
姫路宰相小早川隆景や西国将軍の威勢を誇った毛利輝元とも昵懇であり
幕政を大きく動かしつづけた。
173 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:05/03/03(木) 21:56:36
明智光秀(1529〜1582)
天正10年6月2日早暁、信長の京の宿所本能寺を襲うも
信長は愛宕俳会参加者1人の密告により事前に脱出。
直ちに西に軍を動かし安土の信長、岐阜の信忠、清洲の三法師を討とうとするも
瀬田唐橋の焼き討ち、信長寡兵ながらの奮戦により戦況は停滞。
程なくして岐阜の信忠、摂津の信孝進軍の報。
数日後、北陸の柴田・中国の羽柴・伊勢の信雄進軍の報。
この頃、光秀が味方と期待していた
細川・筒井・高山・中川・京極らの諸将は織田方として参陣。
光秀はなすすべもなく坂本に戻り篭城。
さらに数日後、上信より逃げ帰った森・滝川らも包囲に合流。
かつての同僚ら10万の軍勢に囲まれた光秀は自ら城に火を放ち自害。
しかし光秀謀反以後、信長は穏やかになり
対外政策、家臣への扱いも一新。
毛利・上杉らの和を受け容れ所領を安堵。
長宗我部には伊予・阿波・土佐の3国を与える譲歩案で和睦。
以後、スムーズに天下統一。
176 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:05/03/03(木) 22:52:41
惟任日向守(生没年不詳) 【敵は本圀寺にあり】
出自は不明。明智秀満(光秀)の一族という説が有力。
1582年、本圀寺に乱入したのちに出奔。以後の消息は不明。
信長が宿泊していた本能寺と間違えて襲撃し、あまりの恥ずかしさに逃亡したらしい。
明智家の系図に記載がないのは、あまりの情けなさっぷりに歴史から抹殺されたためだろう。
一説に徳川家康に仕えた天海僧正が惟任日向守だというが、もちろん定かな話ではない。
この故事に因み、「敵は本圀寺にあり」は、
「大切な事業の土台にとんでもない基本的ミスがある」ことを意味する成語になった。
183 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/03/04(金) 17:08:11
前田慶次
前田利家の影武者とも、義理の甥とも伝えられる。
武勇に優れ、また風流にも通じた人物だったとされるが資料が少なく定かではない。
確かなことは、利家を水風呂に入れて殺害し、
逃亡を図るも捕らえられ処刑されたということのみである。
動機については諸説あるものの定かではない。
184 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/03/05(土) 00:00:42
前田利益 1533-1599
利大とも。滝川益重(益氏)の子で、荒子城主・前田利久の養子となった。
1569年家督を継承。赤母衣衆に抜擢され、桶狭間・姉川・長篠など主要な合戦に参加、
越前一向一揆平定戦などで活躍し、1579年には能登一国を与えられた。
本能寺の変後は柴田勝家に与しつつ秀吉と通じ、1583年金沢城主となる。
豊臣政権を五大老として支えた。
前田又左衛門 ?-1605?
荒子城主・前田利昌の子(四男という)。加賀百万石の祖・前田利益の叔父にあたる。
犬千代、孫四郎とも。名は利家と伝えられるが不明。
派手で奇抜な振舞いを好む一方、武勇にも優れ「槍の又左」と呼ばれた。
織田信長の茶坊主を斬って出奔、その後は諸国流浪し自由気ままに生きた。
又左衛門が創始したという愛知県美浜町の「ずんどこ踊り」は重要無形文化財。
名古屋山三郎・出雲の阿国らとともに歌舞伎芝居をつくったともいわれる。
138 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/03/01(火) 23:28:25
滝川一益
織田家の武将
出身は近江国甲賀ともいわれ、浪人していたところを織田信長に登用されたという
信長にその才能を認められて、伊勢北畠氏の攻略伊勢長島の一向一揆討伐などに功績を挙げ、
信長から北伊勢五郡を与えられた。
「先駆けは一益、殿(しんがり)も一益」とうたわれるほどの勇将であったという。
名物茶器の愛好家としても知られ、武田討伐に功のあった武将が領地を与えられる中、
「珠光小茄子」という名物茶器を与えられ喜んだと伝えられる
本能寺の変の際には領国の伊勢にいて、織田信雄と共に兵を率いて明智光秀と戦い、これを破った。
この後、織田秀信政権の五家老(羽柴秀吉、柴田勝家、丹羽長秀、滝川一益、池田恒興、織田信孝)の
筆頭として織田家を支えた
