【娯楽】幻の国家「モナー朝」【ネタ】@世界史 適当にまとめ その3

模奈亜国見聞録

400 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/07/29 11:29
 モナー朝全期を通じで、国内のニダー族と憲官(民兵)の間の抗争が続いた。
 コピペ品陶器(AA)に描かれた図によると、憲官は激しく抵抗するニダー族を
 捕らえた際には「ファビョーン」と称する火刑に処したようだ。(異説あり)
 
 このことはニダー本国の怒りを買い、たびたびモナー朝はニダー朝の攻撃に
 さらされた。ニダー軍は「エフグォ」という武器に長けていたとされるが
 それがどんな武器であるかは不明。一説によるとそれは汁であるという。
 宮殿前でニダー朝の軍使が掲げた戦書には「モナーびとに告ぐ。
 悔い改めざれば汁を与えん。」とあったことが多数の文献にある。
 
 モナー朝初期においては「憲官はこれコヴァ族なり」とのニダー族の文献がある。
 しかし時代が下ると「コヴァ族はニダーの手先」とする憲官文書が多く現れる。
 これは憲官の間でニダーを討ち払う神として信仰された胡神ブーシュについて
 コヴァ族神官が「世界を破滅させる大悪神」とする教書を発したことにより
 コヴァ族とそれ以外の憲官が分裂したことによるとされる。
 一説によるとかつてコヴァ神殿はニダー族に好意的であり、神殿草創期には
 ニダー族の信者も得ていた時期もあるとする研究もある。
 
 
408 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/08/29 18:54
 近年異常に山崎族が増加した。
 彼らは密集地においては過激(荒らし)派が多く、
 過疎地においては保守派が多いという特性を持つ。
 実際、彼らに保守られたスレは数知れない。
 少数の関係においては以外といい人なのかもしれない。
 まるでどこかの国民のようだ(w
 
418 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/09/06 13:47
 モナーの民が忌み嫌ったという「ヤマ・ザキ」とは何ですか?
 
 妖怪とも、織物スレを食い荒らす害虫ともいうが。
 
420 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/09/06 17:31
 >>418
 >>408には山崎族というものが出ていますが、それとの関係は不明。あるいは
 部族名の語源ではないかと言います。ではこの場合は何なのかというと、悪
 意を持った人間の意志が虫に変じて(霊魂が虫の形をとるという話は大林太
 良先生の著作を参考になさって下さい)、多くの人々の記憶を呼び起こすと
 いう信仰があり、その妖怪虫の事を指したそうです。
 嫌な思い出を出された事もあればいい思い出を出されて喜んだ事もありまし
 たが多くの場合過ぎ去った過去を呼び起こされる事は歓迎される事ではなく
 各地で暴動が発生し、犯人探しも行われました。
 なおこれに対し政府が何の対応もしなかった理由は今なお不明です。ボル・
 ジョアという亜種も存在したといいこれ等を総称して「ムサベ」と言いました。
 
 
412 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/09/01 02:07
 モナー朝において、ドクオ地方はかなり奇異な宗教を有していたようです。
 男性しかドクオ教徒にはなれないという戒律があり、「ドクオ」とは
 信徒のことをさす言葉です。
 上級神官は「神聖童帝」と称され、一切の女と交わらないことが要求されました。
 それより下級の僧侶は「素人童帝」と称され、遊女と交わることは許されていたようです。
 「ヒキ」の刑(前述)に処された者や「キモ」の刑に処された者(この刑を受けると
 女性と交われなくなるというので宮刑と思われる)が多く流入していたようです。
 
 バナ(石碑)資料によるとイーケメン族がこの地方の先住民だったようですが
 ドクオ教徒が支配的になるとイーケメン族は激しく迫害されたそうです。
 
414 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/09/01 03:01
 >>412
 最近の説では「ヒキ」や「キモ」に処されたものが自己防衛のために作り上げた
 宗教だとも言われていますね>ドクオ教
 
 性的なことに関しては厳格であった彼らですが、文化面では割と自由かつ
 活発であったようで「ドーセモ・テナイシ」とよばれるおとしばなしの様なものや
 「ギシアン画」とよばれる現代で言うところの漫画の様なものが盛んに出版されて
 いました。
 ギシアン画はAA陶器の柄にも影響を与えモナー朝全体に広く知られるところとなりました。
 モナ10世のあたりでは「マンドクセ」(ドクオ教典に現れる、血気盛んを戒める呪文)という
 言葉が一般モナー人の間にもかなり膾炙していたようです。
 
413 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/09/01 02:21
 ドクジョ地方の風習キボンヌ。
 
415 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/09/04 21:52
 >>413
 モナー全域で広く資料が発掘されるドクオ教とは対照的に
 ドクジョ地方に関しては資料も少なく、まだまだ未解明の部分が多いのです。
 現在まで採取された伝承によると、住民は極めて気位高く信仰心が篤い。
 悪神「イキオクレ」を恐れること尋常ではなく、解脱の境地(ターマ・ノーコシー)
 に達するための修行を、ほぼ全住民が励行しているといわれ
 諦観に徹することを目指すドクオ教徒とは大きな対称をなすとされた。
 
416 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/09/05 00:15
 >>415
 数少ない記録によると、ドクジョ地方は法の厳格さで知られていた。
 この地の慣習法「ロオカ・ルルール」では、ドクオ教徒及び「鬼女」
 (何を意味する言葉なのか諸説あり)の進入を禁止し、極めて
 閉鎖的な社会の維持を目指していたという。
 しかし、貿易立国であるモナー朝においてはこの条項の厳守は
 事実上不可能であり、この地方の住民の実に4割程度をドクオ
 教徒が占めていたという記録も残っている。
 
 また、これも今後の研究が待たれる所であるが、この地方の住民は
 「30」という数字に嫌悪とプライドの入り混じった複雑な感情を
 抱いていたようだ。倉庫跡から出土するスレの多くに、30と言う数字
 と呪いの言葉、あるいは人間の尊厳を謳った言葉がセットで綴られ
 ている。
 
419 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/09/06 14:59
 初めてモナー朝の史料を見たときから気になっていた、
 『ゴ・ヴァーク』
 とは一体何の事なのでしょうか。
 そのあとにある
 『イッ・テ・キマス』と共に不明です。
 教えてください
 
 
421 名前:姫友 投稿日:03/09/07 01:58
 最近の研究でいくつか発見があったので発表しておきます。
 
 ①「宝」に関しては私の専門分野ではないので詳しくは知りませんが、中国
  東周朝の秦で「陳宝」と呼ばれる二羽の雉の神が姿を現し、そのうち雌の方
  が「宝夫人」として祠を建てられ、崇められたようです。ちなみに当時の記
  述では「雄を得る者は王と為し、雌を得る者は覇と為す」と紹介されていま
  す。
 
422 名前:姫友 投稿日:03/09/07 01:59
 ②モナー朝の輸出品のひとつであるアスキーアート式陶器の贋作の製作過程
  において、「ミギク・リクー」と呼ばれる高度な技術が使われていたようで
  す。そこでは「カソル」と呼ばれる、粒子の直径が数十から数百μmの砂に
  水を加えてペースト状にし、それを本物の陶器の回りに塗って乾燥させるこ
  とで型が作られました。もともと砂の粒子が細かいため、出来上がった型を
  用いて作られた贋作は本物とおよそ250μmの誤差しかなく、ベテランの目利
  きでも容易には見分けられなかった、とされています。出土した型の分析の
  結果、「カソル」は火山灰の一種であり、モナー朝があった地域の地質では
  見られないものであることが判明しました。「カソル」の流入ルートに関し
  て何かご存知の方から情報をいただけるとありがたいです。
 
423 名前:姫友 投稿日:03/09/07 02:00
 ③モナー朝最大の謎の一つとされ、外征でたびたび活躍した「タシロ砲」お
  よびその砲弾が先月出土しました。私の研究室での化学分析の結果、砲弾か
  ら珪素ニトログリセリンが検出され、当時におけるダイナマイトとよく似
  た起爆剤の使用が確認されました。砲身の腐食の度合いから年代測定を行う
  と、タシロ砲は西暦3〜4世紀以前には既に発明されていたことになります
  。ユニクス団のトンネル貫通工事に関する記述では、起爆剤として唐の火薬
  が使用されたと述べられていますが、6日以内にそれまでの16倍もの通行量を
  許容するだけのトンネルを掘るには、ダイナマイトを使わなければ不可能で
  す。したがってモナー朝では、外交戦略上ダイナマイトの存在は伏せられ、
  表向きには唐の火薬と説明していたと思われます。ただし、これ以降ダイナ
  マイトおよびタシロ砲に関する記述が全く見られなくなったことから、比較
  的早い時期においてダイナマイトの使用目的が軍事から建築に転換され、や
  がて廃止となったことがわかります。これは、ダイナマイトの破壊力が危険
  視され、社会的圧力により消滅したためと思われます。したがってノーベル
  はダイナマイトを発明したのではなく、再発見したと言えます。
 
448 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/09/14 04:28
 >>422
 カソルはイタリア近辺からトルコを経由してモナー朝に輸入されていたようです。
 ベスビオ付近のものが特に有名で、
 モナー朝では「マウース・ド・ライバ」(イタリア語のモンタナ・デラ・ラバ
 (溶岩の山)がなまったもの?)とその地を呼称していたそうです。
 
 ちなみにミギク・リクーで作られたものが>>42で出ている「コピぺ品」ですね。
 
 
424 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/09/08 23:32
 プッ教との関連が指摘されているフーン族の資料を探しています。
 
425 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/09/09 21:41
 >424
 どなたかお詳しい方の降臨を待つとしましょう。
 
