【娯楽】幻の国家「モナー朝」【ネタ】@世界史 適当にまとめ その4

模奈亜国見聞録

590 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/05/28 01:37
 どなたかモナー近現代史に詳しい方おられませんか?
 
591 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/05/28 20:32
 >>590
 モナー近現代史はスターリンの粛清で大分ダメージ受けているからなあ、
 
 
593 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/06/19 20:34
 殺伐とした神格が多いモナー朝にあって、14世紀に急に登場する残虐な
 女神がいる。残された画像石やイブン・バティストゥータ『三大陸蹴球記』
 によると、この女神は鋭利な刃物を振りかざし、容赦なく人首を刈るとされて
 いる。
 一方でこの女神の狂信者達は一般人に徹底して嫌われたという。ヒンドゥー
 教のドゥルガー女神等との関連が指摘されているが、この信仰運動について
 詳しい方、解説キボンヌ。
 
594 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/06/20 00:38
 >593
 
 「ガクシュルム」と呼ばれる寺院に祭られた「ネヴャダ女神」のことでありますか?
 「ヒキオタ族」に崇拝された邪神であります。
 
 
598 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/07/08 01:43
 モナー朝の少数民族シイ族が暗殺集団ギャクサク・テューンに大虐殺されたそうだけど
 詳しく教えて。
 
599 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/07/22 20:07
 >>598
 シイ族は当時から差別され、人間として扱われていなかったようです。
 やがて大富豪の間で「スレ」にシイ族の血を塗りこむというのが流行り、
 金に目がくらんだ一部のスレ職人がシイ族の血を塗りこんだスレを作っていました。
 しかし大富豪の間では流行ったものの人の血がついているスレは一般受けはせず、
 彼らは大富豪直属のスレ職人たち「ギャクサク・テューン」となったようです。
 このころからの軋轢が後の近・現代史のシイシイン共和国独立紛争の原因となったと
 いわれています。
 
600 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/07/28 00:17
 >>598>>599
 一方で大富豪派の文書によれば、
 シィ族は無知無教養、貧弱なくせに傲慢で自分たちは神から愛された存在だという
 不遜極まりない性格の持ち主であり、これに鉄槌を振るうは当然だという。
 これほどまでに憎まれたのは彼らの持つ特異な風習が原因だといわれているが…
 なお、大富豪派に反発する親シィ族派が幾度か反乱を起こした形跡も見受けられる。
 
601 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/08/10 00:10
 シィ族はもともと、遺伝的疾患からか気候風土故か男児の生存率がきわめて低く、
 そのために女性を中心とした独自の文化を持っていました。他族の男性と交わることや
 未婚の母となることは決してタブーではなく、むしろ積極的に他族の男性を誘惑したり
 していました。これがシィ族に対する差別や偏見を生んだモノと思われます。
 他方で彼らの中には高い知能を持つものも多く、
 教師、医師・看護師、あるいは占い師などで影響力を持つものもいました
 (皮肉にも彼女らの存在が、
  他部族の妬みからシィ族への偏見を強めることもありました)
 ただ彼らは少数民族であり、
 知能が高いしぃは社会にもうまく適応して多くは善良であったので
 積極的に攻撃されるということはあまりありませんでした。
 (彼女らの色香は他族の男性を数多く虜にしていたということも
  彼女らの立場を守った一因でしょう。)
 
602 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/08/10 00:12
 こうしたバランスを崩したのは、
 モナー朝治下でアスキアト地方を中心に何度か起こった
 「サツバティズム」
 (人間は常に努力し、向上し、
  それをしない弱者・愚者は淘汰されるべきだという思想)
 「マターリスム」
 (努力や向上を否定し、ひたすら現世・現状の安穏を求める思想)
 の論争でした。
 
 この論争では当初はシィ族はどちらにもついていませんでした、
 一部のシィ族が「マターリスム」の側に立って積極的な発言を繰り返し、
 それに影響を受けた支持者を大きく拡大しました。
 彼女らはコレによってシィ族の地位向上をもくろみましたが、
 彼女らの思想はどんどん過激となり、
 またシィをもっともマターリの神に愛された民族であるとする選民思想になりました。
 ついには
 「働くなんてマターリじゃない。おいしいものやお酒を持ってるのに
  しぃにくれないのは悪魔の手先だよ!」
 という発言で彼女らと支持者が富豪を襲撃し
 金品を奪って、それで乱痴気騒ぎをするという次元が頻発するようになりました。
 
 これは一部マターリニストの離反を招き、
 シィ族は(この論争に加わらなかったものも含めて)
 単なる差別対象から攻撃対象となっていきました。
 とくにシィ族に攻撃対象ににされ、生命・財産をねらわれた大富豪達の
 怒りはすさまじく、大富豪波の宣伝戦略により彼らは淫祠邪宗の徒として
 嫌われ、あちこちで迫害されるようになったようです。
 