144 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:05/03/02(水) 07:00:25
>>138
五家老が六人いるわけだが
172 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:05/03/03(木) 20:20:21
森成利(1565−1622)
森可成の3男。幼名は乱法師、蘭丸とも。
森成利といえば、まっさきにあのユニークな肖像画を思い出す人も多いだろう。
成利は早くから信長に側近として仕え、使者や応接役などを務めた。
本能寺の変の際には病気療養中のために安土にとどまっており、難を逃れる。
その後は秀吉に従って順調に出世。関ヶ原では東軍に与して美作津山18万石に封じられた。
件の肖像画は50歳頃のものと考えられているが、見ているだけでも幸福になれる。
しばしば領内を巡回して民衆から名君として親しまれていたというのもよくわかる。
一度顔を見たら忘れられない成利であるが、信長に仕えていた頃は美少年で、
信長の寵愛を受けていたらしい。いやはや、歳月は残酷である。
175 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/03/03(木) 22:48:44
竹中半兵衛
初め美濃斎藤氏の家臣であったが、
舅である安藤守就とともに稲葉山城のっとりを計画するも失敗し出奔。
武田家に仕えたもののその後の消息は不明で、三河野田城攻めのさいに病で陣没したとも、
信玄没後の勝頼の高天神城攻めのさいに無理な城攻めを勝頼に進言し叱責され
心痛のあまり憤死したとも伝えられる。
141 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:05/03/02(水) 02:51:12
石田三成(1560〜1621)
豊臣政権の第二次五大老の筆頭。
関ヶ原の戦いで謀反人徳川家康を破った。
家康は捕えられ京の三条河原で黒田長政、藤堂高虎らと斬首され、徳川家は取り潰された。
三成の戦後処理は鮮やかで後世の史家もその手腕を高く評価している。
ところで、第二次五大老とはよく知られているように
毛利輝元を筆頭に石田三成、上杉景勝、宇喜田秀家、島津義弘である。
実質的な指導者は三成であったが、その公平さ故に嫌われていた三成は輝元をたてた。
三成はその功を高く評価され近江佐和山の所領を52万石に加増された。
秀吉の遺児秀頼が成人し、
豊臣政権が安定したのを見届けた三成は佐和山で家族に囲まれ穏やかに死んだ。
死後に朝廷から従一位の称号を送られた。
187 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/03/05(土) 01:12:29
石田佐吾左衛門 生没年不詳
近江国坂田郡石田村の庄屋。
京極氏に仕えた石田氏の一族とも言うが定かではない。
江戸時代初期に石田村の庄屋となり、佐吾左衛門新田の開発に着手。
その事業は息子の弥三、佐吉に引き継がれた。
159 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:05/03/02(水) 19:44:12
【大野秀頼】 1593〜1665
大野治長の子。大和郡山100万石の大名。
豊臣秀次から3代の豊臣政権を大老として支えた重鎮。
生母ははじめ秀吉の側室で大野治長に与えられた女性のため、
秀頼は、実は秀吉の落胤ではないかという説がある。
108 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/02/22(火) 22:03:41
淀君(茶々)
浅井長政と織田家の姫市との間に生まれるものの、
時代の流れに翻弄され小谷・北ノ庄と2度の落城、そして肉親の死を経験する。
家来筋である豊臣秀吉の側室の一人と成り下がるも、
彼の子を二度も懐妊する僥倖にめぐまれ秀吉の死後正妻である北の政所を追放し
幼い秀頼を後見し豊臣家の実権を掌握。
しかし、関ヶ原の戦いで西軍が敗れた後は豊臣家の将来を案じ
勝者徳川家康の人質として江戸下向し、戦火の拡大を未然に防いだ。
その後秀頼とその庶子国松が夭折すると妹お江の生んだ国松を養子として豊臣家の家名を存続させたが、
世間では「浅井家が豊臣家をのっとった」と悪評を受ける結果となり淀君は憂悶のうちに死去。
なお、淀君の死と同日、腹心であった大野治長もまた殉死したことから、
秀頼の出生の秘密について後世の歴史家がいろいろ憶測をよぶことになる。