 > モナ20世はこれら自国の文化を強く愛し、
 > 「ネコミミとメイドが何より好き!!」
 > と叫びながら王宮の周囲を3周し、ビザンチンからの使者
 > を驚かせた、という記録が残っています。
 
 当時のビザンチン帝国は首都と周辺のわずかな村落を除いて
 オスマン帝国に包囲されており、1400年にはわずかな包囲の
 隙をついて皇帝マヌエルII世直々に援軍を求めて西欧各国を訪問しています。
 この時、西へ向かった皇帝とは別に、東へ旅立った使節がいました。
 彼らはビザンチン皇族とも縁深いモナー朝にまで達するのですが、
 当時のモナー朝は内乱に明け暮れる状態が続いており、
 使節が望んだ結果は得られませんでした。
 
 使節が市井の商店にて入手したと言われるア・スキア・ト様式
 の細密画は、1453年のコンスタンティノープル陥落時の混乱で
 一部が焼損する憂き目を見ました。
 
426 名前:続き 投稿日:03/09/09 21:42
 【使節が持ち帰った細密画】
 
    ,,v‐v-/l_  (⌒)
   _「/ ̄  く   /
   lYノノ/_ノl_ヽ))
   <イ( l l )l>  / ̄ ̄  ̄ ̄  ̄
  <|)'|l、"(フノ|l  < ■■■なのは■■■いと思いま■!
   ,(ヨリ<>o<>リ']  \___ __ _
   |ト‐!]-ム- i']l
   ヽ_ノv__l/ /
 .  ノ[//‐─‐/_/、
  ( /E|,   (フlヨ \
  ,-| El___lヨ /
 └-\`^^^^^^´/
     ̄ ̄ ̄
 
 画像の女性はメイド装束でありながら、その表情には怒り
 を露わにしており、これは内乱が続く当時の世情を戒める
 女神の画像だったのではないかと推測されています。
 また、この画像にはネコミミは検出されないことから
 この画像以外にもネコミミを伴ったメイドスタイルの画像
 が存在していたとも言われます。
 
 
429 名前:1/5 投稿日:03/09/11 09:59
 ゲオルギコ・フッサール Georgico Hussarl (1863-1936)
 
 1863年4月8日、モラヴィア北東部ジュシェジエーツ(ドイツ語名ジサーク
 ジエン)のユダヤ人街に生まれる。本名ゲオルク。父ヨフーンは布地問屋を
 経営し、母シィルビアはナンミーン(※>>119参照)の富商ダッコフ家出身。
 現象学の大家エトムント・フッサールは4歳違いの従兄弟に当たる。ゲオル
 ギコという特異な名前は、幼い頃母親をはじめとするダッコフ家の人々に
 付けられた愛称から採ったもので、ベルリン大学入学後から使用しはじめ
 る。なお、通常の名前の後に−ikoあるいは−monaを付けて愛称とする
 のはナンミーンの習慣である。
 正教徒(母)を家に迎え入れたことで、一家はユダヤ人社会からやや孤立
 状態にあり、回想録によると幼いゲオルギコはナンミーンの居留地「ヒナン
 ジョ」で過ごすことが多かった。ここでモナー人の故地に関するいくつかの
 伝承を耳にしたことが、後にモナー朝研究に向かわせた原動力になって
 いるといわれている。
 
430 名前:2/5 投稿日:03/09/11 09:59
 オルミュッツのドイツ語ギムナジウムに入学したころ、フェルディナント・
 フォン・リヒトホーフェンの中国探検の記事に接し、地理学や歴史学、特に
 内陸アジアへの興味をかきたてられる。1881年ベルリン大学(現フンボル
 ト大学)に進学し、ランケ門下で歴史学を学ぶ傍ら、大学付属東洋語学校で
 ペルシア語を習得し、モナー朝やサーマン朝、カラキタイなど中世中央アジ
 アにおける諸勢力の研究を開始。1884年にライプチヒ大学に移り、リヒト
 ホーフェンに地理学及び言語学を師事する。この時期にアラビア語、チャガ
 タイトルコ語、漢文を習得したほか、言語学者エルネスト・モナンとの出会
 いを通じてモナー語研究に取り組むこととなる。学位論文『カラキタイに
 おけるイスラム知識人の活動について』(1886)や教授資格論文『中央アジ
 アにおける非トルコ系諸勢力の交易行動』(1889)は注目を浴び、その後の
 ドイツ中央アジア史研究の隆盛に大きく貢献する。
 
431 名前:3/5 投稿日:03/09/11 10:00
 1889年にフライブルク大学に招かれ、以後退官まで同大で歴史学を講義。
 1903年から1906年にかけて発表された『中央アジア研究』全3部が認めら
 れ、1904年に員外教授、1907年には正教授に昇格。1908年に発表され
 た『歴史研究の在地性について』では、トルファンにおけるドイツ隊の壁画
 剥ぎ取りを痛烈に批判し、以後の論争の魁をなした。モナー朝をはじめと
 する彼の研究の集大成として1928年に出版された『モナー朝』(邦題『幻の
 国家モナー朝〜その娯楽とネタ』、民明書房、1946)は、現在に至るまで
 中央アジア史研究に欠かせない書となっている。
 また、モナー諸語の研究では、モナンとともに『網の愚者年代記』(1897)、
 『2ゲット』(従来のアラビア語からの重訳本に対し、初めて古低地モナー
 から直接翻訳に成功した。1901)、『ソンナーコ・トヨリモ〜モナー叙事詩
 選集』(1909)など精力的にモナー諸語文献の翻訳を実施。1911年からは
 モナー典プロジェクトの発起人として事典の編集に奔走、第一次大戦期の
 中断を経て1921年に『モナー典』を完成させるなど、モナー朝研究という
 1分野を短期間に築き上げた。
 
432 名前:4/5 投稿日:03/09/11 10:00
 1932年退官し、故郷のジュシェジエーツに隠棲するが、その後ユダヤ人で
 ある自分の研究成果がナチスによって否定されるのを目の当たりにし、心
 痛のあまり病床に伏すようになる。1936年、50年連れ添った妻シィンゲ
 ボルグに看取られ死去。享年73歳。
 
433 名前:5/5 投稿日:03/09/11 10:00
 フッサール歴史学は、実証主義の限界を認識しながらも、厳密な文献
 解釈に加えて俗謡の分析や図像の解釈など多様な手法を併用することに
 よりトータルな歴史現象を再構築することを強調する。ランケの強い影響下
 にありながらもより柔軟な姿勢を持つものであり、ブルクハルトやホイジン
 ガなどにも大きな影響を与えた。
 ベルリン大学で同門のマイネッケやリースとの交友は長く続き、なかでも
 フライブルク大学でも一時同僚だったマイネッケとの往復書簡は222通に
 及んでおり、一部は出版されている。
 また、従兄弟のエトムント・フッサールとも長く良好な関係を保ち、1916年
 のエドムントのフライブルク大への招聘に尽力したことも知られている。
 なお、ベルリン在学中に付属東洋語学校で巌谷季雄(小波)について日本
 語も修めており、門下生の居間野宇智によると、フライブルク大留学中の居
 間野に対してたどたどしい日本語を披露し、笑いを誘っていたという。
 
434 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/09/11 12:39
 居間野宇智って「今の内」のネタじゃなく実在した人なの?
 
435 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/09/11 15:26
 >>434
 もちろんですって。確かに「いまのうち」とも読めますが正しい姓名は
 「いまのたかとも」ですね。
 まあ、彼も日本人の友人にはずいぶんネタにされたようですが。
 
 彼のあだ名といえばもう一つ、フライブルク大時代の「ナー・カノヒト(間抜けな
 大砲さん)」が有名です。
 彼は気に入った本があると平気で読みながら歩いたそうです。一応口では
 「すいません、ちょっと通りますよ…」と言ってはいるのですが、全然前を見て
 いないので通行人にぶつかるわ部屋に乱入してものをひっくり返すわで
 さんざんに恐れられていたとか。
 
 と、私もあまり詳しいわけではありませんが。誰か評伝キボンタ。
 
 
439 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/09/11 19:49
 居間野宇智 いまの・たかとも 1900-1963
 
 東洋史学者。雅号仲人(ちゅうじん)。モナー史研究に新展開をもたらした人物。
 東京小石川の漬物屋「居間野屋」の次男として生まれる。宇智という変わった名を
 付けたのは、同じ町内に住む儒者茂名村賀那斎(主水)である。茂名村は、
 モナー語「イマノウチ」(現時を幸いとす)と、淮南子の「宇を天という」からとって
 「今のよいときに生まれた宇宙の智恵を身につけた人物」という意味の
 「宇智」という名付けをしたそうである。
 幼少のころより茂名村賀那斎から江戸モナー学と四書五経を習い、
 長じて京都帝国大学内藤湖南に師事。湖南の実証的な学風に強く共鳴した。
 その後湖南の助言によりフライブルク大学に留学。
 生涯の師、ゲオルギコ・フッサールにめぐり合うこととなる。
 高水準にあった江戸モナー学の伝統を受け継いだ居間野は、
 フッサールが余り得意としなかった、漢文資料に果敢に挑む、フッサールを大いに助けた。
 モナー典編纂時の中国側文献に関する解説は、全て居間野の筆であると言われている。
 彼は洋行後の生涯のほとんどをドイツで過ごしたが、ナチスには反対であった。
 このため第二次世界大戦中はヨーロッパを転々とすることを余儀なくされている。
 大戦後は日本へ帰国。母校京大で教鞭を執った。
 主な著書に『漢文史料に見える茂那亜国史』、『モナー典』、『茂名記聞の研究』、
 『ジサク・ジエン〜モナー民俗史の試み』、『或るドキュソの一生〜自序』、
 『モナー〜うずもれた猫耳の国〜』などがある。
 