603 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/08/12 15:35
 シィ族の暴動(>602)及びそれに対抗する大富豪の
 抗争は、モナー州・チョヘンエエ州全土を巻き込んだ
 大抗争に発展、更に大富豪を支援したモラーラ朝の介入により
 前後十年に及ぶ激戦が行われた。(>330参照)
 これを「シィ・モラーラの乱(虐殺房の乱)」と称する。
 シィ族は
 「モナ・モラーラなどただの猫ではないか!」
 「シィを国王としディ(シィ族の支族)を宰相とし
  楽しくマターリしよう」
 「たたかいに加わらないシィは
  地獄行き、たたかって死んだシィは永遠の命を得る」
 などのような煽情的なスローガンを掲げ、やがて二州に
 とどまらず周辺の州までも襲撃し、それにニダー族や
 アサピー族などが加わり、一時はモナー朝王宮を占拠したという。
 
 この大乱を修める為、モナー朝はこれまで公認していなかった
 コブ派やケンカ・チューを急遽公認し、シィ反乱軍と戦わせたが、
 全土に及んだ大乱の結果国土は荒廃し、やがてシィの死によって
 終結した反乱の後、遂にウイグルの侵入を受け、滅亡した。
 
606 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/09/01 01:13
 マターリスムの語源となった「マターリ」は、「安楽」「平穏」などと訳されますが
 元は「平和」「安全」を意味する言葉であったようです。
 モナー朝初期の混沌に疲弊した民衆が、
 神々に「マターリ」を祈願したという記録があります。
 また政治的安定をもたらした王への賛辞として
 「マターリをもたらしたる者」という言葉が墓碑に刻まれていたりもします。
 国が安定すると、その指す意味は内面的なものとなります。戦争はなくなりましたが、
 国の発展と共に、旧来の共同体が崩壊し産業構造も変わり、貧富の格差も広がりました。
 こうした社会不安や物欲主義、
 サツバティズムに代表される個人主義・競争主義への不安から、
 精神のよりどころとしての「マターリ」を
 追求する思想が生まれました。これがいわゆる「マターリスム」です
 
607 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/09/01 01:31
 当初のマターリスムは、知的・精神的向上によって物欲や利己主義を
 克服し、精神的幸福をめざそうとするストア派哲学にも似た思想でした。
 ですがこの思想は一部の知識人や富裕階級、貴族にはうけたものの、
 非現実的であり、大衆や中産階級には広がりませんでした。
 つぎに、日常生活で快楽の状態を作り出し、それによって
 精神的幸福と平穏を得ようとする思想が生まれました。
 快楽の状態を作り出すために、心のコントロール方法が研究されたり、
 また体操・ヨガ、アロマや花などが使われました。現代にも通じる考え方ですが
 これはいわばエピクロス派的思想であるといえます。
 この思想は中産階級を中心に支持されました。
 彼らの一部では、快楽を得るためのツールとして酒やドラッグまでも使われるようになり
 社会問題にもなったようです。
 またこの思想は時代が下り支持層が広がるにつれて、
 本来の目標であった精神的平穏は軽視されるようになり、
 「快楽」そのものが「マターリ」と見なされるようになりました。
 この思想を信奉する者の一部が過激化し、しぃ族の事件のような問題を起こすのは
 ある意味では自然な流れといえます。
 
 
597 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/07/07 19:18
 モナー史における謎の存在tanasinnについてご教授下さい
 
604 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/08/13 16:37
 >>597
 tanasinnについては学者の数だけ説があると言われているほど、
 意見が分かれまくっている存在ですからねぇ・・・。
 私は16世紀の修道僧であり、植物学者でもあった
 シラ・ネィヨン(一説にはエ・クセ出身とも言われる)氏が主張した
 「何者かによる愉快犯的な一種の集団催眠事件」という説を推しますがね。
 
 
608 名前:& ◆oMCOYq7N06 投稿日:04/09/02 12:49
 すみません、最近文献を読み始まった者です。
 「香具師」という単語が時々出てくるのですが、発音も意味も分かりません。
 ここで聞くのが正しいのでしょうか?
 
609 名前:山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM 投稿日:04/09/02 16:03
 「こうぐし」。地理的に交易の要地であったモナー朝では四方八方から集った
 商人たちの姿が見られましたが、中でも社会的地位が高いとされたのが香
 料を扱う人々でした。
 香具師というのも本来はそうした高位の商人たちを指した名称であったそう
 ですが、現代でも呼び込みに「社長さん」などと言う様に、相手の事をわざと
 「香具師」と呼んで尊重する習慣が成立したそうです。
 「こうぐし」という発音は日本からの旅行者によってつけられたもの。
 なお現在でも露天商のことを「香具師(やし)」と呼ぶのはこれから来たもの
 で、うっかり「こうぐし」と発音してしまうと間違い扱いされます。
 「やし」の発音は日本語の「やつ」が訛ったものだといいますが、地位の低下
 もはなはだしい。
 参考文献:『八幡愚童訓』丙本、『秤の本地』、民明書房刊『敬称百種』
 
