歴史が違う方向に行ってた場合の人物略歴 適当にまとめ その1

戦国時代

1 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:05/02/09(水) 23:23:36
 織田信長(?―1560?)
  尾張守
  尾張守護代・織田氏の家を乗っ取って一時期尾張を支配したが、
  上洛途中の義元に攻められ滅亡。
  その後自害したとも諸国を放浪したともいわれている。
 
 明智光秀(1528―1582)
  明智幕府初代将軍。明智光継(仮)の嫡子
  明智氏は代々土岐氏に仕える城主。
  その後、織田信長に仕えるが暴政を敷く信長に止むを得ず、信長を討つ。
  その後、羽柴秀吉を山崎にて討ち取り近江坂本に幕府を開く。
 
 10 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/02/10(木) 17:30:11
  明智検地帳〜尾張巻(現・国会図書館蔵)
 
  (前略)
   この年・尾張の国中村を検地する。
   中村地方の総石高はおよそ100石だった。
   尚、この際に猿に似た百姓が抵抗したために斬殺した。
  (後略)
 
  秀吉のことです
 
72 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/02/16(水) 00:04:43
 織田信長
  茶人。三郎、無楽斎と号す。戦国武将織田信秀の子。
  優秀な能力を持っていたが、その奇抜なセンスが親や家臣に全く理解されず、
  信秀没後の後継争いに敗れ、諸国を放浪。
  堺で今井宗久の弟子となり、卓抜したセンスで独創的な茶器を作り、
  茶人として天下第一の名声を得るも、天下を再統一した将軍足利義輝と次第に対立を深め、
  1582年京都本能寺茶室天下布文庵に於いて自刃を命じられ、
  管領土岐(明智)光秀の監視の元、弟子の松平元康に介錯され死亡した。
  室生駒氏との間に生まれた常真斎信雄が茶道織田流を三河松平藩に於いて再興し、
  その流派は現代でも続いている。
  尚、信長自刃の折下人で黄金細工に優れた猿の藤吉なるものも殉死し、
  「下人といえども人情を知るもの哉、世が世なれば天下を取るべき人だったやもしれぬ」と
  土岐(明智)光秀は嘆息したという
  (光秀公記『織田無楽斎の事並びに下人忠義の事』)。
 
78 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/02/16(水) 15:50:04
 【織田信長】
  尾張半国の大名・織田信秀の実子。
  嫡男であったが、信秀の葬儀で見せた奇行な振る舞いなどで家中の反感を買い、
  それをいち早く察知した信長は、尾張を去り、遠く武田信玄の元へと流れた。
  武田家では人が変わったようにめきめきと頭角をあらわし、
  尾張の大うつけ、甲斐では楠正成と称され、その名声は遠く京まで轟いたという。
  また正式に信玄の養子となり、その頃から武田信長を名乗った。
  1570年、武田家は信長の活躍などもあり、ついに宿敵上杉家を倒した。
  またその頃、今川義元は、織田、北畑を倒し西へと勢力を拡大していたが、
  信玄の急成長に同盟を一方的に破棄、大勢力どおしのぶつかりあいとなったが、
  密かに北条家へ武田を味方するよう画策していた信長の活躍もあり、
  やがて今川は押されてゆき、やがて滅んだ。
  そして満を持して義昭と共に上洛を決行した武田は、ついに名実ともに日本最大の大名となった。
  将軍となった義昭はすぐに信玄に副将軍を与えたが、信玄の重臣となっていた信長が信玄に対し、
  受けるべきではないと主張したため、やむなく辞退した。
  その態度に不信感を募らせた義昭は、信玄打倒を発したが、すでに信玄の敵と言える者はおらず、
  やがて義昭はそれを口実に処刑されてしまう。
  そして信玄は将軍に任じられるが、その途端病死、
  今川との戦いの際に義信はすでに死亡していたため、勝頼が跡を継ぐはずだった。
  しかし信長の実力を疑わない家中の者や、信長の直臣によって、信長が担がれたために内乱が起きた。
  やがて勝頼が敗れると、その一派は粛清され、武田家は信長が正式に跡を継ぐこととなった。
  そしてとうとう日本を統一、ここに武田信長による天下は来た、と、
 
 
  甲斐公記は伝えている。
 
33 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/02/14(月) 17:24:30
 【織田信忠】
  日本を統一し、戦国を終わらせた織田信長の嫡男。
  父・信長の遺言に従い、外国との外交・貿易を積極的に進めたが、若死してしまう。
  その後、稀代の野心家・明智光秀と羽柴秀吉に謀反を起こされ、織田政権は崩壊した。
 
28 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/02/13(日) 20:30:23
 織田家の忠臣 木下秀吉 1537-1598
  織田家の部将
  1570年浅井長政が寝返った際
  自ら殿に希望し僅かな兵と共に金ヶ崎に残る。
  なんとか浅井・朝倉の大軍を食い止め信長を無事京まで逃がすことができたが
  自身はこの戦いで戦死した。
 
  政治23 統率72 智謀53
 
 31 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/02/14(月) 01:05:03
  >>28
  いいね 実際本当に死んでたらそんな能力だったんだろうな・・・
 
79 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/02/16(水) 16:14:57
 豊臣秀吉
  尾張中村の農民の子。
  織田信長に仕え、人望と知略を用いて戦功を重ね、
  足軽から一国一城の主へと出世し、羽柴氏を称した。
  その後、信長の中国進出の中心を担う。
  天正十年、備中高松城を包囲中に本能寺の変を知らせを受け、
  素早く軍を帰し山崎の合戦で明智光秀を破った。
  翌年、柴田勝家を滅ぼして信長の後継者の地位を確立。
  天正十二年、小牧長久手にて織田信雄・徳川家康と戦い、後に講和。
  同十三年に四国の長宗我部氏、同十五年に九州の島津氏を平定。
  この間、関白・太政大臣に任ぜられ豊臣姓を賜る。
  天下統一まであと一歩という、天正十八年、
  後北条氏の小田原城包囲中、帰順していた奥州の伊達政宗によって放尿中に殺害される。
  このとき秀吉は、自らの太刀を政宗に預け後ろに控えさせ、得意げに兵法を語っていたという。
 