109 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/02/23(水) 22:09:22
>>108
茶々の場合、秀吉の側室になる前に歴史が違う方向に行っていたら・・・
浅井長政が信長を裏切らなかったら
信長が本能寺で死ななかったら
秀吉が天下を取れなかったらetc
歴史に翻弄されすぎ。
110 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/02/23(水) 22:24:21
長政が信長を裏切らなかった場合、勝家の二の舞になっていた可能性もある。
111 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:05/02/23(水) 22:41:51
>>110
悪いがそうならないだろ。
浅井長政は徳川家康と同じ同盟国の立場なのだから
織田家の内紛に関与するまい。
彼が顕在なら本能寺の変の際、信忠は死ぬことなく浅井軍の救援を受けてた可能性はある。
となると織田信忠=浅井長政のラインができ柴田も丹羽も文句なく
これに従い徳川家康も、文句ない名文が有る以上それに続く罠
羽柴秀吉は信長の敵討ちで発言力こそ増すが織田家の有力者の一人に納まってしまう。
織田信忠=浅井長政ラインの織田家主流派体制に
羽柴秀吉+毛利一族
徳川家康+小田原北条氏+伊達政宗
が微妙な立場になるか
114 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/02/23(水) 23:39:27
浅井長政 【1545〜1583】
浅井信政 【1563〜1635】
彼が元服したばかりの頃、父久政が六角家に従属していた為、賢政を名乗った。
六角の家臣の嫁を室として迎えていたが、六角からの離反を決意。
嫁を送り返し、野良田の合戦で劇的な勝利を挙げると、家臣団の支持を得て当主の地位を父から奪取。
半ば強引に隠居させた。
同じ頃、桶狭間の合戦で今川義元を破った織田信長に習って長政と改名する。
その後は朝倉と同盟を結んで北近江を席巻、六角を圧迫。武名をとどろかせた。
この為、名前の元となった信長自身も、長政に目をつける。
1563年、織田家から同盟の申し入れがあるとこれを受け入れ、
さらに4年後には信長の妹お市の方が輿入れし、織田家との関係はより強いものとなった。
翌年、織田、浅井連合軍による上洛が敢行され、宿敵六角家の打倒に成功。
同年の朝倉討伐においては、熟慮の末織田家との縁を選び、
猛反対する父を説き伏せ朝倉討伐に加わる。
その功績から越前を与えられ、一向一揆と戦い続け、やがて100年に渡る加賀一向一揆を収束せしめた。
やがて嫡男万福丸が元服。信長から一文字賜り、信政と名乗った。
1577年の手取川の合戦においては軍神上杉謙信を相手に懸命に防戦。信政も見事な初陣を飾る。
その戦いぶりは謙信をして「信長に過ぎたる者が二つあり、備前守に安土の城」と言わしめた。
終生、信長との盟約を守り続けた為、「北の浅井に東の徳川」と称えられる。
戦だけではなく領国経営にも類まれなる才覚を見せ、善政を施して領民に深く慕われた。
家庭においても夫婦仲睦まじく、多くの子宝に恵まれた。
その後も上杉家との戦いを続けていくが、本能寺の変により大きくその運命はかわっていく。
越中での戦いに勝利し懸命に引き返すも、信長のあだ討ちにおいて羽柴秀吉に後れを取ってしまう。
清洲会議においては、一門かつ織田家の同盟者として三男信孝を推挙するも、
結局は秀吉の功績の前に押し負けてしまう。
115 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/02/23(水) 23:41:54
やがて秀吉と対立するが、謀略戦に不得手であったために、
味方についた猛将柴田勝家も謀殺されてしまう。
その後はやはり本来織田家の者でなかったことから丹羽などの多くの旧織田家臣団を味方に出来ず、
圧倒的に多勢に無勢な中で行われた賤ヶ岳の合戦では、奮戦するも敗退。
先祖代々の地である小谷を焼き払われ、最期は越前北の庄城まで追い詰められて自害した。
秀吉は下賎の出であるが故に、主君の血筋を引くお市の方に横恋慕しており、
自分の元へ走れば命は助けると勧告したが、お市の方はこれを公然と拒否。夫と運命を共にした。
残された子供達は老臣遠藤喜右衛門の手引きで逃れようとしたが、
秀吉によって須らく捉えられてしまう。
この時長女の茶々は自ら秀吉の愛妾となる道を選ぶことで弟達や妹達を守った。
嫡男信政は信孝の傍に仕えていたが、