610 名前:モナー民俗学研究所アルバイター 投稿日:04/09/02 16:22
 >>608
 [ya∫i]と読みます。
 いささか侮蔑を込めた人称名詞(三人称単数)です。
 モナー朝初期では[yatu]でした。それが中期の混乱期には[yati]となり
 すぐ[ya∫i]となりました。[u]から[i]への転換は言語学上本来ありえな
 いことなのですが、これについては「香具師」という単語と混用された
 結果だという説があります。
 
 香具師[ya∫i]は元々モナー朝内外を流浪する異民族でした。芸技や
 交易で生計を立てていたといわれています。ロマみたいなものです。
 モナー族は総じて彼らを余所者扱いし内心蔑視していました。それが
 王朝の混乱期に侮蔑的な人称名詞である[yatu]とこの民族の呼称で
 ある香具師[ya∫i]が混用され後世に到った…というものです。
 
 しかしこの例に漏れず、モナー族には侮蔑的、差別的、恫喝的な表現
 が随分多いのですよね。交易立国といわれていますが文化的には閉
 鎖的でカルティックなものが多いように思います。カルトの連合国家
 ったとも言われていますが…いろんな意味で不思議です。
 
 
613 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/09/03 12:42
 モナー朝は「イタ」と称する、個人の技能別による居住区があったみたいですね
 人口の多い居住区は天候不順なところで、嵐がよく発生したとか
 
614 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/09/03 16:13
 モナー語のイタはもともと「平たいもの」と言う意味。
 技能別の居住区とみなされるが、日常的に行われるカキコ・ミという祭祀によって
 成立している祭祀共同体でもあるとされる。
 
 イタはもともと祭祀に使用される祭壇の一群を指す言葉で、
 単独の祭壇はスレと呼ばれた。
 カキコ・ミは、このスレに自らの信仰、讃歌、祈願、呪詛、夢の内容などを刻み、
 神々の降臨を待つことが一般的である。
 
 厨房と呼ばれる被差別階層がしばしば人身供儀に供されたが、
 中産階級の厨房狩りが厨房階層の存立を脅かすまでになると、
 神々の怒りによって嵐が起こるとされた。
 現在ではこれは厨房のイタ共同体に対する反乱であると理解されている。
 
 ちなみに、スレはカキコ・ミに際して継ぎ足され、
 カコ・ローグと呼ばれる一連の史料群として、モナー民主共和国の文書館に保存され、
 一部の人間しか見ることはできなくなっている。
 カキコ・ミは現在も続けられており、スレは増大の一途をたどっているが、
 これらのスレ群の文化的価値に関しては評価が一定しない。
 カコ・ローグに関しては世界遺産への登録の申請が検討されているが、
 ユネスコモナー族に対する蔑視とモナー文化に対する無理解から、
 いまだにめどが立っていない状況にある。
 
615 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/09/03 18:15
 モナー朝文化に対する評価は評価が二分していると聞いた。
 すなわち、ユネスコを初めとするヨーロッパ式の保守的価値観からは、
 そもそも文化などとは呼べないものだとみなされているそうだよ。
 ただし、モナー族の現代文明に対する隠れた貢献を評価する人たちは、
 カコ・ローグ文書などの文化的価値をことさらに仰ぎ奉る傾向がある。
 
 確かにモナー族のカキコ・ミの中には
 人類文明に対するうがった洞察がまま見られるけど、
 本質的には迷信の色彩の強いものだから、
 モナー族の世界観の史料とはなっても、
 一般的な歴史資料とするのは難しいんじゃないかな。
 
 個人的には、モナー族、特にチューボー階級と先鋭な対立関係にあったといわれる
 隣国ニダー朝に同じような文化があったのかどうか興味があるんだけど、
 誰か知らない?
 
616 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/09/03 20:30
 モナー朝の神官たちの間には相当根強いニダー嫌いが広がっていたといわれる。
 ニダーに対する呪詛についてはカコ・ローグ文書はじめモナー朝史料には頻繁に現れるが、
 ニダー朝に関する記述についてはモナー族の側の偏見をたぶんに含んでおり、
 客観的な信憑性にはかける部分が多いとされる。
 
 また、モナー朝治下には少数ながらもニダー族が生活しており、
 ニダー擁護派あるいはそれをよそおう者の手になるカキコ・ミも多数残されている。
 ただしニダー擁護派はあくまで少数派にすぎず、
 極端な反ニダー主義支持者と同様にチューボー階級に属することが多かったため、
 異端とされたア・オーリと呼ばれる呪術をしばしば行っていた。
 ア・オーリはニダーにも反ニダー主義者にも共通する習慣であり、
 モナー族の読書人階層はア・オーリの応酬(複:ア・ラーシ)は
 カキコ・ミの祭祀を汚すものとして厳しくこれを禁じていた。
 