441 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/09/11 20:03
 このうち民明新書で出した『モナー〜うずもれた猫耳の国〜』は
 昭和25年のベストセラー第11位に名を連ねており、
 これまで一般に知られていなかったモナー史を広く紹介した名著である。
 筆者が東洋史学を志したころは、小林高四郎の『ジンギスカン』と並び
 中央アジア史入門として学部生必読の書であったが、現在版元倒産により
 絶版となっているのはまことに残念なことである。
 
 彼は非常にまじめな人間であり、儒学をもって身を律していた。
 ドイツ時代のあだ名「ナー・カノヒト(間抜けな大砲さん)」も嫌っていたのだ。
 私はしばしば「ナー・カノヒトなどいない!
        ここにいるのはイマノタカトモその人である!」と
 怒鳴る彼を見たことがある。
 
 しかし、妻サクラー・タンさんの姿を見ると顔が緩みっぱなしであるという
 微笑ましい一面を持っていた。
 妻のサクラー・タンさんはナンミーンの一派サクラー
 (モナー語「愛らしき姫君」に由来)の出身であり、ドイツ時代に結婚している。
 妻との間に三人の子を儲けたが、
 うち一人がナチスに殺害されたことを生涯悔やんでいた。
 
 1963年、難解なサイタマ族の研究に寝食を忘れて打ち込む余り、
 体を壊し急死したことは、大いなる学会の損失であった。
 死後学士院会員に列せられている。
 
 岡義古『モナー朝研究史・第2章モナー典編纂群像』より抜粋。岡氏は居間野の門下。
 
442 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/09/12 21:05
 >>441
 居間野宇智の妻をサクラー・タンと表記するのは、岡先生が早とちり
 しちゃったせいで、本当の名前はサクラー・カルトカプトゥーレ Sacra
 CardCapture だよ。
 居間野先生がいつもサクラー・タンとよんでたのは、女の子の名前の
 後ろに -tann や -taso(tasso) をつける、というモナー朝時代からの
 習慣があったから。男の子だと、上に出てるように -monaとかになる。
 これは9世紀から確認されている古い習慣で、ロシア語の -chkaなど
 との関連性が研究されている。
 
 特別に愛らしい女の子や、非常に心惹かれる物事に対しては、強調形
 として -taso-haa-haa と語尾に付けたらしい。このhaa-haaは呼吸音
 に由来するという説があるが、いまだ明確ではないね。
 
445 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/09/12 22:12
 >>441さん
 >岡先生が早とちりしちゃったせいで、
  本当の名前はサクラー・カルトカプトゥーレ Sacra CardCapture だよ。
 
 え、そーだったんですか・・ところで、 カルトカプトゥーレって何の意味なのでしょうか・・
 神か何かの名前なのでしょうか?
 
 >特別に愛らしい女の子や、非常に心惹かれる物事に対しては、強調形
  として -taso-haa-haa と語尾に付けたらしい。
 
 -taso-haa-haaは、サクラー遺跡から出土する文書には必ず出てきますね。
 
 
437 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/09/11 18:44
 太陽を崇拝していたというサイタマ族ですが、その経典や儀式の式次第についての
 研究はなされていますか?
 
 大陽を背にして二人が叫ぶ壁画しか知らないので。
 
440 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/09/11 19:51
 やはり多くは残されてはいません。
 ジ・ミーン島にある大聖堂トーホンブにあるステンドグラスが
 かつてそこに「サイ・ター・マ」として描かれている名残かと思われます。
 
 かつて55年間に渡り支配を続けていたものの突如として現れた『シシート』に
 大敗を期し一族だけでは巻き返しが出来ず『コメート』という新興宗教をとりこみ、
 なんとか国土を回復したそうです。
 
 なかでも『サイ・ター・マ』は突撃隊の先頭にかざられた
 部族の旗だったとも伝えられています。
 
458 名前:モナー民俗学研究所アルバイター 投稿日:03/09/28 16:31
 ひさしぶりに書き込みします。
 「さいたま」について・・・
 
 >>440
 ご存知ないようですが、実は相当研究されているんですよ。
 >>441でガイシュツですが、殆ど居間野宇智が纏めたものです。
 ここのHPによく紹介されていますのでご覧下さい。
 
 さいたま情報収集所
 http://amatias.hp.infoseek.co.jp/
 
459 名前:モナー民俗学研究所アルバイター 投稿日:03/09/28 16:32
 >>437
 あの「壁画」について。
 >>440が述べられていますが・・・これでは少し誤解されるかもしれません。
 経緯から言うと、あのステンドグラスこそ、オリジナルというか由来なのです。
 
 サイタマ朝ができる少し前の話。
 当時首都を根拠地としていたジ・ミーンのモナー党(当時)が、>>258にあり
 ます「コーイキ行政」を動かして、DQNと見なしていたサイタマ族を包括的
 に支配しようと目論んだのです。そして、トーホンブ大聖堂のステンドグラス
 からヒントを得て、あのAA陶器を作りました。
 このAA陶器はモナー朝全土で多くの支持を得、多数のコピペ品が作られました。
 
 あの壁画にはサイタマ族に対する侮蔑の意味も込められていて、モナー朝の殆
 ど全州に頒布したのも、実はサイタマ族ではありませんでした。このことから
 しても、サイタマ族が作ったとは考えられませんね。つまるところ、あれはサ
 イタマ族が崇めていたものではなく、モナー党のキャンペーンの産物なのです。
 
 さいたま!AAの謎に迫る
 http://www.turnatte.com/nezha/record/saitama.html
 
 元々モナー朝の民、特に首都において、サイタマ族は侮蔑の対象でした。
 この当時より大分前の話になりますが、「ダ・サイタマ」(垢抜けないサイタ
 マ族)という言葉も流行していました。モナー朝に於いてサイタマ族の地位は
 低かったのです。彼らはモナー朝先住民の流れを汲むという説もありますから、
 まぁ無理からぬことかもしれません。
 ですから、サイタマ族は地位向上を図らんとする反骨の士が少なくありません
 でした。支配階級からDQNと見なされていたのも、彼らにコンプレックスが
 あってのことでしょう。
 
460 名前:モナー民俗学研究所アルバイター 投稿日:03/09/28 16:33
 さて、ここでアヰーカワという人物が登場します。
 彼はサイタマ族の都市国家ウラーワ出身で、当時そこの首長を務めていました。
 ウラーワ、オーミヤ、ヨーノーらの都市国家を統合する動きと、AA陶器のブー
 ムが全土に拡がっていた機会を、彼は逃しませんでした。
 彼はモナー党の支持を取り付けて統合サイタマの首長に納まるや否や、内外に
 おいて積極的な活動を行いました。対外的には、あのサイタマAA陶器を逆にシ
 ンボルとし、大量のコピペを頒布しています。
 
 それからはモナー党内部の混乱や「シシート」に敗北を喫し衰退もあって、
 サイタマは絶大な自治権を獲得、事実上の独立を宣言するまでに至りました。
 これがいわゆるサイタマ朝です。ジ・ミーンのモナー党の企みは完全に逆手に
 取られたのです。
 
 >>440のステンドグラスが「サイ・ター・マ」と呼ばれるようになったのも、
 サイタマ朝が喜捨をしたときに名付けられたようです。表ではモナー党への謝
 意を示しているのですが、皮肉、当て付けと言えなくもありません。
 
 蛇足ですが、サイタマAA陶器の中で、あの三体がドアを開け家人を驚かせる有
 名なものがありますが、これは彼らのオリジナルではなく、その宣伝活動を揶
 揄したものだとされています。
 
461 名前:モナー民俗学研究所アルバイター 投稿日:03/09/28 16:35
 さて、ではサイタマ族の太陽神信仰はオリジナルではないのかといわれるかも
 しれません。ここから先は私見になりますが・・・どうもそうではないようです。
 
 といいますのも、サイタマ朝以前から「レズ・サポー」という集団があったことが
 知られていますね。彼らは赤い服をよく着て他州に遠征し、その熱狂的で攻撃
 的な行動でサカー州ではつとに知られていますが、この「レズ・サポー」の
 「レズ」という言葉は「赤く輝くもの」という意味らしいのです。
 赤く輝くものといえばモナー朝では古くから太陽を意味しており、サイタマ族
 が太陽信仰をしていた可能性を示唆しているのです。
 
 また、モナー党がサイタマ族を揶揄するためにあのステンドグラスの像を採用
 したこと、それが広まったこと、そしてアヰーカワが逆手に取ったことという、
 経緯から考えると、サイタマ族には古くから太陽神を信仰していたと説明する
 事が合理的ではないかと、私には思えてならないのです。もし彼らの太陽神
 信仰が前提に無かったならば、経緯を上手く説明する事ができないからです。
 
 経典や儀式の式次第はどうなのかということですが、残念ながら私は詳しく説
 明することができません。「レズ・サポー」を研究する事で、ある程度理解を深
 められるかもしれません。
 
462 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/09/29 01:11
 ありがとうございます。
 サイタマ族の紆余曲折の歴史、始めて知りました。ますます式次第を知りたく存じます。
 ところで、モナー朝においては住民の体形はニ頭身が大半だったと言いますが、
 稀に八頭身の者がいたと申します。この八頭身は大変恐れられていたといいますが
 我が国の妖怪、手長足長と同じようなものですか?
 