信孝が彼の諌めを聞かずに打って出て戦死すると徳川家康の下へ逃れる。
食客として過ごしていたが、秀吉との合戦に当たっては自ら志願して秀吉を誹謗中傷する文面を書き、
これを挑発。小牧長久手の戦いにおいては、父の名に恥じない見事な戦いぶりを見せ、
正式に徳川家の客将として迎えられる。
北条征伐後の家康の関東転封に従い、
関ヶ原の合戦では妹婿にあたる秀忠を補佐して徳川家の勝利に貢献。
恩賞として近江長浜城を中心とする近江38万石を拝領。浅井家再興を果たした。
江戸城中において一門かつ、初代老中として徳川家中で重きを成すが、大阪の陣が発生。
長女茶々は淀の方として大阪に、三女のお江与が秀忠の正室として江戸に。
そして末弟井頼が大阪入りしたことで西と東に分かれた兄弟姉妹がそれぞれ争う形となった。
夏の陣では、出撃してきた末弟井頼と真正面からぶつかる形となり、
血涙を流して断腸の思いで采配をとったと史書には記されている。
やがて家督を嫡男家政に譲り、江戸城につめて妹婿秀忠や、
甥家光のよき相談相手となり、家政は初代大老となった。
その後も長浜藩は幾人にもわたって老中、大老を輩出し、
桜田門外の変で暗殺された浅井弼政は彼の子孫に当たる。
116 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/02/24(木) 00:02:22
>>114-115
長文乙
長政はやっぱり自害なのねん。
149 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/03/02(水) 11:57:28
浅井賢政 1545〜1611 【戦国を生き抜いた北近江の有力国人】
近江小谷城主・久政の子。
親に逆らったことは一度もないと言われるほどの親孝行者で知られる。
父とともに六角氏・朝倉氏に従って転戦。そのために織田信長に追われて一時は所領を失ったが、
のちに武勇が買われて信長に召し出された。その後は秀吉・家康に従って戦国を生き抜いた。
浅井氏は摂津三田2万3000石の藩主として幕末まで続き、明治維新後に子爵になった。
法名・養源院天英宗清。波瀾の人生をともにした愛妻・平井氏とともに三田市の徳勝寺に葬られている。
125 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:05/02/26(土) 21:29:27
徳川家康【天下を取り損ねた男】
信長、秀吉の盟友として“律儀なる御仁”との評価をほしいままにしながら
大大名の座をも保っていた戦国でも稀有な人物であるが太閤秀吉の死去に伴い
分不相応な野心を抱き、太閤遺訓を積極的に破って多数派工作を行う。
家康の目論みは前田利家の死で半ば成功したかに思われた。
が家康暗殺の嫌疑が掛かった前田家に利家未亡人芳春院の質を求め
芳春院の内諾を得たにも関わらず結局武門の誇りを訴えた利長の涙の決断で
前田家が徹底抗戦を決定した。当然の決断であろう。
が細川忠興が顔面蒼白になって利長に本意を訴えたにもかかわらず決は覆らず
忠興が伏見城に守備を報告に行ったときの家康は対面を憚らないくらいに怒り狂っており、
その後細川は前田と共に歩むことになる。
前田の屈服を前提とした上杉への詰問状は既に会津に届いており
家康は自分で北陸に強大な反徳川勢力を生み出してしまったといえる。
126 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:05/02/26(土) 21:39:25
この時、石田三成は隠居しており(大谷吉継の助言とされる)家康の赦免許可にも拘らず
隠居の身から復することなく、強引に石田三成を敵役に仕立てて
名文にしようとした家康の思惑は大きくはずれ、その後も三成は終始一貫中立して動かなかった。
三成に代わるように大谷吉継が前田家と組んで家康に組した丹羽などを下し
家康は強引な北陸征伐を敢行するが、なんら敵対行動を取っていない佐和山城を
小早川秀秋や吉川広家、脇坂ら四将が独断攻撃した事から風向きが変わり
戦局は混迷数年に及ぶ慶長騒乱の始まりとなる。
その後、有力大名の○○○○が天下を鎮め幕府を開く事になるのである。
117 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/02/24(木) 11:53:23
徳川家光【慶長9年(1604)〜寛永10年(1633)】
江戸幕府二代将軍秀忠の長子として生まれるが、愚鈍気な外見を生母に嫌われ廃嫡、
嫡子の座を同腹の弟忠長に奪われる。
これを憂えた乳母福は駿府の大御所家康に縋って覆そうとしたが、