91 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/02/19(土) 22:09:02
 羽柴(豊臣・徳川)秀頼
  江戸初期の大名。大和郡山藩祖。
  豊臣秀吉の第二子として生を受ける。母は浅井氏(淀殿)であったが、
  生まれてすぐ北政所の元に送られ、柳生石舟斎に剣術を学び、質実剛健な人物となった。
  大柄な彼は体格を生かし、自ら豊臣新陰流を創始し、石舟斎から絶賛されたという。
  幼い頃から英明を謳われた彼は、時代の趨勢は既に徳川幕府に傾いて居る事を知っており、
  二条城で徳川家康と会見した時、大坂城返上を明言。家康をあっといわせる。
  大野治長や生母浅井氏(淀殿)はこの発言に激怒し、1615年秀頼の子国松を秀国と改名させて
  後を継がせ、豊臣政権復活を図るが、機先を制した秀頼が豊臣新陰流の剣を以って大野を斬殺。
  秀頼の意を受けた片桐且元が淀殿を出家させ、計画は頓挫する。
  大坂城を去った秀頼は、大和柳生に於いて愛妻・千と伴にしばらく隠棲していたが、
  家康は彼の英明さを愛し、羽柴秀長の家を継がせ大和郡山一万石の捨扶持を与えた。
  その後、柳生宗矩に推挙され堺奉行となり、秀吉により破壊された堺の復興に尽力し、
  父秀吉が猿とあだ名されていたことに因み猿飛佐助という
  偽名を使って真田信繁・大岩(長曽我部)祐夢と伴に諸国を巡回し、
  悪人を退治するなど、多方面で活躍した。
  徳川姓を賜り御三家に準ずる扱いを受け、石高は最後には15万石に達している。
 
84 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/02/16(水) 21:54:31
 【石田三成】
  治部卿、左吉。戦国〜江戸初期の徳川家臣。
  近江の国に生まれた彼は、織田家臣羽柴秀吉によって武将として見出され、
  薫陶を受け、次第に頭角を表した。しかしそんな彼を悲劇が襲う。
  1582年、山崎の戦いで主君秀吉が戦死。信義に薄い羽柴家臣は次々に敵の明智家に使えたが、
  義に篤い彼と親友の大谷吉継(越前鯖江藩祖)・片桐助作(摂津茨木藩祖)の三名は
  「主君の仇とは伴に天を頂かず」といい、徳川家に仕官。
  家康は彼の優秀さを一目見て気に入り、井伊万千代とともに近習とする。
  「へいくわい者」と呼ばれた三成は負けん気と得意の弁舌を生かし、
  信濃の真田昌幸・越後の上杉景勝など徳川家と反目していた大名を次々に徳川方に付け、
  柴田勝家を破った明智光秀に対抗しうる勢力を作り上げる事に成功する。
  これにより天下は東西に二分され、1600年の関ヶ原の戦いまで決着の付かない混戦状態となった。
  関ヶ原の戦いでは徳川秀忠の軍師として中山道を通過し、
  戦が不得手な秀忠に変わって西軍・福島正則を討ち取る活躍を見せた。
  関ヶ原の後、故郷の近江長浜に於いて十二万石を領し、
  江戸幕府初代老中として武家諸法度などの制定を行った。
  柴田勝家養女(茶々)と大恋愛の末結婚し、
  妻との間に重家・(羽柴)秀頼の二男があり、
  羽柴家を継いだ秀頼は豊後日出藩祖として幕府に重きをなした。
  1632年、徳川幕府の長老として惜しまれながら死去。
 
 85 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/02/17(木) 07:42:31
  >>84
  まあ、三成が徳川家だったら
  江戸幕府初期に官僚としての手腕を思うさま発揮できたかもな
 
  86 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/02/17(木) 13:59:53
   >>85
   思いっきり本多親子と被るけどな。
   下手に増長すると、正信の追い落とされ罠。
 
2 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/02/09(水) 23:44:15
 松平元康(?―1560)
  三河の豪族。義元の傘下に入る。
  後、義元の上洛に従い討ち死に。
 
  さびしいww
 
 37 名前:無名武将@お腹せっぷく
投稿日:05/02/14(月) 19:15:52
  松平忠政(1540?〜?)
   松平広忠の長子で元康の異母兄。
   幼少の折から岡崎城外で過ごしてきたが
   1560年、今川の尾張侵攻時に今川方の先鋒として
   華々しく討死した松平家当主元康、その子竹千代も相次いで病没したため
   今川義元により、松平家当主として擁立される。
 
21 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:05/02/11(金) 03:49:11
 徳川家康
  戦国期の大名。三方が原の合戦で散々悩んだあげく、
  出撃し、武田信玄(※現在の日本皇帝・武田としゆき様のご先祖)に討ち取られた。
  いまも諺で、悩んだあげく失敗することを『狸の糞もらし評定』と言うのは、この故事による。
 
81 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/02/16(水) 17:04:01
 徳川家康
  幼い頃は織田・今川の人質として過ごし、桶狭間の戦い直後に岡崎城に帰り自立。
  以後は織田と同盟を結び今川・武田と戦い、
  本能寺の変の混乱に乗じて三遠駿甲信を領する大大名となる。
  1度は秀吉と敵対するも後に臣従し、小田原征伐の後に関東へ移封され、
  豊臣政権下の大名の中で最高の地位を得る。
  秀吉の死後、石田三成と対立し関ヶ原にて決戦を展開するも、
  傍観していた小早川秀秋の陣へ不用意にも発砲し、秀秋の逆襲を誘発、大敗した。
  家康は逃走中に捕らえられ、京都六条河原にて処刑された。
 