463 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/09/29 01:54
 八頭身の者は優れた戦士でしたが妖怪として迫害されることもあったようです。
 特に独特の「>>」模様で知られる北方の少数民族「イチサン」は極度に八頭身を嫌い
 八頭身から逃れるべく移動を繰り返したといわれます。
 
464 名前:モナー民俗学研究所アルバイター 投稿日:03/09/30 23:25
 このサイタマ族が先住民族であるという説。
 いくつか有力なものがありますが、その一つは>>198にあります「ドコモ朝サイタマ」
 の歴史。この国はしばしば「サイタマ朝サイタマ」と混同されるのですが、サイタマ
 朝がモナー朝中期に建国されたものであるのに対し、このドコモ朝成立はそれよりず
 っと前のことで、全く別の国家です。
 
 詳しくは>>218-219に讓りますが、このドコモ朝。
 モナー朝黎明期に「ドコモ(広末)の変」でモナー族に制圧され滅亡します。
 このときの戦争理由に『伝統あるドコモ朝サイタマの外務大臣に・・・』とありますね。
 お解りになるかもしれませんが、当時はモナー朝の方が格下でモナー族は新興勢力だ
 ったのです。
 
 また>>208にある碑文でモナーの始源について書かれていますね。
 ヒロ・ユキ(ひろゆき)がモナー1世であるかについて、とりあえずここでは論じな
 い事にしますが、少なくともこの碑文がドコモ朝サイタマ時代の、即ちモナー朝の黎
 明期のものであることはほぼ定説になっています。また同碑文の字体文体の様式は後
 のサイタマ族のものと多くの類似点があり、これらのことから「ドコモ朝サイタマ=
 サイタマ族国家=モナー朝先住民国家」という説が作られたのです。
 
 サイタマ族を研究する意義は非常に大きいですよ。
 ここは昔からAA陶器の生産が盛んでして、モナー朝滅亡時にも>>30のようなものが
 作られています(笑)。またモナー朝においては、ドコモ朝サイタマを倒してから急
 速にAA陶器が生産・発達した歴史的経緯も考慮すると、AA陶器というのはモナー
 族本来の文化ではなく、元々はサイタマ族の文化だった可能性もあるのです。
 
 >>460を書いた後調べ直したのですが、>>440のステンドグラスも諸部族を支配した証
 しとして作成されたものらしくって、そう考えると、あのAA陶器のオリジナル図の由緒は
 本当にサイタマ族にあったのかもしれません。
 
465 名前:モナー民俗学研究所アルバイター 投稿日:03/10/01 00:24
 >>462
 「ハッ・トウ・シン」については資料が膨大で、調べるのが大変・・・
 とりあえず、生誕神話。
 8頭身モナーができるまで【秘話】
 http://uniform.oops.jp/a009-8hiwa.html
 
 それから「イチサン」が「ハッ・トウ・シン」を嫌った最古の記録がこれ。
 8頭身のモナーはキモイ
 http://piza2.2ch.net/mona/kako/1001/10013/1001353710.html
 
 
443 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/09/12 21:51
 モナー朝では歴史劇が盛んであり、
 歴史劇を専門にするジダイゲキー板という州まで存在したほどである。
 歴史劇の脚本はほとんど散逸して現存していないが、
 残ったものの中には歴史資料として価値の高いものが多い。
 
 1、モナの生涯
   モナー15世の政争を題材にしている。
   このころゴルァ派とマターリ派の政争が激しく、国は乱れていた。
   宰相だったマルミミ・モナはあくまでマターリを主張、
   ゴルァ派に虐待されそれがもとで急死し、国は益々衰退した。
   この劇ではマルミミの主張を英雄的と讃えていることが注目される。
 
 2、ぃょぅ太平記
   モナー5世期に起こった長矩公ぃょぅ虐待事件を題材にしている。
   族長を惨殺されたぃょぅ族が、苦難の末に力に勝る仇敵モララー族を滅ぼすまでの
   愛と冒険の物語。
 
 3、JOY姉妹
   謎の女王JOYの事跡を描いたものらしいが、残念ながら散逸。
   記録によれば「劇の最中に観客が嫌がって帰るために殆ど上映されなかった」
   といい、居間野宇智はこの劇そのものの存在自体を疑問視している。
 
 4、ギコがゆく
   宝と戦い続けたギコ1世の物語。
   モラーラ朝の時、ギコを無道の悪魔と見なす狂信的モララ教徒に
   脚本を没収された為、消えている。
 
 5、8と>>1と
   エエ板の豪族・八頭族と1さん族の激闘を描いた軍記もの。
   モナー史最大の激戦「キモイ島の戦い」が山場。
   「キモイデス、チョーキライデス」(汝こそ八か、よき相手なり)
   「デハサクジョイライダシテキマス」(嗚呼一よ、今こそ雌雄を決すべし)は
   名文句としてしばしばコピペで使われた。
 
444 名前:モナー朝歴史劇紹介2 投稿日:03/09/12 21:58
 6、さいたまの坂道
   さいたまの物語といわれているが、全編さいたま語により書かれているため内容は不明。
   部分的にモナー語の書入れが見られるが、
   どうやら「ジューマンゴ・クマンジュー」という食べ物をめぐる話らしい。
 
 7、千取り物語
   サ・イアーク板の隠者が、
   千取り合戦(スレの末尾をつかむ争い)に明け暮れた人々の狂態を風刺的に描いたもの。
 
 8、マス板風雲録
   マスコーミ州の騒乱の記録。
   カトゥーオ・ゴォ・エチゼー神は剣に優れた上容姿端麗、
   ヤオーイの憧れの的であり、モナー朝後期最強の武人であったが、
   ニダーと密約を結んだアサピ族の逆賊クーメの裏切りにより、悲劇的最後を遂げる。
   この劇ではエチゼ神の英雄的事跡を誇張し、
   アサピ族の悪逆無道さを詳細に描いたことで人気が高かった。
   「アサピ捏造の段」
   (アサピ族が神を貶めるために珊瑚を傷つけ、ニダーの非道を助長する場面)
   が特に有名。
 
 9、黄金の虹板(別名・脳内妹神御事跡)
   「エロガゾーうp」により誕生した多くの神を讃える内容。
   「子供見ることあたはず」と文献にあるように、神のしもべである
   12人の巫女との激しい恋愛を描いた性的な劇であった。
   巫女たちは「この世ならぬ美しさ」であったといわれており、
   みな主人公を激しく恋慕する。
   なぜか、ドクオ板で大人気であったという。
 
446 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/09/13 01:47
 モナー朝で流行した歌謡の目録が発見されたので報告します。
 今わかっているぶんでは
 「マシェリ
 「チェチェコリ」
 「ネン・ショ・ケー」
 「アロエリナ」
 これらはエエ板をはじめとして国内全土で流行しました。
 替え歌が好きなモナー朝の民は、
 それぞれの地方に膾炙するように歌詞を変更して歌ったとのこと。
 書籍やスレに表される場合、まずジエン神が歌い出す、
 というのが一般的だったようです。
 
 また、珍しいものではハンカーク地方発祥の
 「ミコ・ナス」という、神官と医者を兼務する人々の偉大さを称えた歌があり、
 独特のメロディーでハンカークに行ったことも無い人々の心をすら広くとらえたとか。
 
 
449 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/09/14 11:32
 ウォタと称される下層民は基本的に蔑視・迫害を受けていた。
 ウォタには幼女を犠牲に捧げる風習があるなどとモナー人の間で信じられて
 おり、捕らえられてヒキやキモの刑に処されるウォタも多かった。
 
 しかしウォタは芸能、工芸に精通していることが多く、アスキ・アート職人の
 多くもウォタ出身者であるという。モナー朝の文化を支えたのは彼らウォタ
 であったと言っても過言ではあるまい。
 
 
450 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/09/20 11:04
 ところでモナーといふ言葉の語源って何ですか?
 個人的にはギリシア語のモナイコス(一人だけの棲家)だと推測していますが
 
451 名前:山野野衾 ◆F6mxNHihgE 投稿日:03/09/20 11:31
 >>450
 広東の茂名県(実在するんですよ、これが)が起源とする説もあるそうです。
 
452 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/09/20 11:55
 モナイコスはヒキの風習と関係ありそうですね。
 茂名県との関係も知りたい所です。
 
 
453 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/09/20 13:40
 モナー朝の軍事力は主都だったとされるヤキーン州にはなく、ア・ンナイ地方の
 「アボーン・ヨセ」
 「アボーン・セリ」
 「アボーン・ギロン」
 の三州が保有していたと聞きました。
 アラーシが乱を起こしたり、外敵が侵入したりすると即座にここへ伝わり、
 軍を動かしたそうですが、
 首都と離れることによるクーデターなどの危険性は無かったのでしょうか。
 あと、他に有名な歌謡があったら教えて下さい。
 
 
454 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/09/20 21:05
 当時の地方の官吏
 司 智紐【じ ちちゅう】という同姓同名の特使がいたるところで現れたようですが
 特定の人物ではなく雅号として用いられたのがもっぱらの通説です。
 
 
455 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/09/22 20:10
 ちょいまとめてみまふ。
 
 モナー朝(当時はこの名称ではなかった)でAA式陶器のコピペ品がはびこって
 いたころ、イタリアのベスビオからカソル(>>422>>448参照)を輸入するため、
 闇商人たちはイタリア、モナー朝間を頻繁に行き来していた。その時の通商路
 としては陸路と海路の両方がはじめ存在していたが、労力節約のため海路の方が
 よく利用されていたため、その中継地となるギリシアにモナー朝に関する多くの
 情報がもたらされた。そのなかでもヒキはギリシア人に少なからぬ衝撃を与えた
 らしく、「東方人(モナー人のこと)はモナイコス(一人だけの棲家)に住んで
 いる」と言われるようになった。ローマ帝国ではモナー朝はモナキア(モナイコス
 のラテン語形)と呼ばれ、それがアラブ世界を経てモナーに訛り、現在に至る。
 