目通り直前に家康が鯛の天ぷらに食中りして死去したため果たさなかった。
また、福自身も抜け参りを咎められて斬首されている。
家光派はますます立場が悪くなったため守役青山忠俊を中心にクーデターを画策する。
秀忠夫妻を拘束して正室浅井氏を殺害、
その間に諸大名に徳川の家督掌握を宣言して将軍宣下の使者を迎えるという計画で、
実働兵力として伊達政宗、藤堂高虎らを引き入れて発動寸前まで行ったが
秀忠夫妻を拘束しようと御殿の屋根に登っていた家光付き小姓松平信綱が足を滑らせて転落、
秀忠夫妻に捕らえられたため計画が発覚、家光派の譜代大名・旗本の多くが断罪された。
118 名前:117続き[sage] 投稿日:05/02/24(木) 12:08:11
一方、政宗らも無事新将軍に就任した忠長の
「余は生まれながらの将軍である。不服な者は征伐するので国許へ帰って戦支度せよ」という恫喝に
「そのような者、政宗が先鋒として退治してくれましょう」と
ヘタレなおべんちゃらを言って逃れようとしたが、
後に連判状が発見されると改易・切腹となったがその様はまことに見苦しく、
「見苦しく恥ずかしい男」を意味する「伊達男」という言葉の語源となった。
そのため、家光は高崎藩にお預けとなるが、
この元和の政変(元和9)の際の負傷で翌年秀忠が急死すると
将軍忠長は新たな叛乱を防ぐために家光に切腹を命じた。
なお、この時同時に高遠城主保科正光の養子に切腹が命じられているがその理由は定かではなく、
後世の歴史家の想像をかきたてている。
142 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:05/03/02(水) 06:02:06
海北紹益 1533〜1573
海北綱親の五男(一説に三男)。幼少時に禅寺に入れられたが、
あまりの腕白ぶりに手を焼いた寺に返されたというエピソードがある。
親子ともども浅井家の猛将として知られ、姉川の戦いでは磯野員昌とともに
織田・徳川連合軍を苦しめた。
小谷城落城時に戦死。道号に因み「鬼友松」と呼ばれる。
統率71 智謀21 政治13 魅力64 教養12
131 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/02/27(日) 21:28:12
井伊直親(1535〜1603)
遠州井伊谷の名族・井伊家の第16代当主。井伊直満の子、幼名亀之丞。
1544年、今川家に仕えていた井伊直満は、家臣の讒言にあい、謀反の疑いをかけられ自刃させられる。
このため亀之丞は家臣に匿われ、信州の寺で育てられることになったが、
成長したのちに帰国、当主の井伊直盛(従兄)の養子となった。
1560年、井伊直盛は桶狭間で戦死し、直親が家督を継いだ。
1562年、井伊家の家老・小野但馬が、直親は織田信長に内通していると今川氏真に密告した。
しかし、氏真はこれが讒言であることを見抜いた。
今川家滅亡後、井伊直親は徳川氏に仕えた。子孫は3500石の旗本になった。
134 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:05/02/27(日) 23:33:01
梅岳承芳(1519〜1590)
僧侶・歌人・茶人。駿河今川氏の出身。
当代きっての文化人として知られ、歌集を編纂したり、詳細な日記を記したりした。
また、武野紹鴎に茶を学び、千宗易とともに茶道を大成させた。
135 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/02/27(日) 23:39:59
>>134
本気で上手いと思った。やけに長生きしてるし。
140 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:05/03/02(水) 01:08:34
【伊勢盛時】 ――今川家の家督継承問題に介入
(生没年不詳)
備中の伊勢盛貞(盛定)の子。新九郎、長氏とも。
一時足利義視に仕えたが致仕し、妹の夫・今川義忠(範満の従兄)を頼って仕えた。
義忠死後の今川氏の家督継承問題に介入し、甥の竜王丸を今川家当主に据えようとした。
後に京に戻り、幕府の奉公衆をつとめている。
その後の消息は不明だが、同族との領地争いなどの史料が残されている。
政治58 戦闘25 智謀48 魅力28
165 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:05/03/02(水) 22:36:21
長尾景虎(1530〜?)