 70 名前:無名武将@お腹せっぷく
投稿日:05/02/15(火) 23:04:12
  織田・松平5代の怨恨
   1.信秀vs清康
    守山崩れにて清康死亡、勢いに乗じて岡崎に攻め入った信秀、
    井田にて松平の寡兵に討たれる。
   2.信広vs広忠
    安祥・岡崎にて対峙、小豆坂にて広忠死亡、
    太原雪斎率いる今川軍の後援を得た松平軍が安祥を強襲し、
    尾張へ逃げ遅れた信広自害。
   3.信長・元康
    1560年、今川義元が大軍を率いて尾張に来襲。
    元康、佐久間大学を討つも、織田・今川本隊同士の最終決戦
    「庄内川の合戦」にて先鋒の元康討死、寡兵の信長も今川勢に討ち取られる。
    信長の遺児奇妙丸、西国に亡命。元康遺児竹千代、
    幼弱ながら今川一門として松平家相続を認められる。
   4.信輝(信忠)vs真康(信康)
    信長死後、その遺臣に連れられて西国各地を放浪した奇妙丸が
    最終的に行き着いたのが毛利家、上方に安定勢力が現れないため
    自ら天下を取るべく邁進。奇妙丸、当主輝元の偏倚により「信輝」。
    毛利上方進出の際、側女を持ち一子「三法師」を得る。
    もう一方の松平竹千代も義元の子氏真の偏倚を受け「真康」。
    年増し後家の西郷氏との間に1子「長松丸」を得る。
    今川家と武田・北条との同盟関係も今や今川が盟主的な関係。
    天下取りを目指す両家m1582年、近江愛知川にて初の衝突。
    両軍、未曾有の損害を出す戦となり信輝・真康相討ちの一騎討ち。
    あまりの損害のため、両家10余年の静寂を余儀なくされる。
   5.就信(秀信)vs氏忠(秀忠)
    長年沈黙を守ってきた毛利と今川が 1600年、関ヶ原にて激突。
    織田・松平の間にも最終決闘!その勝敗は不明。
 
  75 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/02/16(水) 10:50:58
   >>70
   >織田・松平の間にも最終決闘!その勝敗は不明。
   ここまできて勝敗不明かよw
 
  77 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/02/16(水) 14:27:37
   >>70
   >  奇妙丸、当主輝元の偏倚により「信輝」。
   その法則なら「信輝」じゃなくて「元信」か「元長」とかだろ。
   あともう一つ突っ込むが、「偏倚」じゃなくて「偏諱」では?
 
   76 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/02/16(水) 13:53:44
    大阪夏の陣
     1615年、徳川家康・秀忠親子が豊臣秀頼の立て篭もる大阪城を攻めた。
     当初は徳川軍の圧勝かと思われたが、
     真田信繁・毛利勝永の捨て身の突撃で家康・秀忠親子が討ち死にするという事態に。
     結局大阪城は落ちず、徳川家では家督相続争いが勃発。
     地方でも関ヶ原で改易された大名の残党が蜂起するなど、再び戦国の世に戻ってしまう。
     そこにつけ込んだイギリス・スペインなどのヨーロッパ諸国の侵略を受け、
     以後、1867年にTYOUSYU・SATUMAが海外勢力を追い出すまでの
     250年以上にもわたり我が国は植民地支配された。
 
102 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:05/02/21(月) 23:21:54
 徳川家康(1542〜1615)
  大坂夏の陣にて真田隊の猛反撃に遭い、数度の本陣後退。
  輿に乗っての退却中、真田方の将兵により
  輿の外から槍を受け絶命し、遺体は近くの南禅寺に葬られる。
  世上の同様を防ぐため、1年限定で小笠原秀政が影武者を勤め、
  南禅寺にひっそり眠るは家康、東照宮で大いに祀られるは秀政・・・。
 
103 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/02/22(火) 18:53:31
 鳥居強右衛門
  徳川・武田に仕えた奥平貞昌配下の足軽。
  貞昌が武田家から徳川家に鞍替えし、長篠城を包囲されると得意の泳ぎで武田の包囲を突破。
  織田信長に援軍を要請し快諾させた。しかし、城への帰りに武田軍に捕縛され、磔にされる。
  武田軍から「援軍は来ないと叫べば助ける」と言われると言われた通りに叫び、
  これにより長篠城は落城した。
  城の救援に駆けつけた織田・徳川軍も落城の報を聞き退却する途中に追撃を受け、
  殿を務めた本田忠勝が討ち死にするなどの被害を被る。
  このことで強右衛門は武田家に召抱えられ、武田勝頼に従い各地の合戦で活躍。
  武田家の天下統一の折に長篠城など5万石を与えられた。
 
82 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/02/16(水) 18:40:01
 前田利家
  織田家家臣。後に秀吉に従う。
  甥の前田利益が出奔する際、水風呂に入れられて心臓マヒで死亡した。
 
34 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/02/14(月) 18:21:04
 【武田信玄】
  猛将と言われた武田信虎の息子。
  父・信虎を、信虎に不満を持つ重臣達と共に追放。
  しかしそのせいで重臣達の持つ権限は大きくなり、事実上傀儡政権となった。
  力ある重臣達の拡大政策が上手くいき、それなりに大大名となるが、
  武田家内の立場は変わらなかった。
  後にその状況を打破しようと試みるも、今度は息子・義信と重臣たちにそむかれ、
  自身が追放される羽目となった。
 
  統率66 智謀38 政治71 魅力47 教養73
 
87 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/02/18(金) 00:02:59
 【武田信玄】
  一説に上杉家臣武田義信の父という。晴信、信繁とも。
  甲斐源氏武田氏の末裔。
  寵童上がりの佞臣高坂弾正にそそのかされ、
  譜代の臣をないがしろにし、民に圧政を強いたと伝わる。
  謀略と裏切りをもって諏訪や信濃など周辺諸国を併呑するが、
  信濃に侵攻した上杉謙信に敗北、甲斐に逃げ延びる途中、落武者狩りの一揆農民に討ち取られる。
  現在、長野県・山梨県には武田氏時代の事跡は何一つ残されておらず、居城の場所さえ定かではない。
  郷土史家の中には、上杉謙信が残した謙信堤や棒道の一部は、
  武田時代に既にあったと身びいきな説を唱えるものもあるが、真偽は論をまたない。
  高坂弾正の暗躍は、江戸時代に歌舞伎などにより民衆に広まり、陰湿な悪役の代名詞として有名。
  戦前、榎本健一が演じた「川中島の戦い」の武田信玄は、毛ずねをむき出しに逃げまどうさまが、
  古来より伝わる信玄のイメージをよく伝えており、人気を博した。
 