 
456 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/09/24 19:45
 歴史の先生が今日の授業で言っていたんですが、スペインのトマト投げ祭りはトマトを
 投げて邪を祓うという、日本の節分の豆まきに近い意味合いがあり、前モナー朝において
 邪教ユ・ウリョウの伝道師を「tomato」というもので撃退したことがその起源らしいのです。
 なんでもこの邪教の伝道師はギョウシャと呼ばれ、現在日本語で使われている「業者」は
 この「ギョウシャ」に”業深き者”という漢字をあてたものだとか。
 ギョウシャは同じ邪教のアラーシ教徒とは違い、一見プッ教徒などモナー朝に認められて
 いる普通の宗教のフリをして信者を集めるという、他の宗教には例を見ない方法でその
 勢力を伸ばしていったそうです。
 それを見かねた預言者ヒーロユーキが民衆を救うべく、モナー神に祈り授かったのが
 「tomato」です。
 「tomato」には人の誠実・不誠実を見分ける力があり、もし邪な心を持ったギョウシャが
 近づくと、その魂を吸い取るとして大変恐れられたらしいのです。
 ただ、この「tomato」については、新しい法制度とも神仏像とも言われ、詳しいことが
 一切分かっていません。
 個人的にはローマの「真実の口」のようなものだと思うのですが、皆さんはどう思われますか?
 
457 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/09/25 20:29
 >>456
 私の推測にすぎませんが、一種の踏絵だと思います。
 だとすればギョウシャという言葉と同時期にtomatoも日本に伝わり、
 それがキリシタンの踏絵へと変化したのかもしれませんね。
 
 
466 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/10/01 00:46
 でニダー民族がモナー帝国を脅かし始めたのがいつ頃でしょうか。
 
467 名前:モナー民俗学研究所アルバイター 投稿日:03/10/01 01:23
 >>466
 ありました。最古の記録がこれです。
 アイゴー!誰かこのキャラに名前をつけて!!
 http://teri.2ch.net/korea/kako/984/984637637.html

 檀君歴(ニダー帝国歴)4334年3月15日ですか。
 思ったより後世ですね。
 
468 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/10/01 23:54
 太陽神「ダ・イチャン」信仰について何か知ってる人はいませんか?
 何でもダ・イチャン教徒は勝負事に勝つことをよしとしない習慣を持っていたと
 聞いたのですがこれは本当なのでしょうか?

470 名前:モナー民俗学研究所アルバイター 投稿日:03/10/05 02:59
 >>468
 あの教団のことですか?
 「ダ・イチャン教」ではなく、正確な教団名は「ハマ・ファン」です。
 ここで「ダ・イチャン」が主神として祀られていた時期がありましたが、
 そのときのことでしょうか。
 
 「ダ・イチャン」は丸く光る形の偶像に描かれていたので、
 太陽神と同一視されていた形跡がありますが、これには異論もあります。
 その代表的なものは、寧ろ「シュー・マ・イ」に多くの類似点を見出せるというものです。
 元々教徒の多くはヨコハマ族でして、
 その産業中心地区であった「チュー・カ・ガイ」の特産品に
 「シュー・マ・イ」というものがありました。
 それが神格化されたものではないかと。
 ちなみに、ヨコハマ族は既出のサイタマ族とは無関係です。
 
 また一言申し上げておきますが、彼ら、そして「ダ・イチャン」は初めから
 「勝負事に勝つことをよしとしない習慣を持っていた」というわけではありません。
 そもそも「ダ・イチャン」は勝利の神として祀り上げられたものですから。
 
 でも、誤解を招かれるのも無理はないかもしれません。
 
 当時の教団には「ファン・タ・ジスタ」というものが蔓延していました。
 これは「想像もできないような」非理論的な諸現象を許容し是認しようという運動でして、
 一種の思想混乱現象です。これが勝利の神に適応されたらどうなるか。勝利の主神
 「ダ・イチャン」はその性格を変貌せざるを得なくなります。
 
 当時「ダ・イチャン」が発していたオラクルとして有名なものに、
 「ピッ・チャ・デニ」があります。これは「デニ」という聖霊を召喚する言葉で、
 多くの場合、自身の破滅を意味しました。
 「ファン・タ・ジスタ」の蔓延が「ダ・イチャン」自身に及んだ象徴と
 見て取るべきなのか、あるいは
 「ダ・イチャン」が「ファン・タ・ジスタ」を拡めたということにされたのか。
 どちらが正しいのか私には何とも言い難いのですが、
 「ハマ・ファン」歴史を振り返る限り、「ダ・イチャン」は
 勝負事に対する意思を明確に集中できない神と認識されるに到ったのは確かなようです。
 
 参考文献
 http://www.geocities.co.jp/Athlete/3506/86/index.html
 
 
472 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/10/09 01:08
 すいません、ちょっと調べているのですが
 ブルブ・ルガク学なんですがいまいち定義がわからなくて・・・・。
 専攻の方いらっしゃいませんか?
 
473 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/10/09 03:33
 >>472
 とくに「恐怖」に焦点をあてた心理学です。
 衝撃的な出来事で茫然自失→事態の認識→恐怖の反応にいたるまでの
 精神の動きを詳細に分析した学問で、現代心理学とも高い整合性をみせていると
 言われています。
 
 亜派で「ザクド・ムゲルグーグ学」というのがあって、
 こちらはガン・ウォタという人々によって練られたそうです。
 
 
477 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/10/15 16:17
 実は現在もモナー朝に広がった病気が再び!?
 
 恐ろしい病気を発見したそうです。
 名前は「蓮」。
 キレイな名前とはウラハラに、見たものを恐怖のどん底に陥れるとか。
 グ・ローと呼ばれる凄まじい画像を見慣れている丘板地区の住人も恐怖したとのことです。
 亜種として「連子等」(連コラ)という新たなウイルスも発見され、
 関係ない地区にも広がり被害はかなり大きかった模様です。
 
 今もチラホラと「連」は発見されており、予断は許されません。
 ブルブ・ルガク学が現在でも調査中とか。
 怖いですね、恐ろしいですね。キャー!
 
 
485 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/11/25 13:15
 モナー朝最古の文献「バーヤバーヤ」の叙事詩について
 なにか御存知の方いませんか?
 
486 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/11/25 13:49
 >>485
 詩聖ヴァーの最高傑作とされる長編叙事詩だね。
 サンクスコ語独特の表現が他言語に翻訳不能なので我々が読むのは難しいらしい
 
487 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/11/27 10:47
 自分でもちょっと調べてみました。
 インドの「ラーマヤーナ」とほぼ同時期頃に作成されたと推測されています。
 また、地方により『ウーワァン』『蒙古婦負与』など呼び方は様々なようです。
 
 「バーヤバーヤ」は主にゲムイタでおおくの人に語り継がれ、
 自己の葛藤を昇華できずに不遇を呪うという悲しき物語で共感を呼んだそうです。
 
 
488 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/11/27 23:41
 つい最近出土した古文書によると、時代はわかりませんが、モナー朝の安定期に
 人間が大地による支配から脱するという伝承が各地で語られ、その影響により
 当時の首都の商業区で大地に対する大規模な祭祀が行われたそうです。
 モナー朝では口伝のみだったが、西ヨーロッパでは『materix』というタイトルで
 三部作に翻訳・編纂されたそうです。母なる大地を子宮と見なしたのでしょうね。
 これ以外の詳しいことは今のところ全く解明されていない状態なので
 今後の研究に期待したいところです。
 
491 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/11/29 15:38
 >>488
 祭祀の際には牛追い祭りのように追いかけると聞いたことがあるのですが、
 どうなんでしょうか?
 
494 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/12/03 00:45
 >488
 『materix』(matrixous?)の祭祀についてですが、うちの大学の
 図書館でこんな詩を見つけました。
 
 逃走方一名、追跡方多数、集後乗電車、黒服黒眼鏡
 周回三千周、御台場占拠、(中略)
 逃方中央在、追方而周囲、逃方○○唱、追方皆飛散
 
 (逃げる方は一名、追方は多数、集まった後に電気車(意味不明)
 に乗る。黒服黒眼鏡の集団が環状線を三千周する。(誇張と思われる)
 御台場(ステージのことか?)を占拠する。
 (中略)
 逃げる方は中央に位置し、追う方は周囲を囲む、逃げる方が○○を
 唱えると、追う方は皆周囲に散らばる。
 
 この詩を読む限りでは、この祭祀が始ったとされる時代のかなり前から
 珍走民族により各地で行われた原始宗教の祭典(珍走団原始集会)に
 形態が非常に似ているのですが、これは偶然なのでしょうか。
 
 黒服、黒眼鏡、環状線の周回と似ている要素が多いので、これが
 モナー朝内でより洗練された形に発展してこの祭祀に発展したのでは
 ないかという仮説が出ます。
 
 仮にそうだとすると、蛮族と忌み嫌っていた珍走民族の風習をモナー
 は祭祀に取り入れていたことになり、矛盾が生じます。
 
 『materix』の祭典は本当はどのような形で行われていたのでしょうか
 また、本当に珍走民族との祭典との接点はないのでしょうか
 研究者の方々、よろしくご教授願います。
 
498 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/12/14 21:14
 >494
 その詩は、居間野氏によって江戸末期のモナー学派儒家・花谷昌斎の偽作と
 されていたはずです。
 