病弱な兄晴景に代わり、越後守護代長尾家を継ぐも越後国内では国人同士の争いが絶えず、
国主の座にあることに嫌気を感じて突如出奔。
初め、国人達の反省を促すための芝居であったが
誰も呼び戻そうという者が現れず、そのまま高野山へ向う。
その後の足取りは不明である。
尚、景虎去りし後の越後は一族の長尾政景が継ぎ、越後の動乱を治める。
長年の景虎と政景の争い、政景が勝利する形で決着が着くも
10数年後、越後は武田家に蹂躙され、武田の下風に立つことになる。
169 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/03/02(水) 23:55:06
謙信 (生没年不詳)
戦国時代の僧侶。越後で毘沙門宗を開き初代法主となった。越後守護代・長尾氏の出身といわれる。
毘沙門宗は慈善と博愛を旨とする仏教の一派で、保護を求める人を徹底的に支援し、
不正義のはびこる地上に正義と秩序をもたらし、きちんと塩を流通させることを基本教義とした。
初代法主謙信の発した教令により、小田原と北信濃の解放が宗徒の宗教的義務となり、
白尽くめの毘沙門宗徒の大群が三国峠を越え関東平野を南下して小田原城を取り囲んだり、
北信濃を統治する武田家に対して川中島で合戦を挑むことが毎年のように繰り広げられたりした。
江戸時代、キリスト教・日蓮宗不受不施派とともに
毘沙門宗が禁制の対象となったのはよく知らているが、
毘沙門宗は宗徒の妻帯を禁じていたために、享保の頃までには自然消滅した。
168 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/03/02(水) 23:27:33
長尾晴景 (1509〜1584)
越後守護代。父は長尾為景。健康には人一倍気を使った人物であると伝えられる。
1536年家督を譲られ、越後の国人の争いを、調停したり鎮圧したりどうにかこうにかやりすごした。
武名もそこそこ、外交もぼちぼち、小笠原長時や村上義清を追い返したり、
関東管領職就任を拒否したりといろいろあったが、
とりあえず越後に小さくまとまり、内政を充実させた。
風向きを観る目は確かだったようで、早々と織田信長に従うことに決め、春日山15万石を安堵された。
136 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:05/02/28(月) 09:59:38
上杉憲政(1523〜1609)
山内上杉家当主。北条氏と戦って敗れて越後の長尾景虎を頼り、
上杉の家名と関東管領職を譲って隠居した。
その後は歴史の表面に出ないまま幸せな老後を送り、
1609年に上杉景虎の統治する米沢で没した。享年87。
121 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:05/02/24(木) 19:47:04
[北条氏直](1562〜1610)
氏政の子。江戸幕府初代将軍。
1589年、豊臣秀吉の命に従い上洛。
上野国の一部を没収されるも、ほぼ所領を安堵される。
その後、東北に転封になった徳川家康
上杉景勝・毛利輝元・前田利家らと共に五大老に就任。
秀吉の死後、関ヶ原の戦いで石田三成率いる西軍と対陣。
別働隊を率いた父・氏政が中仙道で真田昌幸に釘付けにされるも
義父・徳川家康の助力により、西軍を撃破。
1602年、征夷大将軍に就任。本拠地を江戸に移し、江戸幕府を開く。
1610年、鶴ヶ丘八幡宮に参詣した帰途に落馬、落命す。
尚、氏直の死亡については、執権・徳川家康、秀忠親子による暗殺説が今も根強い。
122 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/02/24(木) 19:49:53
>別働隊を率いた父・氏政が中仙道で真田昌幸に釘付けにされるも
情けねー親だなww
143 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:05/03/02(水) 06:12:25
北条幻庵 1493〜1590
北条早雲の三男、長綱。
北条氏四代に仕え、おもに外交面で活躍した。
「北条幻庵覚書」を書き残し、文化人としても知られる。
当時としては稀な98歳もの長寿に恵まれたが、
いまわの際に「せめて一年早く死にたかった」と語ったという。
153 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/03/02(水) 13:52:04
猪俣邦憲 ?〜1592 【日本史をひっくりかえした男】
北条氏の家臣、沼田城代。1589年真田領名胡桃城を奪取。