35 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/02/14(月) 18:27:43
 【長尾景虎】
  越後の幻の猛将と言われる。
  戦では類まれなる才能を見せるが、家臣達の心は掴めず、反乱が相次いだ。
  とうとう我慢できず、大名という立場を捨て、仏道に入った。
  その後も長尾家の反乱は治まらず、やがて隣国に吸収され、滅びた。
 
  統率97 智謀72 政治43 魅力11 教養54
 
  あんま変わんないな
 
47 名前:無名武将@お腹せっぷく
投稿日:05/02/14(月) 22:57:11
 毛利 勝永(もうり かつなが)
  天正5年(1577)?〜慶長20年(1615)
  勝永は大坂城の弱点とされる城南の平野口の外側に「毛利丸」という出丸を築き守備。
  来襲した前田利常らを痛撃して、天下に名を轟かせた(毛利丸の攻防戦)。
  夏の陣では大和口迎撃の後衛に配置され、誉田の戦いで伊達政宗を撃退。
  翌日の天王寺・岡山の戦いでは家康麾下を突き崩して、
  これを窮地に追い込む大活躍を見せたが多勢に無勢。一歩及ばず戦死した。
  その活躍は、島津家の薩藩旧記に「毛利日本一の兵、古よりの物語にもこれなき由」と絶賛され、
  後に講談の題材にもなり「毛利十勇士」「毛利の抜け穴」など数多くの伝説を生んだ。
 
  政治53 戦闘98 智謀89
 
 真田 信繁(さなだ のぶしげ)
  永禄10年(1567)〜慶長20年(1615)
  冬の陣では西ノ丸・惣構今橋を守備。
  夏の陣では大和口の後衛に配置され、誉田の戦いでは殿を務める。
  天王寺・岡山の戦いでは豊臣軍の開戦の口火を切って
  本多忠朝・小笠原秀政の大名二人を討つ大活躍をしたが、
  味方の毛利勝永隊の壊滅により敗勢となると撤退。落城の際、秀頼に殉じて自害した。
  その戦いぶりは、江戸時代の文人・神沢杜口が「惜しいかな後世、毛利を云いて真田を云わず」
  と嘆く程であったという。
 
  政治65 戦闘80 智謀59
 
  ・・・正直、勝永が家康本陣に突っ込めたのは信繁のおかげじゃん
 
64 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/02/15(火) 20:45:48
 長宗我部盛親
  土佐の大名長宗我部元親の息子。
  関ヶ原の戦いで西軍に付き所領を没収される。
  その後は寺子屋の師匠として余生を過ごし多数の人材を輩出した。
 
 真田信繁
  真田昌幸の次男。
  関ヶ原の戦いの際、父昌幸とともに徳川軍を釘付けにしたが、西軍が敗北したため九度山に流される。
  極貧生活の中開発した紐が評判を呼び、それは真田紐と名付けなれた。
  彼の死後真田家は赦され、子の幸昌は堺で真田紐の販売で財を成し、真田屋の祖となった。
 
90 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/02/19(土) 04:01:33
 長宗我部盛親
  土佐の大名長宗我部元親の息子。
  関ヶ原の戦いで西軍に付き所領を没収される。
  その後は寺子屋の師匠として生活を立てようとしたところ
  「元大名の寺子屋」という評判が人を呼びこれが大繁盛。
  後に寺子屋から青年を対象にした私塾と改変。
  医学・理学・法学など総合的な学問を扱い、
  今日の大学の元になるような教育体制を整備する。
  現在の私学の雄「長宗我部義塾大学」の創始者。
  高額紙幣の顔として老若男女に知れ渡っているのは周知のとおり。
 
15 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:05/02/10(木) 20:58:47
 今川氏真
  今川幕府2代将軍
  父・初代将軍今川義元死後、父の作り上げた強固な官僚機構・常備軍を背景に、
  全国に渡って善政を敷いた。
  戦は不得手であったが、彼の内政手腕は確かなものがあり、今川幕府の礎を築いた。
  また、彼は風流人であったため、今日の日本文化に多大な影響を与えた人物でもある。
 
26 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/02/13(日) 18:52:43
 今川氏真(1536〜1614)
  三カ国の太守今川義元の息子として生まれた彼は、
  和歌・蹴鞠を得意とする一方で塚原ト伝に剣を学んだ武芸者でもあった。
  父義元が桶狭間で織田信長に敗れ世を去ると、
  剣の道に生きることを決め武田と徳川に領土・家臣を譲り渡した。
  以後、諸国放浪の末今川流剣術を興し、天覧試合で吉岡憲法を破り天下一と称された。
  その後、かつての配下徳川家の兵法指南役となってからも剣に対する情熱は衰えることは無かった。
  1612年には宮本武蔵・佐々木巌流の二人を打ち倒したが、
  1613年最愛の妻早川殿が亡くなると1614年、後を追うように世を去った。
 
 27 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/02/13(日) 19:15:10
  氏真カコエエ...
 
39 名前:無名武将@お腹せっぷく
投稿日:05/02/14(月) 19:31:05
 【伊達政宗】( 〜1590)
  安土桃山の東北大名。
  秀吉の北条攻めに参陣するが、
  遅参を咎められ持参した金の十字架に磔にされた。
 
59 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/02/15(火) 09:36:06
 伊達政宗(?〜?)
  輝宗の子。
  輝宗が人取り橋の戦いの際に、人質になった時にも構わず容赦なく父親側を撃った。
  しかし二階堂の隙をついて脱出した輝宗に、「不心得者」と叱咤されてその場で手討にされた
 
58 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/02/15(火) 01:28:55
 二階堂輝行(?〜1564)
  二階堂家17代当主。
  芦名家、田村家の度重なる領内への侵攻に苦しめられるが、
  忠臣の須田盛秀の献身的な働きにより、辛うじて領内を守りきる。
  しかし後に領主としての力がないと判断された盛秀に、酒宴の席で謀殺された。
  最も信頼していた家臣に裏切られた輝行のショックは大きかったと思われる。
 
41 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/02/14(月) 19:54:08
 二階堂盛義(1544?〜1581)
  二階堂家18代当主。1566年、芦名盛氏との戦いで勝利し、盛氏の長男盛興を人質とする。
  その後田村・石川・白河・二本松らの近隣の諸氏を降し、
  南奥州のほぼ全土を支配する戦国大名となるが、
  1581年伊達氏との戦いのさなか突然謎の発狂、陣中で自害した。
  その後二階堂家は急速に弱体化し、1589年伊達政宗に滅ぼされた。
 