 花谷は後モナー朝の詩人・擬古策羅(ギコサクラ)の
 漢詩「嘲厨房詩」(ちゅうぼうをあざけるうた)を改作し、
 自らの文集「仕事人記」に載せたのですが、
 居間野氏は論文「江戸末期に於ける藻那朝研究に付いて」
 (京都大学藻那朝研究会会誌『逝って良し』第5号掲載)で、
 用語を綿密に分析した結果、御台場という用語は
 江川坦庵によって築造された東京のお台場を指し、
 モナー朝に於いては「ロビイ」と呼ばれていた事を指摘しました。
 
 居間野によれば、これはモナー朝に伝わる「黒服」といわれる
 異民族の侵入伝承(茂名記聞巻54『衛賀版伝黒服帳』)を元に、
 江戸末期の開国後の世相を憂えた昌斎が創作したものであるとのことです。
 
 後にこの説は、高良良古により否定されましたが
 (中洲又有大学研究紀要『御前もな』第11号掲載論文『茂那朝に於ける黒服伝承』)、
 更に岡義古により補強され
 (京都大学藻那朝会会誌『新逝って良し』第12号掲載論文『高良氏に対する反論』)、
 黒服という現象そのものについても校証が深まりました。
 岡氏によれば『materix』の祭典そのものがモナー14世の時に
 突発的な「祭り」として繰り広げられたものであり、
 黒服は異民族ではなくモナー人の仮装であり、
 「モナー朝を変革しようとする一種の政治活動が、祭りに堕したもの」である
 とのことです。
 
501 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/12/23 05:22
 『Materix』の外典として『Meatrix』なるものがあったようですね。
 こちらはギリシア経由でヨーロッパ世界に広まったといわれています。
 内容は豚肉の保存方法という日常生活に密接したものだったというのが
 大きな理由なのでしょう。
 
 ただ、コショウの普及とともに徐々に忘れ去られ、大航海時代に新大陸にもたらされましたが、
 未開の先住民にとってその技術は天の恵みだった、と言われています。
 
 
490 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/11/29 15:33
 FMV-BIBLO
 
 アスキアート式土器に名将流石兄弟とともに描かれる智慧の書。
 東の書家フジツーによって書かれたとの説が有力。
 主に流石兄弟の兄である、アニージャによって読まれる。
 また、その書はブラクーラを呼び出す力を持つとされる。
 一度読んだページは紫色に変色するらしい。
 
 
492 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/11/29 15:45
 大航海時代の変わった調理法を説明します。
 料理の下手な人をからかうように例えとして
 モナー朝では『ガレー船切り』と呼んでいたそうです。
 
 というのもリンゴの皮をむいたときに実よりも皮のほうが厚く
 皿に並べるとまるでガレー船のよう(船底が平らに見える)だったので
 こう呼ぶようになりました。
 
 実際のところは航海の時に野菜など傷みやすく衛生面からこのような方法が
 取られていたようです。
 
 
493 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/12/02 19:54
 青年アムーロとペルシャの帝王シャー=アズナブルとの戦いをえがいた
 『ガンダーム』という大叙事詩が流行しており、
 この叙事詩が市中で出回るや否や国民が皆これをこぞって求め、
 モナー朝の一部の州では混乱に陥り通商が停止したそうです。
 
 
495 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/12/07 22:38
 隠れ里「カベ」とはどのようなものなのですか?
 
496 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/12/11 01:36
 >495
 「カベ」は様々な文献に断片的に登場するが、現存する地図に記載されて
 いないのみならず、モナー13世が編纂させた地理誌『水系厨』にもカベ州
 (イタあるいはバン)の記述がない。
 住民は自分達の住む地域をただ「カベ」とだけ呼び、モナー朝の他地域の
 ように地名+イタと呼ばれることを嫌ったという。このことから、カベという
 言葉がイタと同様に行政区域の一般名詞、おそらく特別区といったような
 意味を持っていたことが想定される。
 このような特別区がなぜ設定されたのかについては諸説あるが、モナー
 創成期にいくつか設けられた入植試験場所としての特別行政区のひとつ
 だったという説が現在は有力である。
 
497 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/12/11 01:37
 ただしその社会は、住民の温和さ、交易従事者ナナシサーンの比率の
 低さ、モナー人の多くが忌み嫌う「ジブンカ・ターリ」(その意味については
 未詳)がこの地域ではタブー視されていないことなどを勘案すると、遁世者
 やアラーシ・チュウボウの跋扈に嫌気がさして逃散してきた者などが土着
 し、融合して形成されたものと思われる。
 なお、11世紀ごろモナー朝の各地で流行したスレの様式「イマ○○イタ 
 ニハオレ サマシカイ ナイ」(織り主の孤独さを自嘲するような独特の色調
 を呈する)は、カベが発祥の地と伝承されている。
 
 
499 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/12/15 19:45
 先日、モナー共和国に観光にいきました。そのとき様子を一部記したいと思います。
 
 広報官
 「モナー共和国アヒャポリス海軍基地にようこそ。
  この度、わが共和国では新鋭巡洋艦「サーク・ジョイ=ライ」が就航いたしましたの
  本日はお披露目を行いたいと思います。
  まず、艦橋最頂部に見えます新型レーダー「クソスレアゲイレーダー」によりまして
  敵機をすばやく索敵し、晒し上げます。
  これにより従来のアボーン爆雷を併用し防空能力を生かしながら
  ストスレ(筆者注:軍事用語か何か)が可能となっております。また・・・」
 
 このあとは専門的な話でよく理解できませんでした。
 
502 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/12/23 05:46
 モナー神話最大の神にして悪魔の一人であるタシロについて新たな発見がありました。
 モナー朝において年に一度タシロの呪いを清める祭典があることはあまりにも有名ですが、
 その祭典に伴う音楽の歌詞のラテン語訳が『Bendictmonaren』というタイトルで発見されたのです。
 その歌詞と訳を載せておきます。
 
 [コーラス]
 Estuans interius(心の中が燃えている)
 ira vehementi (激しい怒りとともに)
 Estuans interius
 ira vehementi
 Tashilo
 Tashilo
 
 [コーラス繰り返し]
 
 Sors immanis (奇妙な宿命)
 Et inanis (そして空虚)
 Sors immanis
 Et inanis
 
 [コーラス繰り返し]
 
503 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/12/23 05:48
 Veni, veni, venias,(来なさい、来なさい、さあ来なさい)
 Ne me mori facias(私に死なせないでほしい)
 Veni, veni, venias,
 Ne me mori facias
 
 [ヴァース繰り返し]

 [ソプラノソロ]
 Veni, veni, venias, Gloriosa(神々しい)
 Ne me mori facias Generosa(高貴だ)
 Veni, veni, venias, Gloriosa
 Ne me mori facias Generosa
 
 [ヴァース繰り返し]
 
 Tashilo
 Tashilo
 
 
506 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/12/25 23:22
 モナー朝中期、宋清(>177)がある食物をもたらした事は、
 モナー人の食文化に大きな影響を与えた。
 それは「ラメーン(羅雌)」である。
 これは当時の宋で流行していたラーメンを汁を嫌うモナー人の好みに合わせ
 汁なしそばに仕立てたものであり、焼うどんのようなものであった。
 麺食の習慣が存在せず、「ネギダークギョク」以外の簡便な昼食を知らない人々にとっては、
 この新しい食物は驚くべきものであったといえる。
 何しろ小麦粉の粉を麺にして食べればいいので有るから。
 
 ラメーンはやがて広く普及し、ギコ族がラメーンを販売し、
 ジエン神がそれを見守り賞賛する絵柄がどこの板にも見られるようになった。
 ラメーン職人はあこがれの職業の一つであり、
 「ラオタ」(モナー語で「神の料理人」の意)と呼ばれていたという。
 ラオタは領地を与えられ、グルーメ地方のラメーソ州を統治している。
 
 
483 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/11/17 16:16
 預言者として有名なキバ・ヤシについて知りたいのですが・・・
 
508 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/12/29 17:31
 >483
 バチカンの機密文書によれば、キバ・ヤシは、モナー朝最大の思想家であり、
 ローマ教会でも一時的に列聖されたが、その後異端者とされ、列聖が取り消された。
 
 キバ・ヤシ思想の特徴は
 1:諸世紀やヨハネによる黙示録などについて独自の解釈
 2:当時の最先端の科学と古典・聖典の大胆な融合
 3:徹底した終末思想
 の三点に集約される。
 
 キバ・ヤシは「MMR」という謎のアルファベット三文字で
 表される集団の教祖だったことがわかっている。
 
 彼は、幾度となく法難を経験している。その一つが、
 「ギャ・クテン・ノノ・ストラダ・ムス」の法難である。
 この法難で、キバ・ヤシは、裁判にかけられるが、法学者ナル・ホドゥの
 弁護もあって結果的に無罪を獲得している。
 この法難を描いた叙事詩が存在していたらしいが、現在のところ発見されていない。
 
509 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/12/31 01:25
 >508
 たしか北ローマ24代皇帝のナ・ナンダッ帝の治世下での話ですね
 
510 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/01/08 20:22
 >508
 キバ・ヤシ思想はモナー朝領域内だけでなく、
 ヨーロッパの歴史にも大きな影響を与えた。
 
 キバ・ヤシは当初、ローマ国教会において列聖されていたので、
 バチカンにはキバ・ヤシ著作の写本や、
 キバ・ヤシ思想の研究書が大量に保管されていた。
 彼の思想が異端とされ、列聖が取り消されてからも
 ひそかに彼の思想研究は続いていたようだ。
 
 フランス王フィリップ4世は、このキバ・ヤシ思想に魅せられ、
 キバ・ヤシ思想の知を独占する教皇、ボニファティウス8世を襲撃、幽閉した。
 これが1303年のアナーニー事件の真相である。このことは
 1309―1377年の「教皇のバビロン捕囚」、1378―1417の大シスマを引き起こした。
 フィリップ4世は、テンプル騎士団を解体させているが、どうもテンプル騎士団
 キバ・ヤシ思想の秘密結社だったようだ。
 フィリップ4世と彼らの間にキバ・ヤシ思想を巡るなんらかのトラブルがあったようだ。
 
 さて、キバ・ヤシ思想研究はフランス王家の秘密の学問として続いていくのだが、
 その全盛期は、カトリーヌ・ド・メディチの時代である。
 彼女は教皇クレメンテ7世の縁者であり、
 その血縁を生かして、フランスに大量のキバ・ヤシ思想の著作を持ち込んだ。
 カトリーヌの部下の一人ノストラダムスはキバ・ヤシ思想の大きな影響を受けている。
 
 その後、フランスにおけるキバ・ヤシ思想は衰退の道を辿る。
 キバ・ヤシ思想研究の衰退ははフランスの宰相を務めた
 枢機卿リシュリューの手によるものと推測される。
 
 
511 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/01/25 00:15
 モナー朝においては、抹殺、破壊を表す言葉として
 「アヴォン」なる言葉が使用されていたと申します。
 
 この言葉は、西暦886年、デーン人によるフランス破壊を記録した詩人、
 アボンに由来するものですか?