 しかし実際に残されたイタ文書を読み込んでゆけば、
 ア・ラーシは全内容の非常に大きな部分を占めていることがわかる。
 今日ではア・オーリか否か判断に迷うカキコ・ミも多数残されており、
 ア・ラーシの占める割合については論者によって見解が分かれるが、
 究極的にはこうした悪意ある呪詛ないし自らの権勢の誇示こそが
 カキコ・ミの目的であるとして、
 モナー文化そのものの価値を否定する向きはアカデミズムに特に根強い。
 また、ニダー族以外にもシナー族やニガー族などもア・オーリの対象とされており、
 モナー文化が強い選民思想に支えられていた部分があることは否定しがたい事実である。
 モナー人の選民思想については、
 イザヤ・ベンダ氏の『モナー人とユダヤ人』に詳しいが、
 総じて迷信深いモナー人の世界観に対し、イスラエル出身の著者の目は厳しい。
 
617 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/09/03 21:09
 ニダー人とシナー人もモナー人を嫌ってるらしいね。
 モナー族の神話では太古の戦争でモナー朝がそれらの国々を治めたからって話だけど、
 ニダー族やシナー族の神話ではニダー朝とシナー朝が戦争に勝利したと
 伝えられているらしい。
 
 モナー神話ではモナー出身のメージーの神々が
 ニダーやシナーに文明をもたらしたとされるけど、
 ニダーにはイーナサック、シナーにはハンジーとか呼ばれる神々が
 それぞれモナーに文明を伝えたとされる。
 
 それぞれ神話の世界の話だからどうでもいいだろって思うんだけど、
 モナー族にしてもシナー族やニダー族にしても
 自分らが正しいって今でもやりあってるらしいね。
 傍から見てるとばかばかしいんだけど、文化人類学的には面白そうなテーマだよね。
 
618 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/09/03 21:37
 >>615
 ニダー族に関してはよく分っていない部分が多い。
 モナー語は日本にも読める人が多いけど、
 同じくアルタイ諸語との類似が指摘されているニダー語に関しては、
 モナー語とは比較にならないくらい研究が遅れている。
 モナー族のカキコ・ミに相当するものがニダー族にもあると考える研究者は多いんだけど、
 まあ言語の壁があって手をつけた人は少ないんじゃないのかな。
 
 ちなみにモナー語、ニダー語、シナー語は語彙に関しては
 結構共通するところがあるみたいだね。
 モナー語表記はシナー語表記の系統を継ぐものだけど、
 ニダー語はニダー族にしか分らない特殊な記号で表されるらしく、
 モナーとニダーのいがみ合いの一因となっていると聞きます。
 
 
620 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/09/11 11:00:37
 モナー人でありながら、
 ニダー朝やシナー朝に朝貢、三跪九叩の礼を欠かさなかったという
 アサピ族とは何者でありますか?
 
621 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/10/12 00:34:16
 >620
 アサピ族はマスコミ板6支族の一つですが、モナー朝滅亡時に
 他板住民の恨みをかい、暴徒化したケンカン・チューに襲われ
 最後の当主クーメ公(エヌス・テ公)は行方不明になり
 都市ごと滅亡した為に記録が殆ど残っていません。
 一説にはモナー朝を否定し他の国を崇める思想集団ではないかとも
 されていますが(過去ログ参照)、人種構成などは不明です。
 
 「モナーの滅ぶるはアサピに始まる。アサピは捏造をもって
  世人を瞞着し、クーメは流言蜚語をもって天下を乱す。
  アサピなかりせばモナー朝滅びず、嗚呼アサピの罪は
  人天ともに許さず」
 
 とは江戸モナー学の大家だった茂名村賀那斎の名言ですが、
 茂名村賀那斎は実はアサピ族の末裔であったとも言われており、
 一種の自虐思想にとらわれすぎた偏見であるとも言われています。
 
 アサピ族は分流のオイ・シンボ族のみが西方へ逃れることが出来たようです。
 彼らは卵を用いた「オトッコ・ドン」というモナー料理を発明した
 ヤマオ・カシロなる料理人の末裔で、憎まれモノのアサピ族の中で
 唯一技能を以ってモナー人に認められていました。
 オイ・シンボ族の研究の第一人者、東西大の溝木慶子先生によれば、
 オイ・シンボ族文書に於いては何故かモナー料理の起源をニダー族
 とするものが多く、それゆえにケンカン・チューから憎まれることが
 多く、ヤマオ・カシロも迫害を受けたようです。
 
625 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/11/08 17:29:07
 AA壁画による、アサピ族像。
 
 詞書は、アサピ族の思想をモナー朝の伝統芸能、
 「ジュゲーム」になぞらえて冷やかしたもの、とされているが
 詳細は不明。
 
 
 .              それじゃあ何かい、ウチの
                  「珊瑚珊瑚、左翼の端くれ、
      ∧_∧      捏造売国の、中国様韓国様共和国様、
     (-@д@)      覗きに露出に犯るところ、きのう人権きょう護憲
     (__|=L_)    アンポアンポ、アンポにハンタイだ、
     (_,,_,,_)    ハンタイだのフンサイだ、フンサイだの誤注進の
    彡※※※※ミ.   ミスリード似非紳士のアサピー」の報道で、
              未納が増えるって言うのか?
 