65 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:05/02/15(火) 20:46:04
 斎藤竜興
  1562年、父義竜の後を継ぎ美濃1国を支配。
  家督相続時より織田の美濃侵攻軍と戦い
  墨俣にて織田方の将、柴田・佐久間を討ち取り、
  1566年、河野島の戦いにおいて
  織田に壊滅的損害を与え、信長自身も溺死させる大戦果。
 
53 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/02/15(火) 00:08:22
 土岐頼芸 1502〜1582
  美濃守護の兄・政頼を西村勘九郎の協力を経て追放する事に成功し
  自らが守護になると守護代長井藤左衛門を粛清
  さらには勢力を拡大してきた西村勘九郎さえも追放した
  その後、朝倉氏、浅井氏、織田氏と
  次々と美濃へ侵攻するもこれらを全て撃退
  美濃の足元を磐石にしたのち頼次に家督を譲る。
  しかし後に頼次と不和になり廃嫡を企てるもこれが露見し自らも国外追放された。
  追放後は各地で鷹の絵を描いていたという。
 
  政治58 統率74 智謀72 教養80

44 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/02/14(月) 20:17:41
 【浅井長政】
  浅井家大名。拡大著しい織田信長と同盟、信長の天下武布事業に大きく貢献した。
  信長による天下平定後、織田政権で重要な地位を得たまま病死。
  その後何百年も浅井家は安泰となり、戦国屈指の賢人と称される。
 
9 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:05/02/10(木) 17:17:29
 朝倉義景
  足利義昭を奉じて上洛。
  三好長慶・松永久秀を追い払い、義昭を15代将軍の座につける。
  しかし、反撃してきた三好三人衆に敗れ、京を追われる。
 
67 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/02/15(火) 21:07:27
 三好義興(1531〜1580)
  河内の戦国大名。
  父長慶の死後家督を継承。
  優秀な叔父達の後見の元、六角・畠山を滅亡させ、畿内の権力抗争を終結させる。
  さらに四国・東海にも手を伸ばし、これもほぼ統一。
  三好家の天下を誰もが疑わなかったが、父の代からの重臣松永久秀が突如謀反。
  当時京都の屋敷で連歌会を催していた義興の周りには全く兵は居なかった。
  こうして天下統一を目前にして義興は業火の中に生を終えた。享年49歳。
  また、松永久秀は一時畿内を掌握したものの、中国を攻略していた三好三人衆が7日で引き返し、
  敗北。居城の信貴山に敗走の途中、農民に討たれて絶命。
  「松永の3日天下」という言葉を残す事となった。
  また、三好家の後継者を決める「飯盛会議」が行われ、三好三人衆が「十河義継」を推挙する。
  しかし、実権は三好三人衆が握ったままであった・・・。
 
97 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/02/21(月) 05:38:06
 足利義輝
  足利幕府中興の祖。
  1546年。わずか10歳で父義晴に将軍職を譲られ13代将軍に就任する。
  この頃将軍家は三好長慶により京を追われ衰退していた。
  1552年、いったんは和解し京に戻るも再び決裂。またも京を追われる。
  一度は勢力を盛り返すも再び劣勢に立たされる。
  しかし長慶に幕府を滅ぼすまでの意思はなく1558年再び和解が成立し義輝は入京。
  その後義輝は各地の大名間の争いに積極的に介入。
  上京した長尾輝虎や織田信長と誼を結び徐々に名声を高める。
  更に1564年幕府を牛耳っていた三次長慶が死亡。
  その兄弟、嫡男も既に死亡しており好機と見た義輝は一気に勢力の巻き返しを計る。
  だがその動きを危惧した三好三人衆と松永久秀らは御所を襲撃。
 
  この最大の危機に義輝は、上泉信綱・塚原朴伝に習った剣術の腕前を遺憾無く発揮する。
  押し寄せる敵兵の中を側近達と共に決死の突入。
  三好三人衆・松永秀久を討ち取り危機を脱したのである。
 
  危機を脱した義輝は、この事態を逆に利用。
  将軍殺害を企てた三好家の討伐令を、一色・波多野・六角などに発令。
  この討伐令の効果は大きく、十分な兵力を揃えた義輝は三好家に決戦を挑む。
  家中の中心人物を立て続けに失った三好家は討伐軍に抗せず
  本拠地讃岐まで勢力を後退させる事となった。
 
  これにより、足利家は畿内の大和・摂津・和泉に基盤を獲得。
  これを日本再統一の足がかりとしていくのである。
 
 
 
  途中で投げだしちまった。
  なんかジャンプの打ち切り最終回みたいな締めだなorz
 
18 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:05/02/11(金) 00:11:23
 足利義昭
  足利幕府15代将軍
  兄で13代将軍の義輝が殺された後、
  信長の尽力により入京して将軍に就任。
  信長に対し「御父方」と呼んで報いるも決別。
  諸国の大名に対して信長討伐を呼びかける書状を送り「手紙公方」とあだ名される。
  1573年織田・徳川を滅ぼして入京を果たした
  武田勝頼の故父信玄を「御父方」と呼んで報いる。
  が、程なく決別し浅井・朝倉に書状を送り、
  少人数で東国に戻る勝頼を背後から襲わせて討ち取る。
  その功に対して朝倉義景を「御父方」と呼んで報いる。
 
  その後、御父方と呼ばれた者
  上杉・宇喜多・毛利・北条・大友・島津・・・。
  いずれも義昭の謀略で消されている。
 
83 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/02/16(水) 19:38:18
 島津義弘
  天文四年(1535)〜元和五年(1619)
  1600年 義弘66歳のとき関が原の戦いに参戦。
  小早川某の裏切りを事前に察知し、鉄砲を撃ちかけこれを未然に阻止。
  その後、大谷刑部小輔らと共闘。
  藤堂高虎、京極高知、さらには徳川四天王、井伊直正を討ち取るなどの戦功をあげるも、
  戦い自体は膠着状態に。
 