 
514 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/01/30 23:20
 『濡流報(ぬるぽ)』
 殷の時代、中国では、しばしば日照りが横行し、
 そのたびに人々は甲骨を用いた占いで天候の行方を占ったといわれている。
 この占いの結果、出された雨の知らせが、濡流報であった。
 濡流報は、日照りで苦しむ農民達に歓迎され、農民達は、祝福の意味を込めて、
 「賀(が)」と言って、濡流報を伝える者をもてはやしたという。
 「濡流報」「賀」のやり取りは、初めは言葉だけのやり取りであったが、
 やがて杖や棒を用いて相手の頭をなでる行為が加わり
 慣習化した。 後の三国時代には、連弩の技術を応用した自動式の賀装置も作られている。
 なお、現代の「ぬるぽ」「ガッ」のやり取りは、いうまでもなく、
 濡流報が元になっており、棒のようなもので相手を殴るという、一見粗暴な行為に変化しつつも、
 祝福と感謝、五穀豊穣の願いが込められていることを我々は忘れてはならないだろう。
 
 民明書房刊『知られざる甲骨文字発祥の歴史』より
 ---------------------------------------
 これって本当ですか?
 
 
515 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/02/01 14:14
 どうやらモナー朝は頻繁に鎖国していたらしい。
 これはヒトオ・オスギとよばれ
 一斉にではなく、各都市によって時期が違い、
 往々にして短期間で終わったようだが、
 それは厳しく、その間はよそ者は全く入れなかったようだ。
 教授によると
 これは主にチュ・ボの発生時期と関係があり、それで食えなくなった時に発令された。
 しかし、センヨ・ウブ・ラウザという物を持っている者は入れたようだから
 これは身分証明書のような物だったと考えられる。
 
516 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/02/01 17:18
 >>515
 ヒキ=コモリというのとは何か関連性がありそうですね。
 
538 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/02/16 03:11
 >>515
 >>387と関連がありそうですね。
 ところで「オンドゥル語」とは何なんでしょうか。
 「ダディヤーナザァーン」
 「オンドゥルルラギッタンディスカー
 「ウソダドンドコドーン」
 などの文がかなり人口に膾炙していたようで、
 「スレ」にもたびたび出てくるのですが…。 
 
 
518 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/02/04 17:55
 ヨルダン王国の現国王の母君(前国王フセイン王の王妃)は
 モナ王妃と名前だそうですが(実話)、モナー朝との関連はあるのでしょうか?
 概出だったらすいません。
 
519 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/02/05 01:36
 >>518
 国母のモナ様はイギリス人ですが(本当)、先祖はナンミーン(※>>119参照)
 の豪商で、ナポレオン時代だったと記憶していますが、イギリスに移住したとか。
 
520 名前:518 投稿日:04/02/05 13:54
 >>519
 分かりました。ありがとうございます。
 
 
521 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/02/05 23:05
 初期のモナー朝に置いて最高神とされているギコ=ハニャーンですが、
 これはモナー朝やアメザー朝の更に以前から存在したァーャシィ朝の神だったのを
 取り入れたものであるという説があります。
 他にも、人物を意味する単語「ヤシ」など、
 現在モナー朝の文化とされているものの中には
 実はァーャシィ朝発祥のものが少なからずあるようです。
 
 
524 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/02/08 20:06
 【大唐西域記・第七巻模奈亜国編】
 模奈亜人は涼州の西砂漠の中にあり、山野に依りて國邑をなす。
 旧百余國。漢の時朝見する者あり、今、使訳通ずる所三十國。
 涼州より模奈亜国に至るには、山脈に循って陸行し、
 突厥國をへて、あるいは、南しあるいは東し、その北九姓回鶻國に至る七千余里。
 その風俗は淫らなる。男子は皆露かいし、木綿を以て頭に招け、
 その衣は横幅、ただ結束して相連ね、ほぼ縫うことなし。
 婦人は被髪屈かいし、衣を作ること単被の如く、
 その中央を穿ち、頭を貫きてこれを衣る。
 禾稲・紵麻を種え、蚕桑緝績し、細紵・ケンメンを出だす。
 その地には牛・馬・虎・豹・羊・鵲なし。兵には矛・盾・木弓を用う。
 木弓は下を短く上を長くし、竹箭はあるいは鉄鏃、あるいは骨鏃なり。
 有無する所、タン耳・朱崖と同じ。
 
525 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/02/08 21:13
 >524
 あ、四庫全書総目提要にも記載されている偽書大唐西域記逸文模奈亜記』だ。
 後半が魏志倭人伝と丸っきり同じだからすぐわかる。
 
526 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/02/09 20:48
 >>524
 その文体はどこかで読んだことあるw
 
527 名前:山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM 投稿日:04/02/09 22:54
 後半どころじゃありませんよ(w)。
 
 
528 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/02/10 19:52
 模奈亜國在柔然東南山野中、世修貢職。
 
 高祖永初二年、詔曰、模奈亜擬古萬里修貢、遠誠宜甄、可賜除授。
 
 太祖元嘉二年、擬古又遣司馬曹達、奉表獻方物。
 擬古死弟吉野家立、遣使貢獻、自稱使持節、
 都督模奈亜九姓回鶻國諸軍事、安西大將軍、模奈亜國王、表求除正。
 詔除安西將軍模奈亜國王。
 吉野家又求除正模奈亜隋等十三人。平西、征虜、冠軍、輔國將軍號、詔竝聽。
 
 二十年、模奈亜國王濡流歩遣使奉獻。復以爲安西將軍模奈亜國王。
 
529 名前:山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM 投稿日:04/02/10 23:07
 安東将軍じゃなくて安西将軍ですか(w
 
530 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/02/11 09:57
 柔然とかなってるし(w
 時代が違うんじゃないの?
 
 
535 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/02/14 23:26
 ギコ王の時代、モナー国は黄金期を迎えていた。
 その黄金期に尽力したのは、宰相のコテ・ハンだった。
 こんな逸話がある。
 ギコ王が即位して間もない若き頃、モナー王国の女性の間で男装が大流行した。
 もともと、ギコ王の好みで后妃やその侍女に、男装させたのがきっかけ。
 女性が活動的な服装で街を闊歩し、流行が国中に広がっていった。
 男たちの間では賛否両論、国を巻き込んだ論争になった。
 そんなある日、宰相のコテ・ハンはギコ王を宮殿にて謁見した。
 「王よ。今日限りお暇をいただきとうございます。」コテ宰相はおもむろに切り出した。
 「予の政が不満か?」ギコ王は不快な表情をあらわにした。
 「そうではございません。理由は私はこれから罪人になるからです。」
 そう言ったコテ宰相は、すっと立ち、
 王の隣に座る后妃の近くに侍る多くの侍女たちに近づいた。
 悲鳴が上がった。
 コテ宰相は、侍女たちの男装の服を、新しく発明されたはさみで順に切り始めたのだ。
 「気でも触れたか!宰相!」王が叫ぶと同時に、近衛兵がコテ宰相に飛びかかった。
 取り押さえられたコテ宰相は言った。
 「今この国は滅びようとしております。
  この国では服装に男女の別無く、皆が同じ服を着るようになりました。」
 自分の好みの批判と察して、ギコ王の眉間に青筋が浮かんだ。
 かまわず宰相は続けた。
 「その結果、女は家庭を守らず、家事を放棄し街に出るようになりました。
  そこから親子の順、年令の順、身分の順も乱れ、礼は地に落ちました。
  王よ。礼を失った人間は人間ではなく
  人間の居なくなった国は国では有りません。」
 ギコ王は、宰相が命を賭けて何を言いたかったのかをすぐに察した。
 「宰相よ。予が悪かった。許せ。おろかな予にはやはり宰相が必要だ。
  予の元を去らないでもらいたい。」
 こうして、男装の流行も無くなり、何よりも礼を重んじる国家となったモナー国。
 ギコ王の時代には、モナー国内で反乱など一切起こらなかったという。
 
537 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/02/16 00:43
 モナー人の性別はどのようにして見分けるのですか?
 今まで見た壁画や陶器画の人物像では、性別が判別しません!
 