 
623 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/10/29 19:18:06
 モナー朝7代奇書の一つヤマ・ジューンの著した
 「クソミソ・テクニカ」の詳しい情報を教えてください。
 
624 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/10/31 10:42:43
 >>623
 クソミソ・テクニカはモナ−朝での同性愛文化を扱った作品です.
 モナ−朝では同性愛を強く否定する傾向はそれ程ありませんでした.
 そのため,同性愛者が迫害されたキリスト教圏からの脱出者が
 一時モナー朝に一大コロニーを築くと言う時代もあったそうです.
 
 クソミソ・テクニカはそのような時代を先取ってヤマ・ジューンによって
 描かれた作品の一つですが,ごく少数の人にしか知られませんでした.
 しかしモナー朝でその卓越したセンスが布教団体によって公開されるや否や,
 モナー朝全土に飛び火しました.ヤマ・ジューンの作品はキミ・ニ・ニャンニャンや
 ワクワク・ボウイなどがありますが,中でもクソミソ・テクニカは傑作との
 呼び声が高く,「ヤラナ・イカ」「ウホッ」などはモナー朝独特の言い回しとして
 定着していきました.ウホ=男同士の同性愛となるのはこの作品が強く影響しています.
 布教集団にはクマセンなどの書物が有ったと言いますが,詳しいことは調査中です.
 
 なお,同性愛を扱う集団には
 女性を中心としたヤ・オイーや,フジョ・シーなどもありましたが,
 彼女達とは求める男像をめぐってしばしば論争が繰り広げられたようです.
 
626 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/11/17 00:15:42
 ヤマ・ジューンの研究者である、南重慶師範大学の全不心教授は
 クソミソ・テクニカの流行こそ、当時のモナー朝にはびこっていた退廃風俗の
 象徴ではないか、と熱く語る。退廃風俗の流行期と暗黒神タシーロに関する
 文献が多い時期が重なると彼は主張する。暗黒神タシーロ崇拝の詳細は
 未だ謎とされる部分が多いが、タシーロ崇拝文書からは数多く「覗き」や「痴漢」
 となどの単語が多いことが確認されている。
 
 タシーロ崇拝文書には麻薬について書かれた事項も散見されるが、
 これは暗黒神崇拝のシャーマンが存在したことを黙示しており、
 彼らモナー朝のシャーマンは麻薬によって神懸かりの状態となる、
 南方的文化を持っていたと推察され、モナー朝の交易範囲が
 広く南アジアまで通じていたとの説を支持する者も多い。
 
 だが未だに謎の中の謎とされるのはタシーロ神関連文書うち、
 漢訳書(作成時期不明)に「田代神三倍役満了」の一節である。
 三倍役満了とは何を意味するのか、今後の研究が待たれる。
 
627 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/11/18 02:51:19
 私はクソミソ・テクニカの流行を単純に風紀の乱れと取る考え方には反対です。
 モナー朝の時代、あれほど広範囲な流行を見たことは風俗と言うだけでなく
 もっと根本的な理由があったと見るほうが自然tだと考えます。
 
629 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/11/20 00:48:30
 アリアケ侯の息女にして、ヤ・オイ伯爵夫人ショタコーンが描いたとされる
 ノートが現存している。確かに同性愛画であるが、クソミソ・テクニカの
 同性愛画とは本質的に違う事が、素人目にでも確認できるであろう。
 クソミソ・テクニカの写実的画風は、ショタコーン夫人やヤ・オイ伯領で発見
 された類似の絵画の画風とはまるで違う物である。
 
 
630 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/12/06 19:36:00
 モナー朝では部族ごとに自殺の様式が決められていたそうですが
 モナー朝の文献にある「樹海」「練炭」「腹を切って死ぬべきである
 これらはどのように扱われていたのですか?
 
632 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/12/07 01:01:03
 >>630
 おっしゃるとおり、自殺の様式は各部族ごとに特色がありましたが、
 はっきりと決まっていたのかどうかは、よくわかっていません。
 
 自殺の様式に関する決定的な文献は、王朝初期の「ノーム・ラ所見」で、
 借金苦に陥ったモナー人が、手際よく樹海に導かれる様子が詳細に記されています。
 当時は、借金を抱えたモナー人を樹海まで介添えする職人が存在し、
 「樹海へ行く」を意味する「観光する」という彼らの隠語は、市民にまで流行しました。
 樹海に入る自殺型式は、もともとはモネー地方に住んでいたカブ族の手法です。
 
 また、これとほぼ同じ時期、主に都市部において、職を持たない解放奴隷が、
 練炭を炊いた石室で集団自殺する構図の壁画が何点も残っています。
 今わの際に、彼らが炭片で記したものと考えられています。
 
 このように、自殺の様式は古代においては部族ごとの問題であったものが、
 王朝初期では、階級ごとの嗜好上の問題に変化していました。
 自殺者も、よくこの慣習を守ったため、次第に階級別の自殺手法は固定化してゆきました。
 刑罰による自死を除き、王室が自殺の様式を規定した記録は残っていません。
 