  およそ一週間の攻防の後、送れて参陣した徳川家嫡男、秀忠軍2万5千の活躍により、戦況は一変。
  一気に劣勢と化した石田軍に早々と見切りをつけた義弘は、豊久や盛淳にそれを提言。
  前代未聞の撤退戦を開始する。
  乾坤一擲の檄をもって徳川本陣を急襲した島津軍はそのまま松平忠吉を討ち取り、
  本田忠勝をも敗走させ、近江の国、水口までの退路を確保した。
 
  しかし、そこで義弘に急報が舞い込んだ。
  関が原の戦いが膠着したことにより、
  その間隙を縫って挙兵した黒田如水が九州を平定したとの報せが届く。
  進退きわまった感のある義弘であったが、その後の行動は素早かった。
  まず大坂、堺に軍を向けた義弘は、人質となっていた自身の夫人と忠恒の夫人を救出。
  そのまま海路をとり、北上。上杉景勝の下に参じ、これに臣従。
  家康を今度は背後から脅かす存在となる。
 
104 名前:無名武将@お腹せっぷく
投稿日:05/02/22(火) 18:54:05
 島津義久
  ●天文ニ年(1533)〜慶長十六年(1611)
  永禄九年(1566)、貴久から家督を継いだ義久は、
  弟の義弘らとともに領土拡張に乗り出し、天正十三年(1585)、九州統一を実現した。
  その後二度にわたる秀吉の九州出兵をしりぞけ島津九州国の実力を示すことになった。
  土佐・長曾我部元親の嫡子・信親、毛利両川の一翼吉川元長は、
  この時に島津の捕虜となり、その後島津の客将となっている。
  琉球王国を服属させ島津九州国として大陸の明朝に朝貢の使者を送り
  九州全土(及び琉球)の統治権を認められ、国号を筑紫と定め独立王国の道を歩むことになる。
  博多、長崎などの良港に恵まれ積極的な海外交易で経済通商機構の整備を進め
  軍事・経済大国として世界史に登場していくこととなる。
  
  文禄一年(1592)、家督を弟義弘に譲る。
  この際に秀吉自らが博多に義久を尋ね、翌年には秀吉が朝廷に言上し
  義久には鎮西管領、義弘には九州探題の官職を送る。
  これは秀吉一流の島津家の懐柔分断であったが
  文禄四年(1595)、義久が正式に引退し剃髪して龍伯と号した事から、この目論見は頓挫する。
 
  同・文禄四年に島津の大艦隊が高砂(台湾)征伐を敢行、
  これは倭寇退治であると弁明されたものの
  明朝との関係は悪化している事から推察して、
  日本の関係回復に伴い大きな海軍力を直接日本に向けることが不可能となったので、
  対外的な軍事誇示としてなされたとの見方が大きい。
  九州でのキリシタン布教認可の代わりに
  ポルトガルの布教代表コエリヨから借款せしめたこの時の遠洋艦の製造技術は
  その後、日本にも伝わり海外進出に大きな貢献をしていくこととなる。
 
105 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:05/02/22(火) 18:55:51
  島津九州王国の存在感が秀吉の奥州征伐を遅らせたことは事実であり、
  もし仮に島津が秀吉に屈服するような事態になっていれば、
  政宗は奥羽統一を待つことなく摺上原の戦いの近辺で秀吉の征伐を受けていたとする史家も多い。
  政宗が秀吉に対し一定の距離を置いて奥州独立王国の立場を貫けたのは
  島津、豊臣との等距離外交にあったとする点は論をまたないところで、
  実際、後進性の強い奥羽の王者として上方の秀吉と対抗するため
  島津の仲介でイスパニア貿易の振興や島津との軍事協力で実力を養っていく。
 
  小田原北条氏の攻略に兵を派遣するも一切の恩賞が伊達家には与えられず
  250万石という大封で徳川家康が関東を与えられたのは
  伊達政宗と徳川家康を牽制させる為とも言われる。
 
  ○関白太政大臣・豊臣秀吉
   版図:九州と奥羽を除く日本
  ○陸奥守、鎮守府将軍・伊達政宗
   版図:奥羽、蝦夷地、樺太
  ○鎮西管領、九州探題・島津義弘
   版図:九州、琉球、高砂(台湾)、呂宋、他東南アジアの日本人町全般
 
  この後日本は三国志に時代に突入していく。
 
  秀吉亡き後の覇権を巡る争いでは関が原の合戦では家康が大勝するも、
  長曾我部信親、吉川元長の暗躍で大阪に入城した島津義弘以下の島津九州軍の西軍参加で戦局は一転、
  その後の戦乱を経て慶長8年(1603)大垣会議で和睦が成立、
  日本は連合王国としての道を歩むことになる。
 
  日本連合国の確立を見届け慶長十六年(1611)大隈国分で死去、享年七十九歳
 
71 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/02/15(火) 23:46:02
 毛利元就
  左馬頭。安芸の土豪。病死した兄の跡を継いで当主と成り、
  尼子家と大内家の境で勢力をじわじわと広げていたが、
  陶全姜を厳島におびき出そうと姑息な手段を弄したことが
  江良三河守に見破られ、全姜の意を含んだ家臣井上元兼に暗殺され死亡した。
  このことから、短慮の人を「毛利の浅知恵」というて嘲るようになったという。(『陶藩閥閲録』)
  大河ドラマ「陶全姜」では妻に頼り子に当り散らす
  徹底した小人物として描かれていたことは記憶に新しい。
 
 毛利元春
  元就の次男、吉川家の養子となっていたが、
  父が暗殺されてからは養家を追放され、甥の輝元を連れて諸国を放浪。
  羽柴秀吉に仕え毛利家再興を願い上月城に拠ったが、陶の大軍に包囲され自刃した。
 
 毛利隆景
  元就三男。小早川家の養子となっていたが、
  父が暗殺されてからは養家を追放され、四国を放浪した後長曾我部家に仕え、家老にまで昇進。
  関ヶ原の役のおり、長曾我部家分裂の危機を収拾し、久武内蔵助を切腹させ、
  幕末まで続く長曾我部藩二十四万石の基礎を築く。幕末の長曾我部藩参政
  毛利象二郎(敬親)は子孫である。
 