天下の大半を手中に収めたかに見えた豊臣秀吉はこれを口実に北条氏攻撃を図ったが、
堅城小田原城を前に自滅し、天下統一はふたたびふりだしに戻った。
1711年の宇都宮幕府成立まで120年続く、後期戦国時代のはじまりである。
なお、猪俣邦憲は小田原の役の2年後、増水した利根川に転落して溺死した。
戦国を呼び戻した武将の、あまりにあっけない最期であった。
137 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/03/01(火) 22:10:07
佐竹義宣(156?−1630)
常陸国守護佐竹義重の嫡男。佐竹当主。
父と共に悲願の常陸統一を達成。
関が原の折には、恩顧の三成とは手を切り徳川につく。
戦後、蝦夷96万石に加増される。アイヌの民の統治に手を焼く。
139 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/03/01(火) 23:55:51
伊達政宗 (1568〜1636)
伊達輝宗の二男。幼名竺丸。伊達家中興の祖の名を継ぎ、小次郎政宗と名乗った。
1584年に輝宗より家督を譲られ伊達家を継承し、近隣の二本松氏・芦名氏などと戦った。
1590年、義兄・最上義光とともに小田原に参陣して本領を安堵された。米沢藩30万石の祖。
伊達梵天丸 (1567〜1571)
伊達輝宗の長男。疱瘡で早世した。
164 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:05/03/02(水) 22:26:03
斎藤道三
蝮の異名をとった梟雄。
美濃の守護土岐氏を追放し、支配権を獲得した彼は、隣国尾張に目をつける。
尾張の実質的な支配者である織田信秀の息子信長に娘をやって更に手なずけ、信秀を暗殺。
道三は戦わずして尾張をも手にした。
その後飛騨の三木氏を攻めて1557年これを支配下に置いた。
1560年、三国同盟で東の憂いを断った海道一の弓取り今川義元が
40000の兵を率いて上洛の兵を進めてくる。
迎え撃つ斎藤軍は35000 両軍は矢作川で激突した。
結果は両軍会わせて4000人の死者を出して痛み分けに終わった。
1564年、伊勢侵攻を画策中に突如死亡した。彼の意思は義竜に引き継がれていく…
107 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/02/22(火) 19:57:58
長宗我部国親
「二階から飛び降りたら長宗我部再興!これマジ!」というお公家大名の戯言を真に受けこれを実行。
辛くも一命を取り留めたものの半身不随に。
結局長宗我部は復活することなく国親は土佐中村の寺子屋の先生として一生を終える。
出来の悪い子供に対しては月謝として一両要求したことから、
こののち「一両愚息」という言葉は土佐においては無能の代名詞となったといわれる。
129 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:05/02/27(日) 19:45:43
宇喜多秀家(1573〜1655)
宇喜多直家の次男。羽柴秀吉の養子となる。
天下人・豊臣秀吉の明征服後、日本国王に就任する。
岡山城を中心に国を治め、民から絶大なる信頼を得た。
そして1595年には岡山幕府を開くに至った。
1598年、中国大陸の豊国王・豊臣秀吉が没すると、中国や朝鮮で独立運動が活発し、豊国は崩壊。
豊臣秀頼やその家臣らは日本に戻ってきた。
秀家は日本の政権をすぐさま豊臣秀頼へ返上しようとしたが、
民は宇喜多幕府に心服しきっており、抵抗運動を展開。
これでは政権交代は出来ず、豊臣家は宇喜多幕府の一員とならざるを得なかった。
しかし1615年、豊臣家を担ぐ徳川家康らが挙兵。
秀家はこれを討伐しようと10万の大軍で関東を攻撃。1年に渡る戦争で徳川家は滅んだ。
次いで1617年、豊臣秀頼が挙兵したので、秀家はこれも征伐し滅亡させた。
この後、幕府の力を固めた秀家は、1655年に死去した。
132 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/02/27(日) 22:05:32
足利政知(1435〜1491)
足利義教の子、義政の弟。
古河に移り、実力者上杉氏や幕府権力に反旗を翻した足利成氏に代わり、
1457年に鎌倉公方に任じられた。政知にはじまる公方家を後鎌倉公方家と称する。
政知は幕府の精鋭軍を従えて下向、関東探題渋川義鏡に支えられて権力基盤を強化し、
古河公方成氏と対立するとともに、のちには関東管領上杉一族とも抗争した。
幕府から派遣されて政知に仕えた奉公衆・伊勢盛時と、
扇谷上杉家の重臣・太田道灌の数々の名勝負はよく知られている。