631 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/12/06 23:28:29
 「回線切って首つって氏ね」を忘れてはいかん。
 
633 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/12/12 22:18:05
 「回線切って首つって氏ね」はしばしば呪詛や死ねという意味で
 理解されがちですが、モナー朝においては一般的な別れの挨拶として
 「回線切って首つって氏ね」という語句が使われていたと伝承されております。
 
634 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/12/12 22:31:26
 最も豊富な自殺様式を誇ったのがメンヘール族です。
 漢文では躁鬱族と記されています。
 彼らの間で流行した自殺様式は「練炭」ですが、
 その他にも多様な自殺様式を備え模擬自殺も多数行われたようです。
 模擬自殺で最も多かったのが手首を斬る「リスカ」の儀式で、
 次いで薬物を多量摂取する「オーバード−ズ」が流行していました。
 
 メンヘール族がヒッキー族と交流関係にあったことが近年明らかになりました。
 
635 名前:世界@名無史さん 投稿日:04/12/14 20:43:55
 「腹を切って死ぬべきである」の句は帝国元老院選挙公報に記載されています。
 モナー朝においては多神教の傾向が強く、
 主神にして全能神「ヒロ・ユキ・ウマイボーン」
 暗黒神「タシーロ」
 少女神「ネヴァダ」など数多くの神が祭られていた。
 
 一時期、南方からモナー朝に渡来した人物が一神教を唱え、悪人に自死を促し
 さらにモナー朝の性モラルを嘆き「パンパン的」という表現を使い非難した。
 モナー公用語に「パンパン」なる言葉は無いので、
 彼の故郷の言葉であると推察される。
 研究者の間ではこの人物はネストリウス派キリスト教徒である
 という見方が定説となっている。
 
 
641 名前:世界@名無史さん 投稿日:05/02/03 23:01:03 O
 モナー朝でもオクタヴィアヌスなどの三頭政治があったと書物にある。
 一回きりで(812〜815)モナナ、モララー、ギコの三人。
 
 モナナ(モナー15世)が813年キプロスの戦いでモララーを破り、814年ギコは失脚。
 実権を取る。
 
643 名前:世界@名無史さん 投稿日:05/02/11 00:37:05 0
 モナナ(モナー15世)は後に暗殺されるが、彼の遺した言葉
 「しぃよおまえもなー」は有名である。
 
644 名前:世界@名無史さん 投稿日:05/02/13 21:03:05 0
 モナー15世モナナ(漢風諡号:武宗)は中興の祖13世モナモナ(烈祖)
 の十六男で、若い頃から明君として知られており、
 山尖国滅亡後置かれた山尖州を治めていました。
 >379の女帝JOY(平霊君)追放事件などの余波で
 混乱していた国を立て直すため、チョウヘンエエ王モララーモララー宰相)
 ・エエ王ギコと伴に一時的にまだ幼児であった14世ミニモナ(平宗)
 の職務を代行する形で三頭政治を行っていたようです。
 >641に書かれているような経緯で政敵を葬り、帝位に登った
 のですが、引退したモララーにそそのかされたシィ族出身の愛妃シィ・チャン
 に襲われ後宮に於いて暗殺されました。
 「シィヨオマエモナー」は「おお汝が族も我と同じき運命を辿るであろう」
 という呪いの言葉であると伝えられており、これ以降シィ族は
 弾圧され、初期モナー朝四姓の一といわれた栄華の日々に終わりを告げていく
 のでした。
 
 
645 名前:世界@名無史さん 投稿日:05/02/15 06:01:15 0
 マスコーミ州のムサーシを祭り上げたドゥモゥ族・
 スポーツを重んじたヨーミ族・ニダーシナーを崇拝したアサピ族、などの諸部族は、
 モナー朝最後まで戦いを辞めなかったと伝えられる、ということですが、
 一説には、イヌアッチイケーとも呼ばれるドゥモゥ族とアサピ族の対立が引き金となり、
 プソゲー・イ・ツュンヅューン族や、
 隣国との関係でアサピ族と対立したサン・ケーイ族、ヨムハ・マイ・ニーチ族
 なども参戦する大規模な内戦が起こり、
 モナー朝滅亡の直接の原因になったという説もあるようですが、どうなのでしょうか?
 