4 名前:無名武将@お腹せっぷく
投稿日:05/02/10(木) 02:07:18
 毛利輝元
  安芸幕府・初代将軍
  関ケ原で徳川家康を破り、
  ついでその五年後、豊臣家を屈伏させ天下統一を成し遂げる。
 
  ちなみにその時の政敵・家康の墓は
  今も「江戸」という地名のさびれた田舎町にひっそりのたたずんでいる・・・
 
50 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/02/14(月) 23:20:06
 山中鹿之介幸盛
  尼子氏の家臣。
  毛利配下の勇将・品川大膳との一騎討ちにて首を獲られる。
 
  政治 5 戦闘52 智謀21
 
57 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/02/15(火) 00:31:22
 品川勝盛(15??〜1581)
  益田家臣
  元就の出雲遠征の時、尼子方の山中鹿介に一騎討ちを挑み見事討ち取った。
  1581年鳥取城を守備するも落城の際吉川経家とともに自害した
 
  政治19 戦闘68 智謀38
 
51 名前:無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:05/02/14(月) 23:26:03
 渡辺通
  出雲退却戦にて、かつて父の勝を討った毛利元就を撤退時の混乱に紛れて討ち取り
  以後、尼子方として元就の跡を継いだ隆元・両川との戦いにて勇名を馳せる。
 
99 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/02/21(月) 14:43:00
 大内義長
  大友宗麟の異母弟。
  1544年大内義隆の養子になる。
  この時、周防行きを諌めた兄に「燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らずや」と言い放ち決定的な対立を招く。
  1551年の陶晴賢の乱では相良武任と陶晴賢両者を和解させ義父義隆隠居で決着、という
  電撃的な政治工作を見せ大内領内の動揺を最小限に抑える。
  また義父の代から仕える毛利元就を国人から切り離し、直臣として参謀に迎える。
  この事により仲の悪くなった陶晴賢を1555年の厳島神社参詣の折に暗殺。
 
  また、1560年には月山富田城を元就の奇策で奪取。尼子晴久・義久親子は戦死。
  元就の奇策とは1542年の月山富田城攻めの二の舞に見せたもので、
  大内麾下だった吉川・本城・三刀屋などの国人衆が攻めあぐねる大内に愛想を尽かし、
  尼子に寝返ったように見せかけて内部から火の手を放つものであった。
  すでに元就の謀略によって尼子宗家から離れ、
  大内に帰属していた新宮党尼子誠久との壮絶な一騎討ちの末晴久は討たれたとある。
 
  1568年にはついに宿敵大友宗麟との北九州を巡る一進一退の戦いが始まる。
  立花鑑載・秋月種実・高橋鑑種・龍造寺隆信など反大友諸将と連携するも
  戸次鑑連・吉弘鎮種・一万田鑑実など大友麾下の前に各地で苦戦。
  ついに業を煮やした義長は元就の制止も聞かず、立花ら諸将を糾合して多々良浜で決戦に及ぶ。
  大内軍3万大友軍2万3000の戦い、誰もが大内優勢を信じて疑わなかった。
  ところが戦の最中に大内軍最左翼に陣取る筑紫広門が返り忠を働き、
  ほぼ同時に遅参してきた蒲池鑑盛率いる筑後からの大友の援軍1000に右翼を衝かれ総崩れになる。
  殿軍を務めた毛利隆元を始め立花鑑載・龍造寺長信などの戦死者を出し
  筑前・豊前から大内の勢力は一掃される。
  またこの戦いの参謀を務めた江良長栄(房栄より改名)は責任をとり切腹。
  義長は自らの責任を被り、大内軍内部崩壊を防いでくれた長栄の為に涙を流したという。
  これが後に言う「泣いて長栄を斬る」ということわざである。
 
100 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/02/21(月) 16:02:14
  また、この敗北により各地の反大内勢力の動きが活発になる。
  出雲には尼子秀久・倫久兄弟が、備後には三村家親が侵入を繰り返すようになる。
  これらの動きに対し義長は再び元就を参謀に迎え、適切に対処していく。
  1570年には神西城に尼子兄弟を破り秀久を討ち、倫久を敗走させる。
  また翌71年には芦田川の戦いで三村家親を大敗させる。
  この年元就が亡くなり元春は毛利を継いでいたので、隆景を新たに参謀に任命する
  このころから伊予の河野通宣が援軍を求めてくるが、兵力不足を理由に断る。
 
  1573年には再び九州に上陸。雪辱を試みるも大友に匿われていた大内輝弘が宗家を名乗り、
  大友の援助で山口に乱入。仕方なく1週間の滞在で退陣し、輝弘を敗死に追い込む。
  輝弘の「捨て駒や いつか花咲く 布石かな」は辞世の句としてちょっとした話題になる。
 
  1574年ついに重い腰を上げ伊予に兵を出す。
  河野・西園寺と連合し一条・宇都宮・大友連合と戦う。
  小競り合いに終始したが敵勢を追い返し数城を奪う。
  その直後、毛利元就の息子元清を河野通宣の養子にし河野家乗っ取りに成功する。
  翌75年には宇都宮豊綱を滅ぼし中予平定。
  すでに大内麾下になっていた西園寺勢を加え一条氏を滅ぼす。
 
101 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/02/21(月) 16:03:27
  1576年には三度九州に上陸。
  猛烈な勢いで途中の諸城を抜き、立花山城を包囲する。
  だが小勢の立花道雪の前に釘付けになる大内軍。
  そうこうしてる内に大友の軍が集結という話を聞いた義長は包囲を解くと門司まで後退する。
  軍内からは「戦う前から退却か」と不満の声が上がるが、
  ここで義長は船は対岸の下関にあり、退路は断たれている事を宣言。諸将の顔色が変わる。
  大友軍は敵が背水の陣である事を見抜くと、
  兵糧攻めにしようと下関からの水軍を完全に叩き兵糧運搬を阻止しようと田原親貫が提案。
  これに反対する道雪・高橋紹運と賛成する若手に意見が割れるが結局採用され、
  大友水軍100艘は下関に向かう。だがこれが隆景の策謀であった。
  壇ノ浦で迎え撃った大内水軍は潮の流れを利用し、潮が逆転する前に一気に殲滅したのである。
  源平合戦の再現はならなかったのである。
  また同時に義長率いる本隊も猛然と大友軍に襲いかかったのである。
  大内軍2万6000に対し大友軍4万5000と数の上では劣勢であったが
  狭い地形では戦線が伸びるはずもなく、実際に戦ってるのは7000対8000とほぼ互角であった。
  大内勢は背後が海という状況に加え義長自ら太刀を奮い督戦したため、
  士気がいやが応にも上がっていった。
  また大友勢は緒戦こそ互角に戦って見せたものの三刻も立つとじわじわ押され始め、
  水軍潰滅の報を聞き兵は浮き足立って次第に崩れ始めた。
  一度崩れた態勢が立てなおせるはずもなく大友勢は夕方には退却していった。
  義長は追撃を試みようとしたが、道雪や紹運が整然と軍をまとめ下がったので無理に追わず
  この門司の戦いは大内軍の圧勝に終わった。義長の鎧は返り血で真っ赤だったという。
 