なお、将軍家に養子に送り込んだ政知の子・足利義澄は1493年に征夷大将軍となっている。
後鎌倉公方の軍事力を背景にした義澄以降の室町時代を「後鎌倉時代」と呼ぶ研究者もいる。
177 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:05/03/03(木) 23:09:26
武田信玄 1521年〈大永元〉−67年〈永禄10〉 戦国武将
戦国期の武将。甲斐国の守護大名。
のち信濃・駿河と上野・飛騨・美濃・三河・遠江の一部を領有する戦国大名となる。
名は晴信、出家後は信玄と号した。
武田家は清和源氏の一族で、鎌倉初期から代々甲斐国守護職を務めた。
1541年(天文10)、戦国大名としての基礎を築いた父・信虎を隠居させて駿河の今川氏へ放逐、
21歳で家督を継ぐ。直後から信濃への侵攻を開始、
諏訪・小笠原・村上氏など制圧し、53年にはほぼ信濃を手中に収めた。
一方、敗走した村上義清らは越後の上杉謙信に援助を求め、謙信は信濃へ出兵。
これが著名な川中島の戦の発端であり、
64年(永禄7)までのおもな対戦だけでも5度におよぶ。
その後両者の対決は北関東に拡大し、ここでも信玄は優位にたち、66年には西上野を領有した。
また同じころ飛騨へも侵入し、金刺氏などの旧族を滅ぼして領有した。
しかし翌67年、情事の縺れから重臣高坂弾正に刺殺され武田家は滅亡した。
178 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:05/03/04(金) 00:16:16
千宗旦
千少庵の子。利休の孫にあたる。江戸幕府に仕え、将軍家茶道総師範になった。
幕府諜報網の中核を担っていたといい、二男の烈堂が率いたという「裏千家」は、
時代小説の悪役の定番である。
180 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/03/04(金) 02:05:32
細川護煕(1938〜)
肥後熊本藩16代藩主
1980年後半からのリクルート事件などの汚職や、
湾岸戦争における幕府の対応の遅れなど、
幕政に批判が集まる中で、1992年(平成4年)文芸春秋誌上で「外様譜代連合」構想を発表する
1993年参勤交代制度改革で幕府内が対立する中、
譜代大名を離脱した井伊家と薩摩島津家、長州毛利家などと連合し、
1993年に大老に就任し、御三家らと妥協し、参勤交代制度改革を実現させる
幕政改革を国民から期待されるも佐川急便からの献金スキャンダルが発覚し、辞任した。
その後御三家尾張徳川家、島津家、会津松平家による三家が成立した
185 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:05/03/05(土) 00:18:34
芦名小次郎盛道(?〜1589)
伊達輝宗の次男。幼名竺丸。旧名伊達小次郎政道。
年齢は不詳で政宗の1つ下とも年の離れた弟とも。
芦名盛氏の要請により養子入りし芦名家を相続。
輝宗・盛氏両人の存命中は伊達・芦名の友好関係を維持するも、
両人の死後、伯父最上義光と通じて伊達挟撃を謀る。
元々、父輝宗に疎まれ母保春院に伊達より最上大事と吹き込まれてそだった小次郎である。
母保春院も密かに黒川入城を果たし、小次郎を支える。
芦名家相続争いに敗れた二階堂家は伊達・芦名連合に敵対していたが
両者が対立するにあたり伊達方に。
伊達は佐竹と結び、芦名は北条と結び対抗・・・と二者の外交は奥州から関東と膨張。
しまいには伊達が北条と敵対する豊臣と結び外交的に有利に。
伊達派:伊達・佐竹・上杉・二階堂・田村・石川・岩鬼・<豊臣>
芦名派:芦名・最上・二本松・大内・相馬・大崎・葛西・<北条>
1589年、伊達・芦名が摺上原にて激突。
伊達方:猪苗代盛胤、芦名方:猪苗代盛国と父子同士の壮絶な小競り合いから始まった合戦は
伊達が勝利をし、芦名は壊滅的敗北。
暗夜、伊達領を通り抜けて最上義光と合流しようとするも捕えられて斬首にされる。
尚、小次郎死後伊達家が会津を占領し、100万石大名に。
早くから豊臣家に接近していたため旧来からの伊達・芦名領を安堵されることに。
186 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:05/03/05(土) 00:39:00
曹操孟徳(155〜173)
沛国の人。四人の皇帝に仕え、重用された宦官曹騰を祖父に持ち、その養子となった曹嵩を父に持つ。
素行が悪く悪評が絶えなかった曹操はある日、夜這いから逃げる途中、
自ら「曹操はここにいるぞ!」と叫び街の人々に取囲まれ殴り殺された。
そのため彼の幼名の阿瞞は愚か者の代名詞となった