647 名前:世界@名無史さん 投稿日:05/02/17 06:48:52 0
 >645
 >イヌアッチイケーとも呼ばれるドゥモゥ族とアサピ族
 イヌアッチイケーは尊号、ドゥモゥは俗称であるようですね。
 
 >サン・ケーイ族、ヨムハ・マイ・ニーチ族
 ヨムハ・マイ・ニーチはティビー族の雅称、
 サン・ケーイはサン・フージ族の尊号のようです。
 マスコミ板は称号が多く大変ややこしい地域だったようです。
 
 >大規模な内戦が起こり、モナー朝滅亡の直接の原因になったという説もあるようですが、
 かなり有力な説ですね。 ことの発端はマスコミ板の目付役に任じられていた
 ドゥモゥ族宰相エービが寵姫ジュンとウドの甘言に乗せられ、
 密かにニダー族を崇拝し、暴虐の限りを尽くしたことです。
 エービはニダーを讃えモナーを貶めるスレを祭り挙げるように部下に
 命令しましたが、モナー朝の巡察官アベシンがこれに気づき、スレを
 焼却するように命じ、エービはそれに従いました。
 しかし、盟約を破られたアサピ族は大いに怒り、ニダーの精兵を率いて
 ドゥモゥ族に攻め込みます。ところがエービは民衆叛乱により
 既に逃亡しており、後継者ハーシも行方不明という状態で、
 ドゥモゥ族民衆叛乱軍はアサピの支配を拒み、サン・フージ族に援軍を要請、
 遂に大戦争となりました。
 
 
646 名前:世界@名無史さん 投稿日:05/02/17 00:39:51 O
 モナー朝の末裔としてキルギスに小さいながら
 モナ=ハン朝があって、シタラッバと言う州に分かれていたが、
 ロシアの貧欲なライブドゥアスキー将軍に征服されてしまったらしいのですが、
 こういった末裔諸国詳しいかたはいませんか?
 
 
648 名前:世界@名無史さん 投稿日:05/03/01 00:33:35 0
 先日、学校の図書館でレポートのネタ探していたんだが面白いものを見つけた。
 
 『モナー朝法制史』(1955年 著:猫華儀黄)
 「……つまるところ、モナー朝においては成文法は非常に単純なものしか存在せず、
  地域毎での自治が非常に発達しており、各州それぞれで実情に合わせた州法が定められていた。
  これらは各州住民の中でも発言力の高い者=ジ・チチュウたちが合議の上で定めるものであり、
  ロカ=ルルールと呼ばれる。
 
  これは大まかな内容の州全体へ影響力のあるものと
  細分化したルールを定めた各共同体=スル・ェッド毎のみに影響力のあるものの
  二つに分かれる。
 
  これは、現行の法体系で表せば
  モナー朝法=憲法
  州のロカ=ルルール=一般法
  スル・ェッドのロカ=ルルール=特別法となる。
  ただ、その効力は州によってまちまちであり、
  場所や時期によってはそれらを全く理解しない民度の低い民が
  多くを占める場所もあったことが幾つかの文献から伺える。
 
  しかし、それらの法で特筆すべき美点は適応される対象が
  身分制を超えてすべての住民を対象としている点であり、
  これはモナー朝創成期から滅亡期に至るまで一貫した為政者たちの姿勢であり、
  特に創成期の時代(4〜5世紀)においては非常に特異であると述べることが出来るだろう……」
 
 これを読むとモナー朝はその創成期から
 立憲君主国のようなものだったことが伺えるのだが、
 果たして4〜5世紀にそんな高度な国家体制を成立できたのだろうか?
 
 
649 名前:世界@名無史さん 投稿日:05/03/10 19:25:10 0
 通して読んでみたけど結局のところモナー朝って何なんだろね。
 
651 名前:世界@名無史さん 投稿日:05/03/17 17:55:08 0
 >>649
 ぬるぽ朝に滅ぼされたという幻の王朝
 
652 名前:世界@名無史さん 投稿日:2005/03/27(日) 09:11:34 0
 >>651
 がっ!朝が統一したんだよな
 
 
653 名前:世界@名無史さん 投稿日:2005/03/28(月) 00:43:21 0
 どなたか「ヌケド」について詳しい方はいらっしゃいませんでしょうか?
 
 顔を白塗りにした赤髪の怪人ということしかわからないのですが、
 歴史上の人物の名前なのでしょうか?それとも神話上の神なのでしょうか?
 
654 名前:世界@名無史さん 投稿日:2005/04/10(日) 11:59:06 0
 「二足歩行するクマと争っていた」という記述を読んだことがあるので
 神話でしょうか?
 もっぱら挑発はヌケド、襲撃はクマから、
 という図式が通常だったと推測されています。
 
660 名前:世界@名無史さん 投稿日:2005/04/20(水) 16:28:30 0
 >>653-654
 答えから先に言うと、実在の人物が神格化したものです。
 元の人物は本名ヌケレド・ヌケドナレド(異字多し)。モナー帝国メリケン州の出身。
 料理人として著名で、店は帝国内だけでも優に千を越えたといわれています。耳飾り
 がないことからモナ族の出身ではないとされていますが、あの耳なしにして白顔赤髪
 の異形は彼の姿を模した店の守護神像です。守護神は店の営業を妨げる者に対して、
 右親指を立て「オマエラオモテニデロ」と呟き殴り飛ばしたと言われています。
 
 さて、アスキアート州でヌケドがクマと戦うAA陶器がよく発掘される事をご存知の
 ようですが、その始まりは、実はよく判っていません。一説にはクマがヌケドの店で
 無銭飲食をした、あるいはヌケドの料理を食い散らかし「マズイモナ」と罵倒したこ
 とに由来すると言われていますが、肝腎のそのAA陶器が未発見なので説の確定
 に到っていないのです。まぁクマは「ツリエ」と呼ばれる不味い食物も食い漁る浅ま
 しい人の象徴とされていますので説得力はありますが。
 