  大友軍は立花山城を放棄し、豊前・筑後に兵を戻したので義長は立花山城に入城し
  筑前平定果ては宿敵大友宗麟との直接対決にこれからという時、
  1578年病に倒れこの世を去る。
 

三国時代

11 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/02/10(木) 19:00:51
 曹操
  橋玄に「治世の能臣、乱世の姦雄」と評される
  黄巾討伐に功を挙げるが、董卓軍の武将徐栄に攻め殺される
 
38 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/02/14(月) 19:27:48
 【曹操(孟徳)】
  宦官曹騰の孫。黄巾族討伐に貢献する。
  董卓の暴虐に耐えかね、暗殺を試みるが失敗し、その場で呂布に斬り殺される。
 
  統率:75 武力:64 知力:78 政治:67
 
  うーん、いまいち・・・
 
12 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/02/10(木) 19:32:33
 劉備
  公孫賛配下の武将。
  出陣してきた顔良に斬り殺される

69 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/02/15(火) 22:23:02
 関羽雲長
  故郷の河東で人を斬り、関羽と名前を変えて逃亡者となった。
  放浪中、琢郡で出会った劉備玄徳に官憲に突き出され、あえなく死刑となった。
 
20 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/02/11(金) 01:03:11
 張飛
  武力15 知力2 政務5 魅力9
 
  劉備配下の将
  袁術討伐に向かった、劉備の留守を守っていたが
  禁止されていた酒を飲み、呂府に隙を突かれて討ち取られる
 
45 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/02/14(月) 20:20:46
 【曹豹】
  曹豹、徐州の陶謙の部下。呂布の夫人の父。
  陶謙が死に劉備が徐州を継いだ際。劉備は袁術攻略で、張飛が留守をしていた。
  張飛は酒を飲み兵卒達にも進める、曹豹はこれを注意するが聞き入れられず
  「私が使える人物では無い」と考える
  そこへ呂布が攻撃を仕掛ける、
  城の者は張飛の薦めで酒を飲んでいて応戦できず、張飛は逃げ出す。
  だが曹豹に見つかり張飛は曹豹に槍をひとつきされ死亡、
  その首を呂布に差し出し以後重く用いられる、
  (この際、自分のむこであるから助けて欲しいという願いから呂布は曹操軍の将軍となる)
  曹操に呂布が負けたときも「燕人張飛」を倒した者、として目を付けられ後に南威将軍に任命。
  漢中を劉備軍より死守するなど多くの功績を残す。
 
 曹豹
 武力95 統率85 政治72 知力76 魅力84
 
 張飛
 武力76 統率 5 政治 4 知力10 魅力72
 
14 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:05/02/10(木) 19:59:58
 【呂布】
  武安国と戦い腕を切り落とされる。
  その後の行方は不明。
 
32 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/02/14(月) 01:22:19
 【呂布】
  丁原配下の将、董卓に丁原を裏切るように言われたが断ったために、怒った董卓に殺された。
 
  武力72 知力32 政治12 魅力68 義理13
 (V以降登場)

68 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/02/15(火) 21:58:39
 諸葛亮
  諸葛謹の弟。劉備の使者として会戦を渋る孫権の元へ会戦をけしかける為に来たが、
  無礼な態度をとったため孫権の怒りを買い斬り殺された。
 
  武力23 政治71 知力68 魅力27
 
30 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:05/02/13(日) 23:04:34
 馬ショク
  諸葛亮の第1次北伐に参加し、街亭にて敗因を作り
  諸葛亮に死罪を命じられるも、帝・劉禅の一声で
  (実は人材の損失を惜しむ諸葛亮の策)
  罪を許されて以後、軽挙を慎み深慮をもって献策し諸葛亮の北伐を支える。
  諸葛亮の死後は姜維の副将として夏候覇とともに姜維を支える。
 
  しかし、街亭での敗戦後に彼が生かされたことは
  蜀の武将の間で大きなわだかまりを残すことになった。
 
13 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/02/10(木) 19:46:55
 孫権
  重臣達の反対を押し切って曹操軍20万との徹底抗戦を選択するも、
  派遣した周瑜率いる主力は赤壁で大敗。
  重臣達は一斉に反旗を翻し、孫権は殺害され、首は降伏の証として曹操に差し出された。
 
74 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/02/16(水) 08:07:19
 孫権
  呉皇帝孫策の弟。勢いに任せて何事も逸る兄をたびたび諌めた。
  しかし、そのために兄から疎まれ表舞台で活躍することはなかった。
  生活は質素、たまに酒をたしなむ程度で、人当たりもよく特に張昭との仲が良かった。
 
43 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:05/02/14(月) 20:08:30
 凌統
  凌操の子。呉の将。
  父の仇である甘寧が孫権に仕えた際、殺害する。
  その咎で追放され、憂悶のうちに死亡。
 
63 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:05/02/15(火) 20:23:48
 周瑜
  孫策・孫権に仕えて江東の支配に尽力した。
  曹操の大軍が江東に迫ると開戦を主張したが、降伏派の重臣達によって殺害された。
 
  統率 85 武力 60 知力 72 政治 36
 
93 名前:無名武将@お腹せっぷく
投稿日:05/02/20(日) 19:21:35
 【呂蒙】
  勉強しなかった
  知力0