 
539 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/02/16 15:35
 モナー朝滅亡の原因は、牛の伝染病によってモナー人の主食であった牛肉と葱煮込みが
 供給不可能になり、怒った民衆による暴動、と聞き及びますが・・・
 
540 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/03/01 00:28
 吉利を象徴するギュ・ドヌで国が滅亡したというのは間違った俗説の一つに過ぎない。
 野次馬がエスカレートして反乱を起こしたのも事実だけど、すぐに鎮圧され、一年足らずで
 屋台にも再びギュ・ドヌが売り出されるようになって後遺症が全く残らなかったそうな。
 
541 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/03/01 00:33
 新しい説では、モナー朝滅亡の原因は、トリフルエンザと言う伝染病が蔓延し、
 国力が低下した結果、周辺遊牧民族の侵入を許したって。極々少数説だけどね。
 今後の研究の成果が待たれる。
 
 
542 名前:山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM 投稿日:04/03/01 00:35
 モナー人の被り物は実は帽子ではなく顔全体を覆ったもので、家族以外には
 素顔を見せなかったというのは本当ですか?
 見られた時点で一族の恥として相続権を全て失ったそうですが。
 他者と見分けをつけるために「トリプ」なる標札が必要とされ、偽造した者
 は極刑に処せられたとか。
 
543 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/03/01 11:32
 >>542
 ああ、それはモナー人ではなく、ニダー人の事ですよ。
 執拗にモナー人を敵視し、そのくせモナー人の高度な文化に憧れ盗むニダー人。
 被り物をして「自分はモナー人」と名乗るのだが、
 エラが張っているので他国人もすぐにわかったという。
 確かに「トリプ」はモナー人でも使用していましたが、
 使い方がまったく別だったようです。
 ニダー人の極刑はとても残酷だった様ですね。
 ニダー人は、あらゆることでモナー人をコピーしようとするので、
 遺跡の発見当初はモナー人と勘違いされていた経緯があります。
 あと、左翼思想家の政治的意図で、モナー人とニダー人を混同している文献もあります。
 古い学術書かもしくは左翼学者の著書を読まれたのかな?
 最新の研究成果は、ヒロユキ出版の「モナー朝の興亡」に記されているので
 こちらをお勧めします。
 
546 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/03/01 16:45
 ※テストに出ます※
 
 カブ州分割統治の勅令(13C中頃)
 
 人口の急増とともに、次第にモネー地方を不安定に
 させたカブ州に対する勅令がモナ13世より発せられた。
 
 カブ州は分割統治が行われ、それらは新カブ州、シキョー=イチ州、
 シキョー=ニ州に分割された(シキョーは"流れる世界"の意味)。
 
 しかし住民を無視した分割統治であったため自治政府と住民の抗争が激化。
 中央政府はこの事態を憂慮し、特に内乱状態の激しかったカブ州を住人ごと
 辺境の地「エ・クセ」に追放した。
 
 備考:「エ・クセ」では過去の出来事を記録し、
    資料として保存することを厳しく禁じている。
 
557 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/03/06 17:21
 >546
 同時期にトーシ=イパーン州も成立してますな。
 
 
547 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/03/01 21:43
 ところで皆さん
 モナー人の起源についての説ですが
 アーリア人の侵入によりマレーや太平洋上の島々に
 逃げたインド先住民のドラビタ人の中央アジアに逃げたグループと
 中央アジアに古くからいたアルタイ系の民族と
 ギリシア系やアラブ系のような民族の混成であったらしいのですが
 本当でしょうか?
 (これを唱える学者の根拠は文法面でアルタイ、
  [ l ]や[ r ]の発音でドラビダなど南方系、
  単語の面で、ギリシア、アラブ系だということですが)
 
 
548 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/03/01 21:49
 モナー一族が建国する前って何王国が存在してたわけで?
 
549 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/03/01 22:45
 >>548
 モララー王国や、サスガ王国、ショボーン王国など諸説ある。
 実態究明にはまだまだ時間が掛かるが、
 モナー王国の文明レベルに比べれば程度は低かった様だ。
 
550 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/03/01 22:46
 >>549
 ヒッキー帝国は?
 
551 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/03/01 23:04
 >>550
 それは伝説上の国家。
 伝説の君主ヒキ=コモーリ大帝がネ申から帝位を授かったなんていう伝説。
 信憑性は低い。
 
552 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/03/02 10:45
 もまいらアヤ=シィ朝を忘れていませんか?
 
553 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/03/03 20:57
 ヒッキー帝国(神話)→モララー王国→サスガ王国→ショボーン王国
 →アヤ=シィ朝→モナー
 
 ですか?
 
554 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/03/03 21:50
 そうなると『ひろゆき教』はいつからですか?
 
556 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/03/06 15:42
 ジサーク=ジ=エーン王は?
 たしか、モララー王国を滅ぼしたった数年間だけ存在した
 世界最大の帝国を築いた王様だったはず
 
559 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/03/06 22:17
 >>556
 ネコゴ・ロシ・ルディの乱により、モララー王国は荒廃し、王朝は弱体化した。
 後の世に、ギコ王を拉致しようとした事で有名なタカラ族から
 この乱に終止符を打つ人物があらわれた。
 それがジサーク=ジ=エーンだと聞いております。
 モララー王国を滅ぼしたといわれておりますが、実際は最後の王を排除し、
 王家を継承した形だと言う説もあるそうです。
 とにかく戦略眼に優れた人物で、立った数年でかなり版図を広げたようです。
 ただ、戦場で受けた流れ矢の傷が元で、王になって数年で亡くなったとの事。
 ジサーク=ジ=エーンの急な死によってタカラ族の政権はあっけなく崩壊し、
 ポカーン族が勢力を伸ばし、サスガ王国が誕生したと聞いております。
 
560 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/03/06 22:44
 >>559
 付け加えです、
 ネコゴ・ロシ・ルディ(ジサーク=ジ=エーン)の侵略に滅びた王国のひとつ
 アヒャー王国の最後の王アヒャ=ヒャヒャー=ヒャー14世の子、
 アヒャ=ヒャー=ヒャードラ1世が現ネパールの地を征服しアヒャー朝を建国
 この王朝は、4代王アヒャ=ヒャードラ4世と次王アヒャ=ヒャードラ5世の代に
 現ネパール並みの領土を確保した。
 以後230年繁栄したが、突如進行してきた除・馳沖(ジ・チチュウ)により崩壊した
 
561 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/03/07 01:48
 >>560
 アヒャー朝末期、必死に除・馳沖軍と戦って壮烈に果てた
 将軍クックルの存在を忘れてはならない。
 クックル将軍は『前世は鳥』と言っていた程の鳥好きで、
 自分の伝令鳩(クックルー)を有していた。
 国境を守備していた時に敵軍が襲来し、クックルーを宮廷に飛ばした。
 その時、敵軍三十万に対し、自軍は僅か五万。
 しかし、獅子奮迅の奮闘をし、一時は敵軍を三十里後退させる程だったが、
 人海戦術の前に敗れ、五万の将兵と共に全員討死。
 戻って来たクックルーは主人の死を悟って自ら命を絶ったという……。(つД`)
 
562 名前:560 投稿日:04/03/07 04:13
 追加
 除・馳沖(ジ・チチュウ)一族(除家)は秦の時代より続く名門官僚家で、
 その時代その時代の君主に反発するというとても挑発的な一族であった
 特に前漢末期の除・衛(ジ・エイ)は新王朝創設と共に独立し、
 以後50年以上にわたって交州・広南の地を支配した
 そしてアヒャー朝を襲撃した除・馳沖は時の中華王朝の遠征部隊長として
 アヒャー朝を攻め滅ぼした後、その地に山尖(サンセン)国を建国し
 中華王朝から柵封を受けた。
 しかし、中華王朝内部が反乱や内乱が起こるとほぼ独立国波の自治政治を行ったが、
 その自治の為に国内は『鏝藩(コテハン)国』や『那南孜(ナナシ)国』などの
 小国に内部分裂し国家として衰えた。
 最後は山尖国に服従していた異民族『武楚胡』(ムソウ)によって滅ぼされた
 
564 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/03/07 18:05
 ス連邦は?
 
565 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/03/07 20:07
 >564
 強大なモナー朝に対して(と言っても敵対していたわけではない)
 385もの多数の弱小国家群が連邦を結成したけど
 それでもモナー朝の数十分の一という規模にすぎなかったな。
 
566 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/03/07 20:16
 モナー朝はマーチ=ビビエス国と連邦を結成していたけど
 モナー朝側が圧倒的に強大で、マーチ=ビビエス国は
 事実上モナー朝の一州というのが実態だったな。
 
567 名前:560 投稿日:04/03/07 20:17
 >>564
 >>565に追加
 元々はアメザー朝滅亡時に混乱を起さない為という目的で作られた
 アメザー朝建国民族と同じ民族の弱小国の同盟
 アメザー朝衰退後、モナー朝と主導権対立をした物の、圧倒的な武力差で破れ衰退した
 
 
555 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/03/06 15:36
 世界を震撼させたという「サーガ・ケン・サーガ・シ・17」について教えてください。
 後年、サーガを歌った詩も書かれたほどだと言うことですが。
 
558 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/03/06 20:08
 とりあえず過去レス全部読むといいと思うよ。
 
 
571 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/03/17 11:42
 13世紀半ばにモナー朝が総力を挙げて鶴を育てたという記述を読んでからは
 気になってしょうがないのですが、これについて研究をなさっている方に
 ご説明をいただけるとうれしいです。
 
586 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/05/15 00:42
 >571
 「オ・ラナイ・カ」事件ですね。ある時、王朝霊廟に於いて不心得者がお使い姫の
 鶴を焼死させた為、民衆がこぞって鶴を育てて霊廟に寄進したということだったと思いますが。