 ともあれ、ヌケドとクマの戦いは有史稀に見る乱闘であり、そのことがAA陶器に多
 く刻まれ残されたという次第。
 
 あとマクドといえばケンタキ州のガネル(ガネル・ザンタズ)との戦いが有名ですね。
 
675 名前:世界@名無史さん 投稿日:2005/06/23(木) 22:10:27 0
 >>660
 ちなみに、ガネルというのは、ケンタキ州から送られた名誉称号らしいね。
 本名は、ハルラント・ザンタズというそうだ。
 
 ちなみに、ガネルが展開した店の一部には、彼の像がたてられ、多くの人に親しまれた。
 ただ、ある都市においては、あまりにも親しまれすぎて、
 何かしらの騒ぎがおこると、運河に投げ込まれたりしたそうだ。
 都市の名前は失念した。
 
678 名前:世界@名無史さん 投稿日:2005/06/25(土) 17:30:19 0
 >>675
 多分商業都市オサカだったかと
 
680 名前:世界@名無史さん 投稿日:2005/06/25(土) 23:33:57 0
 >>678
 そうそう。商業都市オサカ。しまいには、ガネルの像は、鎖につながれ、
 ドトーンボリ川(運河)の橋は、飛び込みが出来ないようにされたみたいね。
 
681 名前:世界@名無史さん 投稿日:2005/06/26(日) 04:29:48 0
 またオサカですか?
 
682 名前:世界@名無史さん 投稿日:2005/06/26(日) 09:20:41 O
 またオサカや…
 
683 名前:世界@名無史さん 投稿日:2005/06/26(日) 10:36:03 0
 オサカのドトーンボリ川流域はモナー朝建国を陰で支えた
 ナンパ・バシの本拠地なのにな。
 モナー朝建国後、一万五千人とも二万人ともいわれるナンパ・バシが
 粛清されて、その残党は地下にもぐってハンシン教を組織した。
 ハンシン教の吉日にガネルの像がドトーンボリ川に投げ込まれるのは、
 一般には単に祭りの際に群集が興奮してのことと思われているが、
 実はハンシン教徒の間では彼がナンパ・バシの粛清を皇帝に進言したと
 語り伝えられているため、それに対する報復の意味があるという。

684 名前:山野野衾 ◆a/lHDs2vKA 投稿日:2005/06/26(日) 12:56:12 0
 大坂は、元々小坂(おさか)という地名でしたが、モナー朝起源なのですか?
 
685 名前:世界@名無史さん 投稿日:2005/07/16(土) 17:23:26 0
 >オサカ
 
 後モナー朝と江戸幕府の通商関係を司った大阪茂名奉行のモナー朝名です。
 のちに日本を意味するようになりました。
 大阪茂名奉行職の下には茂名通事職があり、春日家が世襲していました。
 春日家の現当主・10代目春日茂名大夫・春日あゆみさんの話によれば、
 「マタオサカカ」とはモナー語で「わたしは日本へ行きます」の意味だと
 いうことです。
 
686 名前:山野野衾 ◆a/lHDs2vKA 投稿日:2005/07/17(日) 09:39:47 0
 >>685
 成る程、色々とありがとうございます。実にお詳しい。
 >>680では、地名の様ですが、日本の「小坂」からの移住者が14世紀に築
 いた倭館が存在し、後に日本人町と呼ばれる地域が形成された様ですね。
 そこで現地の文化と結合して、モナー朝内でも強烈な個性の文化が成立。
 勿論、「モナー朝建国を陰で支えたナンパ・バシの本拠地」は前からあった。
 旧名ナンバには、虎を崇拝する戦士たちの集団が存在したそうで、来日前
 に王仁が詠んだという、
 ナンバ津に勝つやこの虎冬ごもり 今は春べと勝つやこの虎 
 は、教科書でも有名。和歌形式である事から、疑問も出されていますが。
 
 一連の風俗を、フラシュという絵画に仕立てたものもあった様ですね。
 仕掛けがあって、絵が動いて音もしたといいますが、ヘロンの自動劇場の
 様なものであったのでしょう。
 何故か、>>200前後のサイタマと比較される事があったといいますが、由来
 というか、因縁でもあったのでしょうか?
 
687 名前:世界@名無史さん 投稿日:2005/07/19(火) 08:32:27 0
 >>675
 > ちなみに、ガネルが展開した店の一部には、
  彼の像がたてられ、多くの人に親しまれた。
 > ただ、ある都市においては、あまりにも親しまれすぎて、
  何かしらの騒ぎがおこると、運河に投げ込まれたりしたそうだ。
 運河に投げ込まれたこの失われた像を求めて
 ナイトスクプ探検隊が組織され幾度か発掘調査をしたが、
 遂に発見する事は出来なかったそうだ。